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彩遊記

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荘子と恵子

荘子と恵子が濠水のほとりに遊んでいた。

荘子「鯈魚が出でて遊び従容ようとしているが、これは魚の楽しみである」。

恵子「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」。

荘子「きみはわたしではないのに、どうしてわたしが魚の楽しみがわからないとわかるのか」。

恵子「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない。きみももとより魚ではないのだから、君には魚の楽しみがわからない。僕の論法は完全無欠だろう」。


それに対しての荘子の最後のセリフ

「荘子日。請循其本。子日、女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」


さて、これをどう訳す?。

一番丁寧なのは、やはり中国哲学の福永光司訳・・

 そんな言葉の遊戯は止めにして、根本に立ち返って議論しよう。きみはいま僕に魚でないのに魚の楽しみなどわかりっこないといったが、それはきみが僕に魚の楽しみの分かっていることを知っていて質問したのである。すべて真実なるものは人間の分別知や言論では捉えることはできず、議論を超えた境地で体得されるほかない。きみが議論の上で肯定するにせよ否定するにせよ、きみ自身は議論を超えたところで僕の知っていることをすでに理解しているのであるから、それと同じく、僕はまた魚の楽しみをこの濠水の橋上にいて議論を超えた境地で理解するだけである。


ふたりの決定的な違いが言葉の端々にある。
by ogawakeiichi | 2014-08-08 11:43 | アジア史&思想
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