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彩遊記

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空海の夢・松岡正剛

f0084105_15212646.jpgぼくの母方の先祖の墓は、高野山にある。といっても和歌山県の高野山にあるのではない。薩摩川内市にある真言宗・泰平寺ってお寺だ。地元の人には弘法大師さまの高野山と言ったほうが通りがよい。豊臣秀吉が薩摩攻めの際、薩摩方の大将・島津義弘の降伏にともない両者が和睦をした場所でもある。

ここには、そのとき秀吉が座ったといわれている和睦石が残っている。その石を利用してちょっとした枯山水があるのだが、その石組みをしたのが母方の祖父だ。ぼくは祖父からたいそう可愛がってもらった。墨絵も達者で、その溌墨はまるで汪蕪生の「黄山幻幽」のようだった。

多分にぼくが今こうして、美術の周囲を彷徨しているのも祖父の血の遍歴がしっかりとぼくのなかにも存在しているからなのだろう。そんなわけで「こうやざん」というコトバの響きは、幼いころから何時の間にか、耳の記憶にインプットされていた。

本物の高野山を尋ねてみようと思いながら時が過ぎるのは早い。昨年秋。北京から日本へ向かう飛行機の中、備え付けの機内誌にある日本地図をみていた。そのとき突然日本の原風景を巡礼したくなっていた。今から思えば、人生のタイムアップまでの残り時間のことで心が騒いだのだろう。

「言霊の高野山」が「事実の高野山」になるまで実に40年が経過していた。以後、「弘法大師さま」は、ぼくの中でのっぴきならないものとなってくる。

枕元にはいま、松岡正剛氏の著書「空海の夢」がある。聖書のような読み方で傍らに置き幾度でも読み返す。あるときはお気に入りの喫茶店でデミダスの香りの中、ボールペン片手にしっかりと向き合って読む。時とともに蓮花で飾られた黄色い表紙はしだいに磨耗していく。

ぼくが、「空海の夢」をはじめて手にしたときは、まったくの五里霧中。これはどういうことかというと、書の霧の向こうに、正体の片鱗が薄っすらと見えてくるのだが、気がつけば、狐につままれたように、なんにも見えなくなっている。今度は消えてしまわないうちに面影だけでも記憶しようとするのだが、シッポを掴んだかと思うと、これが不覚にも記憶エラーを起こし取り逃がしてしまうのだ。

ふと「求聞持法」が脳裏をよぎるのだが、このキラーソフト獲得に、狂気の沙汰と時を費やす覚悟はできていない。

ぼくは20代初め「法華経」の霊鷲山、「転法輪教」の鹿野苑と彷徨していた。気がついてみれば、アジアの彷徨と神々の風景はセットになっていた。
実は「空海の夢」を手にする前、未だ紡いだことのない朽ちかけた彷徨の記憶一本一本を、「松岡氏の知」で染めながら一枚の織物にしておこうと画策していた。しかしこの構想はもろくも崩れ去る。いくら密教風土があった「風景場面」を彷徨したとて、空想による「観念場面」が際立つ密教と、縦横無尽に繰り出す「松岡氏の知」には、アジアの彷徨の記憶の糸など紡げる余地も無い。思想の海図を持たなかったのが原因だ。

さて「空海の夢」はというと、文節一句ごとにホロニクスな散華のごとくばらまかれた「松岡氏の知」の異なるリズムが同期する。あるいは、多様なリズムが強調振動をおこすエントレインメントで綴られる。それは胎蔵界曼荼羅の如く深遠で、金剛界曼荼羅の如く放射をはじめる。その放射弧は系を越えて突きささり、そこには空海の“図”が浮かび上がる。たとえばそれは生物学・生命科学の“地”であり、数学の“地”であった。系を自在に飛び回り、松岡氏はあらたな空海マップを提示してきた。

こうなるとぼくの意識は活字の上で立ち往生するだけで、一歩も進めなくなっていた。
理由は明解だ。マップを読み解く「単語の目録」が存在しないのだ。

「空海の夢」を読み解くことは到底一筋縄ではいかない。ぼくの中では、これはまさに密教の「行」そのモノなのだ。ヤルからには覚悟がいる。内藤湖南や南方熊楠はそうした「準備と覚悟」を怠らなかった。ぼくは先ず文脈に散った「単語の目録」を拾い上げ「イメージの辞書」を作るべく『空海の夢』の地道なトレースから始めた。まもなく1年が経過する。「トレースすること」と、「腑に落ちること」の関係は、そう易々と一致させてはくれないのだが・・・。

しかし、知ってしまったのだ。「準備と覚悟」の継続に、ヒトの想像力と直観力をゆっくりと立ち上がらせ、それがある臨界値を突破したとき一気に全体的溶融がはじまり、ついにはまぶしい光輝そのものが仕組まれていることを。
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by ogawakeiichi | 2007-01-27 15:21 | 日本史&思想
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