ある寄り合いでアヤシイ小川さんとアヤシイを枕詞に付けられ紹介された。ある会合でミニ講演をした際も、ナゾの男と枕詞をつけられた。
一般的には肩書きのない名刺を使っていたのだが、世間はなかなか許してくれない。
肩書きのないのは、ヤクザか政治家みたいですねとよく言われる。
大学講師の肩書きは、世間には受けがいいのだが、非常勤なので、この肩書も本人的には座りが悪い。
ときに世間受けするデザイナーの肩書きをつけているものの、もっぱら、コンセプトと方法論に終始して、実在するかたちが残らない仕事が多いので、これでもない気がする。
「ここはデザインする必要などないですよ」などと、ビジネスにはならない言葉を口走り、経理担当に怒られることもある。
デザインとは、カタチあるもの、たとえば印刷物の図案を書くグラフィックデザイナー。建物の設計をする建築デザイナーなどを身近に思い浮かべる人が多いだろうが、どちらかというと、私のほうは、土地を流れる時間と背景を感じ取り、そこにモノや仕組みを繋いでいくための企画書づくりや、一緒に仕事をしてくれる仲間に向けて、仕様書を書くことが多い。
デザイナーというより、郷土やアジアの歴史を読み漁り、フィールドワークにあけくれる裏方稼業だ。
昨日は、アジアからの旅行客の増加にともない、食事の不安を取り除き、トラブルのないように、中国語や韓国語を母国語とする留学生とともに、老舗・黒豚料理の店に陣取り、鹿児島黒豚の歴史を紐解きながら、日本語で書かれた品目を、中・韓・英語へと訳していった。
私たちにも、経験があると思うが、注文した品物が、目の前に並び、イメージしたものと違ったときの食い物の恨みは恐ろしい。アジアから鹿児島を訪れた客に、‘鹿児島ブランドとは何か’が伝わるよう、品々をひとつひとつ吟味しながら海外からの旅行者になりきって、しっくりこないところは、インタビューしながら訳していく根気とチームワークのいる地道な作業であった。
モノやシステムをつくっていくうえで私が大切にしているひとつに、インタビューを含む「観察」がある。
大学での授業の関係から文化人類学を専門とする先生方と同席する機会が増え気づいたことがある。文化人類学と、私の物事へのアプローチに共通しているものがある。
‘わたしとあなた’‘企業とお客様’など二項対立の姿勢に分類するのではなく、世界を‘主と客’に分けないで、五感を通して感じ取ったことから、モノや仕組みをつくり、試しながら修正していく方法である。
偶然にこの「彩遊記」の前、ユーモアの利いた「日中往来」を連載されていた陳耀さんも同席された。聞けば彼も文化人類学を専攻していたという。
ときに日本と中国の、見立ての違いはあるものの気持ちのよい時間が流れていった。