人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

私的記憶整理・帝国主義1《日本の戦争》

私的記憶整理・帝国主義1《日本の戦争》_f0084105_19162988.gifいつかまとめてみようと思っていた日本近代史。《帝国主義1》

1.時代は幕末から明治へと入った。外務大臣、副島種臣は、明治5年、日本とおなじように鎖国政策をとっていた韓国に対し国交をひらかせるきっかけづくりで軍艦春日を韓国に派遣した。韓国側はこれを恫喝だといい拒否した。
そりゃそうだ。なんで開国を迫ったのだろう?鹿児島を舞台とした西南戦争のおこる5年前だ。明治維新を成し遂げたエネルギーの勢いが、ちょっこら海外で試してみたくなったのか。

2.明治6年には“東莱府使”が日本人を夷テキと罵り、日本人とかかわった韓国人は極刑に処すべしと掲示。当然、日本側は激怒。西郷が征韓論を主張する。

以前の日本はこんなことで戦争の切つ掛けになるぐらい熱かったんだ。1969年ホンジェラス対エルサルバドルはサッカーの試合から戦争をおっぱじめた。


3.征韓論はおさまったにみえたが、日本は韓国に無関心ではおられなかった。明治8年江華島沖で軍艦“雲楊”が韓国の江華島守備隊と交戦。これが江華島事件である。この“威嚇”外交は成功し韓国は開国。日朝修好条約の締結となった。

ここから日本のアジア進出?侵略?が始まっていく訳だ。ただこういう動きは日本だけじゃない。そういう時代だった。
帝国主義ということばを使ったのはイギリス保守党のベンジャミン。ディズレリー。植民地を無責任な使い捨て、事業者のエゴで食い散らかすのではなく、国家で責任をもって、計画的、戦略的に経営せよということであった。ところがいまでは悪の権化的言葉になった。しかし当初は輝かし目標、国家スローガンとして各国が進んでいた。人はみえない未来に向かってあるく。国家も同じだ。日清戦争という国家がはじめて外国と交戦した戦争はいったいどこへ向かっていたのか、やはり世界の帝国主義の潮流にのっていたということなのか。(田原総一郎)

4.明治15年、韓国の兵士たちが、日本式の軍制改革に不満を爆発させ反乱をおこす(壬午事変)、つまりそのころには日本が韓国政府内に影響力をもっていた。韓国が開国して5年目のことだ。日本は軍事顧問まで派遣していたのである。壬午事変の反乱は兵士だけにとどまらず、貧民を巻き込んで、閔妃一族の邸宅を焼き払い重臣や軍事顧問の日本人将校を殺害した。そのころ韓国では大院君と、その息子、高宗・閔妃一族が反目しあっていた。
大院君×高宗・閔妃一族。大院君と高宗って親子だ。儒教の影響で親子関係に厳しい韓国でなんでこんなありさまだったんだろう?ぼくは、なかなか分かりにくい歴史の動きは、当時の権力闘争や利権争いを調べると大方理解できることに気がついた。要するに、欲が歴史を動かす。

5.当時の韓国は高宗・閔妃一族が権力を握っていた。しかし反乱軍の兵士は高宗・閔妃一族を倒し、大院君が政権を掌握。高宗・閔妃一族が頼りにしていた日本はといえば、日本公使館を襲撃され命からがら逃げ帰っていたのだった。それに対し清国は早々大量の兵をおくり反乱軍を鎮圧、高宗・閔妃一族による政府を復活させたのだった。
内が乱れると、それに乗じて外から油揚げをさらうような連中がいるってことだ。それとともに、内側にも外と提携して力をつけていこうとする連中もいる。内患外憂。

5.明治17年。親日派、金玉均は、駐朝鮮日本公使の竹添信一郎とともに日本で綿密なクーデター計画を練り、高宗・閔妃政府に対し、クーデターを起こした、これが甲申事変である。しかし、親日派のクーデターが起きれば、当然清が動く。ソウルに駐屯中の袁世凱率いる1500名が3時間で簡単に制圧。再び高宗・閔妃一族の政権が復活した。
金玉均は韓国では売国奴の代表らしいが、日本を利用したかっただけじゃないのかな。
それとも日本が利用したかったのか。どちらにしても利害は一致。


6.こうして韓国における親日勢力は一掃され、日本の対韓政策は足場をうしなうところまで追い詰められた。そしてここで、伊藤博文が登場する。伊藤が清国との和平交渉全権大使として天津にまででかけることとなる。天津での交渉相手は李鴻章。日本が仕掛けた甲申事変そのものは、失敗におわったが、天津交渉では以外にも望外の成果をえた
李鴻章の詰めの甘さが目立ちます。とくに交渉合意。《3項;将来韓国において何か変化があり、お互い、派兵するときは前もって通報する。》は、明治27年。全羅道にて新興宗教、東学党が乱を起こしたとき、日本が韓国に出兵する理由づけになった。いよいよ日本は日清戦争へと進んでいく。

8.明治27年。韓国の全羅道で、農民たちの反乱がおきる、これが東学党の乱である
そこで、高宗と閔妃一族は、東学党の乱が全国にひろまるのを恐れ、清国の袁世凱に反乱の出兵を要請。袁世凱はただちに出兵することにしたのだが、上記した天津条約にもとづいて、日本政府に出兵のことを通知してきた。

この時代、東アジアは混乱続きだ。一足先に明治維新を終わらせた日本が一番安定していたってことか。歴史に、Ifはないけれど幕末の「西郷―勝海舟」の会談で“江戸城明渡し”が決まってなければ、大混乱に乗じて欧米は幕府派と攘夷派にそれぞれの利権をねらい日本に上がりこんできていただろ。東学党とはキリスト教を西学とし、東に起こった学問である儒教、仏教、民間宗教などをあわせた新興宗教を東学と称した。それにしても、清朝末期の義和団や、最近のオーム真理教まで、宗教を隠れ蓑にした権力争いのパワーは侮れない。「戦争のアーキタイプは民族と宗教だ。」といった、知人の言葉がいまさらながら身にしみる。

9、そのころ日本では伊藤内閣が野党自由党に第一党を奪われ、命運もこれまでという状態に追い詰められていた。こうした状態を突破しようとすれば、無理にでも、外でことを起こすしかない。つまり外憂。そうなれば国内の対立など吹っ飛んで、誰もが愛国心、民族意識をかきたてられて国内は一丸になると思った。
自分の人気取りのため、国内の意思を愛国で一致させるってなんだか、低次元だ。それに踊らされる国民にも原因はあるが、愛国心って、言葉に出して言うようなものでもないと思う。愛妻家と同じ響きで背筋がむずがゆくなる。

10.外務大臣、陸奥宗光は「清国が出兵する以上、わが国も出兵するべきだ、さもないと韓国における両国のバランスがくずれてしまうと主張」」伊藤は出兵を決めた。
韓国では伊藤博文は韓国侵略の極悪人って聞いたのだが、強引に事を進めていたのは陸奥宗光だったのだ。
by ogawakeiichi | 2006-12-13 13:51 | 歴史アブダクション
<< 中華人民共和国安徽省・合肥商業... デザインメモ(未整理) >>