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彩遊記

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デザインの小さな哲学(松岡正剛千夜千冊から)

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昨今、資本の一端を担うデザイン、とくに広告系のデザインに対して名状しがたい違和感を感じていたのだが、松岡セイゴー先生・千夜千冊「小さなデザインの哲学」を読み、モヤついていたわたしのデザイン地平が少しばかりクリヤーになりつつある。※本書も読んだが、松岡解説・千夜千冊の方が数倍エエです。

“デザインの小さな哲学”を書いたヴィレム・フルッサーは【デザイン】(※ここでいうデザインは構成化・意匠化のこと)を、「記号」をアウトプットし、記号の背後にあるものを前へと押し出す「脱しるし化プロジェクト」として捉えていた。

フルッサーの考える「脱しるし化プロジェクト」とはなんなのでしょう。ここでいう【プロジェクト】とは、「知性が状況を変えるために投じる網(知的ネットワーク)」をその結び目ごとに、計画を前に(pro-)進めていくもの。←抽象度を上げる訓練してないと難しいかもな・

おおかたたくさんの結び目である結節点が未来の方向へぐぐっと引っ張り上げられ、リンクされた多くのラインが一堂に動き出すイメージだろう。

フルッサーが古代アジアのナーガルジュナ(竜樹)を知ってたかどうかは知らないが、ナーガルジュナの言う―「我々は森羅万象の網の結び目 のひとつにすぎない自己」――その結び目である自己の集合体である全体が「脱しるしプロジェクト」によってそろりそろりと未来へ動き出すイメージだろう。

フルッサーはまた“デザイン”を、【都市・家・家庭・身体・性・子供・技術・労働】という8つの領域の8つのプロジェクトの総体として考えた。

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デザインには数々の歴史的ルーツがある。生命体がもつ形態や色彩に関するものはすべてデザインの起源であり、アルタミラの洞窟や幾何学に発する輪郭獲得のプロセスも、脳の認知や身体の動作との関係から生ずる動的なプロフィールも、シャネルやプラダブティック青山店も、もとはといえば疑似生命多様体をモチーフとした。

しかし、それらの【デザインの起源】も、資本の毒に侵され次第に以下のように変化していく。

(1)生産と売れ行き曲線のなかで問われ
(2)各種メディアの相克のなかで期待され
(3)マーケティング理論の跳梁に追われ
(4)アートとポピュリズムの葛藤とのあいだで恰好をつけ
(5)クリエイターぶるデザイナーの自意識になかで勝手な紆余曲折を彷徨していく。

つまり、かくして多くのデザインは商品に接する消費者の欲情を触発するためのものに成り下がってしまったのだ。

おまけに今の時代、ソーシャルネットワークに覆われ、消費者の欲情さえも複雑化していく。そのためか、個人の意思決定さえままならず、しまいにはアクセスランキングやリコメンデーションに頼らないと購買衝動さえ起らなくなっている。

かくして誰も、大枚かけた広告デザインの“美と説得力”などには目をくれなくなってしまった。

元来どんなデザインにも、そのデザインをデザインたらしめてきた母系があった。デザインを生み出してきた民族・社会・衣食住・心理などの奥にうごめく原郷のようなものがあった。

デザインは、もともとこのような“デザインマザー”にひそむタイプやコードをもとに、デザインというモード(様式)を誕生させていた。

デザイン(design)の語源は、ラテン語の“designare”から派生した。これは「計画したことを記号に表わす」といった意味をもつ。

デザイン(design)という英文つづりのなかには、「しるし」(signum)を含んでいる。しかしここでは「しるす」ことがデザインではない。ここのところを多くのデザイナーが勘違いしているのだが・・・。じつは“de-signare”に分解してみると、語源的には「脱(de)-しるし(signare)」ということだ。

ラテン語の“designare”の意味は多義にわたり、「意図・狙い・プランニング・陰謀・形にしようとする作業・装う・スケッチする」などなど戦略的に処理するといったニュアンスだ。つまり、デザインにはもともとトリック的な策略や詐術まで含まれていた。

つまり、ピラミッドや観音菩薩、トロイの木馬をつくりだし、見るものを作戦的意図をもってに驚かせること!

それがデザインであった。

数学が科学、戦争や機械の意味理解が深まらせその文脈によりモノ・コトを誕生させるのが本来のデザイナーなのである。

ピタゴラスが直角三角形の解法を見出し、インド数学が「ゼロ」を導入して以来、数学は自然についての理解の計画を数学記号に置き換えるということをしてきた。これは実のところエディティング=デザインとしての数学的なレトリックであって、トリックなのである。

かってデザインは魔術や呪術であった。デザインは個人センスを磨けばいいというものじゃあない。デザインのインスピレーションはもともと民族や歴史や社会の文脈から記憶として立ち上がってくるものなのですよ。(参照:松岡正剛千夜千冊)
by ogawakeiichi | 2014-08-19 02:59 | 情報とデザイン
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