人気ブログランキング |
ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

インド哲学事始をちょろちょろと・・

f0084105_12134914.jpgインドを旅行していたころ、インド人の考えかたに興味をもった。こちらの体調が快なときには、風景や人々の振舞いが哲学的に見えるインド。しかし、風邪を引くなど体力が弱っているときに、飛び込んでくるインドは一見不条理にも見えるモノ、とくにコト、不条理な出来事が目白押だ。なんともいえない煩わしさだ。

さてここに、インド思想における世界構造の考え方を記録しておこうと思う。こう書くと、なかにはインド人全部がそうじゃないよ~とかの反論がくる致し方ない。たしかにそうだが、まあここでの考察はインドのどこどこ、インド人のだれだれという、仔細な立ち居地ではない。インドと私が現在暮す鹿児島と、10年に渡って暮した桂林の生活圏とインドを比較した蓋然性の話である。

さてさて、例えば、「この本は重要だ」という命題があったとしよう。インドではこれが、「この本には重要性が載っている」と考えるらしい。つまり、本を『実体』とし、重要性を『属性』とするわけだ。

ここらあたりから混乱するのでよーく、一つずつ噛み締めながら読んでほしいつまり本という実体に重要性という属性が乗っかっている。記号で書けば、本(実体)⊇重要(属性)となる。

この紙は白いという命題があれば、この紙はしろいものの集合(クラス)のひとつのメンバーであるということでもあるが、インド哲学ではどうやら、この紙には白いという属性があるといったほうが好まれる。哲学用語を使ってみると、ある基体(y)にあるもの(x)が属している場合、xをダルマ(法)とよび、yをダルミン(有法)と呼んでいる。

さてさて、もういちど白い紙のことを考えてみよう。

つまりこの紙には、無色透明ではあるが、【基体として一つの場】があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性もあるということだもっとわかりやすくいえば基体の紙にたくさんの属性が乗って白い紙を構成しているってこと。

ところが、載っているこれらの、属性を取り除くことができたとしよう。白い色を取り、重さを取り除き、匂いを取って・・・すべて除いてしまうと最後に何が残るのだろう、あるいは、何にも残らないのかも知れない。

結論から言えば何にものこらないとするのが、【仏教的】。

無色透明ではあるけれど、図示すれば点々に囲まれた基体と呼ぶべき、なにかが存在する。とするのが【バラモン教正統派的】考え方である。【バラモン教正統派的】の考えを言いかえてみれば目には見えない、匂いもしない、しかしそれがなければ成立しないというような【場】である。

属性と基体との間に明確な区別があるのか、ないのか。基体が存在するのか、それとも基体が存在しないのか、その明確な区別がある場合をインド型の【実在論】と呼び、明確な区別がない場合をインド型の【唯名論】と呼んだ。

仏教はさきほども書いたように、基体も属性も何も残らないとした立場をとった。それに名前がつくことで、基体を表現する立場ー【唯名論】をとる。

バラモン正統派(※バラモン6派/ヴェーダーンダ・ミーマンサー・ヴァイシェ-シカ・ニャーヤ・サーンキャ・ヨーガ)のなかで、5派は【実在論】をとった。そのなかで唯一、ヴェーダーンダ学派は仏教と同じ【唯名論】をとった。基体は存在するが、それに名がつくことで実体が立ち上がるという立場だ。

じゃあ、ヴェーダーンダと仏教とではどこが違うか?

仏教は基体から属性を取っていくとなにも残らないとした。それに比しヴェーダーンダ学派は基体が存在すると考え、その基体こそ実は世界の根本である『ブラフマン』であるとした。ブラフマンは宇宙の最高原理のことで、そこから世界が展開していると考えた。

日本に『~を水に流す』という言葉があるが、『~を水に流す』的な日本的な余情は、インドでは感じたことはない。(※インドには約1年滞在した。一度は、バックパッカーでインド滞在し、もう一度はJICAの研修だ)

ところが、仏教の空の思想、すなわち、基体も属性も本来存在しないとの立場をとれば、『~を水に流す』という言葉も腑に落ちる。なしにして流してしまえば存在しないわけである。

もちろん仏教の誕生はインドなのだが現在インドにおける仏教徒は総人口の0.8%だ。仏教はインドでは一旦消滅したに近い数だ。それに対しバラモン教は土着の仏教の影響なども取り入れて、ヒンドゥー教という新たな宗教に発展した。クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝が衰退し、グプタ朝が成立すると(4世紀)仏教は衰え、ヒンドゥー教がインドに根付いた。

ヒンドゥー教は、バラモン教と同じく多神教で、破壊の神シヴァ、維持の神ヴィシュヌ、創造の神ブラフマーの3神を始めとして、無限に近い神々を信仰し、民衆の間に浸透していった。

基体が存在すると考えるバラモン教からヒンディー教に連なる流れでは、『~を水に流す』という感覚は、ありえないことが想像できる。なにしろ、もし水に流すとすれば、その主体が世界の根本である『ブラフマン』であるからだ。

そんなことをつらつらと記録しておく。


by ogawakeiichi | 2008-11-14 17:38 | アジア史&思想
<< 身体性の遊学 為替レート >>