ここ数年、どこのグループのメンバーにも属さない孤独を自らに課してきた。
組織や団体とのつながりから一定の距離をとり組織や社会を観察したかったこともある。
組織や団体じゃなくって、「人」でしょ。って思いもあった。
つながりや、絆のある社会、ソーシャルネットワークなどどという言葉の流行に対し、いまさらというある種の違和感が発動したことにも起因する。 ※FBという、最大にして最悪?な、装置は使用する矛盾もおかしてはいるが・・。
淡々とした時間の流れのなかで、リアルな旅人のような交わりから醸し出される偶発美に惹かれていたのかもしれない。
孤独に耐えながら、全体が統一されていく演劇である能もそれに近い。
孤独であることの勇気、現代の日本でも失いかけているものだ。
能はお客さんに受けるとか受けないとかはあまり重要ではない。対象は客ではなく自分になる。
能の主要な登場人物には、シテとワキというふたりがいる。
面をつけて舞台で踊ったり跳ねたり縦横無尽に活躍してるのがシテである。それに対して、ワキは面もつけなければ、目立った動きもなく服装も地味である。
能の多くはワキの登場にはじまる。ワキが「あるところ」にさしかかる設定で、ワキはたいてい旅の途次という姿をとる。
そこへどこからともなく一人の女(男)があらわれる。これがシテである(ツレがいるときもある)。
そのうちワキの旅人はこの者(シテ)がふつうの者ではないことに気がつく。そのうち、いずくともなく姿を消してしまう。
このように、ワキが「あるところ」で正体不明のシテと出会うというのが夢幻能の基本構造になっている
何も期待していないときに、ふとワキと出会ってしまう異界。
この「ふと」で、物語が展開していく。このことを、禅では禅機と呼ぶ。
苦境があっても漂泊することで異界と出会い、リセットできる。