人気ブログランキング |
ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

私的記憶整理/阿部仲麻呂

阿倍仲麻呂/晁監(698年~770年)

「あまのはらふりさけみれば春日なる、三笠の山に出でし月かも」(古今和歌集)
そう、阿倍仲麻呂が望郷の歌として、中国の地で詠んだ歌だ。
最近、ぼくの周りに仲麻呂がチラチラしだした。
いつかはちゃんと、調べとこうと思いながら、今になってしまった。

在唐36年の阿倍仲麻呂は、753年の冬、第10次遣唐使団の帰国に際し、
中国側の使節として同行がようやく許され、帰国のため揚州に下る。
船出をする長江南岸でこの歌は詠まれた。
しかしながら、仲麻呂は故郷三笠の山にかかる月を見ることはできなかった。
帰国途上の乗船した遣唐使船が遭難してしまうのだ。
ちなみに、第10次遣唐使の帰国便には鑑真もいた。

仲麻呂は、文武天皇2年(698年)中務大輔・阿部船守の長男として大和の国に生まれる。
幼少より秀才の誉れ高く、若干19歳で第8次遣唐使団(一行総勢557人。下道真備や僧玄昉らが同乗。南まわり航路)の一員として開元5年(717年)長安入り。

入唐後、太学(文武官5品以上の子弟の最高級の教育機関)で学び、日本人でありながら超難関の科挙の進士科の試験に合格を果たしてしまう。そして唐の高等官として、725年洛陽の司経局の校書(典籍を扱う役職。正9品下)への任官から、728年長安で左拾遺(従8品上)、731年左補闕(従7品上)、さらには秘書監、従三品、国立図書館長より高い地位にと昇進していく。

日本人でありながら超難関の科挙に合格し、皇帝・玄宗(唐6代目皇帝)。685年~762年、在位712年~756年)の厚い信任を得ながら大帝国での高い地位に引き上げられるというのは、個人としての能力と魅力が計り知れないものであったことだろう。国や組織の威を借りるわけでもなくこうして個人として異国で活躍した日本人がいたのだ。

こうして異国で出世を重ねていった仲麻呂も、56歳の高齢になり、ようやく「中国側の使節」という形での一時帰国がゆるされ祖国・日本に戻れることになった。しかしながら、無情にもこの船団は、阿児奈波島(沖縄本島)に到着後、北の奄美に向う途中で暴風雨に遭遇。阿倍仲麻呂が大使の藤原清河らとともに乗った第1船だけは遠く南に押し流され、驩州(現在のベトナム北部・ヴィン附近)に漂着する。

ベトナムに漂着した阿倍仲麻呂たち一行は、土地の盗賊に襲われたりして、170余人が死んだといわれる。しかしながら阿部仲麻呂と藤原清河は奇跡的に生き抜いて、755年6月、長安にたどり着く。阿部仲麻呂たちは、既になくなったと伝えられていたため交友のあった当時のスーパースター詩人・李白(701年~762年)は遭難の知らせを聞いて「晁卿(仲麻呂の中国での名前)の行を哭す」という七言絶句を作っている)、この長安への帰還は、人びとを驚かせた。

 玄宗の死後、左散騎常侍(皇帝直属の諌官で従3品)に昇進。ベトナム方面の最高長官として鎮南都護、安南節度使(正3品)に任じられる。最後は?州大都督(従2品相当)にまで登りつめる。仲麻呂は遂に日本に帰国することなく、長安で没した。

現在、西安の興慶宮公園には阿部仲麻呂記念碑がある。
 
by ogawakeiichi | 2006-05-07 12:39 | アジア史&思想
<< 私的記憶整理/司馬遷 味写シリーズ/せんたくくま >>