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彩遊記

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南日本新聞コラム

日本では知人からよく“いい加減で大雑把”だと言われる。
たしかに自分でもそう思うのだが、もうひとつの仕事場がある中国では言われたことはない。
「大雑把とは、モノ、コト、ヒトをぐるりと見渡す“鳥の目”のことだ。いい加減とは、あんばいの加減が良いことだ。加えたり減らしたりしながら具合のいいところを探してるんだ」と、半分本気で自己弁護するのだが、どうしても日本での旗色は悪い。

しかし普段“大雑把”といわれているこの性格とは反対に、デザインの仕事では最終段階が近づくと、日本・中国にかかわらずそのときだけは“几帳面”へと一変する。
おおかた影響のないように思える小数点以下の、細かい誤差まで、納期に向かっていじくりまわす。

この習慣は修行時代に師匠に叩き込まれたものだ。これはデザインをやる上ではとても大事なことでもある。元来、大雑把な性格のぼくに師匠は、“虫の目“での見方を教えてくれた。ぼくは師匠から、デザインに立ち向かうための武器である元来もっている”鳥の目”に“虫の目”を授けてもらったのだ

デザインは、“かたちのない言葉の世界”を“かたちのあるモノの世界“へと変えていく。
まず“鳥の目”で周囲を見渡し、ひらひらと舞うアイデアを見つけだす。次にそのアイデアと“虫の目”を使い、目標に向かって、かたちを誕生させていく。

ときには新鮮なアイデアに出会わないこともある。時間だけが過ぎてゆく。そんなときは、まったく紋切り型のデザインになってしまう。

またときには、アイデアがどこにあるのか、簡単にわかることもある。そんなときは、おおかた自分が知識豊富で好きな分野だ。
いつでもどこでも、ひらひらと舞うアイデアに簡単に出会えればいいのだが、そうは問屋がおろさない。

最近、『閾値(しきいち)』という言葉を新聞のコラムで読んだ。『閾値』とは、なにかが起こるか、起こらないかのギリギリの境のことらしい。
たとえば、何かを覚えるとき、始めは覚えられないのだが、チャレンジする回数を増やしていけば覚えられる。人によって回数は異なるが、それがその人にとっての『閾値』になるという。
 アイデアとの出会いを『閾値』で言えば、ひとつのアイデアに出会えるまでの熱意の値、そんな気がする。

『閾値』を越えたとき、その熱意に対しひらひらとアイデアが舞い降りてくるのだ。
ぼくは“大雑把でいい加減な性格“で、いろんなモノやコトをぼくなりにちょっと真面目に覗き込んできた。

覗いた世界は中国語やトライアスロン、太極拳、デザインと様々だ。覗いてわかったことは、どの世界にもコツやツボがあり、習得には熱意を持った『閾値』越えが待っている。
しかし、コツやツボに辿り着くには熱意も大事だが、『閾値』越えの方法にもコツがあるような気がしてならない。
いつか“鳥の目”で見たたくさんのぼくの世界を“虫の目”で束ねなおしてみたい。





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by ogawakeiichi | 2007-06-05 18:50 | 南日本新聞コラム
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