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彩遊記

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気韻生動

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スポーツをするのに格好の時期になった。
もう十年以上前の話だ。中国大陸ではじめて生活することになり、これだけは是非マスターしておきたいと思ったことがある。それは、太極拳をマスターすること。

大陸では朝の公園や、学校の片隅で太極拳をやる光景は日常的だ。そこでは、いくつかの自然発生的にできた遠慮がちな小グループから、白の太極拳服をまとう、はつらつとしたグループまで様々だ。どのグループも一番前に置かれた、大きなラジカセから流れる大音響のゆったりした曲と、一歩前にいるリーダーらしき人物のカタにあわせ、ゆっくりした動作をおこなっている。 
公園を見渡すと、大きな樹木の下では、ちょっと膝を曲げた姿勢で、樹に腕をまわし、手のひらをとおして樹木の生命力にあずかるような瞑想ポーズをとる人もいる。中高年の人が多い。動きがスローなので若者に人気のあるスポーツじゃなさそうだが、じつは遅速混合いろいろなスタイルがある。ぼくが習得に励んだのは、もっともポピュラーな二十四式、中国では体育の授業でもこれをやる。

さてこの太極拳の師匠のことだが、水墨画の師匠でもある。ぼくにとっては、水墨画の師匠が太極拳も教えてくれたと言ったほうが腑に落ちる。まあ、そんなことはどうでもよい。彼が言うには太極拳も水墨画も『気』がポイントだという。

太極拳の習い始めは、壁を向いて、膝をほんの少し曲げて立つことからはじまった。どうやら『気』をつくる基礎運動だったのだが、初めの頃はさっぱりわからない。

水墨画もそうだ。水墨の書き方、見方にとって重要なものに『気韻生動』(きいんせいどう)がある。『気韻生動』とは、自然の気がいきいきと画面から溢れていることを言うのだが、これも、初めの頃はなんのことだかさっぱりわからない。もちろん、わかったような気分になる時もあるが、それが本物の『気韻生動』なのかがわからない。

そうこうしているうちに、師匠は目の前の作品に対して「『気韻生動』があるや、なしや。」と、聞いてくる。初めは自分の感覚に頼って、当てずっぽうで答える。そうこうするうちに師匠の答えと同じになっていく。まるで臨済禅の公案のようだ。数年経つと、ほとんど外れなくなる。まあ、師匠の趣向に合わす答えが出せるようになっただけのことだろうが、弟子への秘伝の伝授だ。

同じ師匠に習ったせいなのか、太極拳、水墨画ともに、奥深い部分には同じ何かがあるように感じてきた。それを『気』と呼ぶのだろうが、それにしても曖昧で、見立てによってはあやしい世界だ。水墨を描く構えと覚悟、太極拳の身体性から考えてみると、これにはどうも、「呼吸」と人間の重心にある「丹田」に秘密があるようだ。それをしっかりした言葉にできなく、もどかしいのだが、見えない世界もそれはそれで、いいような気がする。

一切謝謝
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by ogawakeiichi | 2008-12-08 11:17 | 南日本新聞コラム
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