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彩遊記

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大日本史と明治維新

f0084105_11555978.jpg近代日本の国家グランドデザインを語る上で、どうしてもやっつけておかねばならぬ「大日本史」「水戸学」。その周辺を、思いついたまま、つらつらちょろちょろと記載する。

「大日本史」は、家康の末子徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀 によって編纂された歴史書。3つの特質があります。1.神功皇后を歴代の帝から除いた。 2.大友皇子を帝に加えた。 3.南朝正統論を唱えた。

今回はその中でも3番目の、南朝正統論を考察してみます。まず、千夜千冊に寄り添ってみると、松岡氏は、南北朝の皇統を次のように述べています。

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 日本の天皇において血統を保証する正統性は、もっぱら三種の神器の授受に
 よって象徴されている。南朝の皇系はその三種の神器をもっていた。それが
 吉野の朝廷である。しかし、南北朝争乱のすえ、皇統は後小松天皇のところ
 で北朝に移った。足利尊氏(高氏)がこの移動に関与した。(松岡
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すなわち、皇統が南朝から北朝に移動したのは足利の関与であり、逆説的に言えば足利の関与がなけれ皇統の正統性は三種の神器をもっていた南朝のままだった。ということです。

南朝正統を説く大日本史にとって『足利よる皇統への関与』は関与以上の『足利による北朝への皇統簒奪』でした。

また大日本史と同じく光圀が鋭意編集させていていた『神道集成』や『釈万葉集』や『礼儀類典』などがありますが、これらも皇統の正統性を読み取る『大日本史』の補助エンジンにもなっていました。ここらあたりの考察は結構重要な匂いがします。が、先に進みます。





なお、反対の立場として小島毅氏(足利義満消された日本国王:光文社新書)は、足利氏の皇統への関与を皇統簒奪ではなく『足利氏の進言『』としています。

さらに『南朝こそが唯一正統の朝廷であり北朝はにせものという歴史認識が幅をきかせはじめたのが、江戸時代後半。それまでは歴史的事実として皇統分裂をみとめ、どちらか一方がほんもので他方は偽者という見方はしていなかった。すなわち南北朝を問題の俎上に上げたのは大日本史と頼山陽の日本外史である。』とも述べています。

すなわち、足利氏はなんじゃ悪いことなどない。と、南朝正統論を主張する東京大学・平泉学派をちくりと批判する立場です。

さて、当時、京の都におわします、帝が北朝だったのにも拘わらず、大日本史は南朝正統論をぶち上げました。武家政権が始まって以来、天皇史を大雑把に見れば、建武の中興を起こした後醍醐天皇を除き、武家勢力が断然強い時代が続きますが、大日本史が説く南朝正統論も、幕府の安泰が担保されている背景があったからでしょう。すなわち水戸藩にとって『京の北朝の帝』は、気にかけるには至らぬ存在だったということです。

しかし南朝正統論をぶち上げ、どうするつもりだったのでしょう。さらに南朝の皇統は、後南朝はその時代まではっきりくっきり連続していたのか?などなど疑問もあります。

さらに、気になることは、北朝に憚ることなく南朝正統論を打つにしても、南朝の興と言うべき後醍醐天皇より、後醍醐天皇の忠臣楠木正成の忠義信仰の方が強いのはどうしたことでしょう。江戸の南朝正統論が武家として儒学に寄り添った楠木忠義信仰の精神論のためだけだったのでしょうか。さて、それらを考察するために、まず大日本史が書かれた当時にググッと回路を同調させてしみましょう。

まず、ごくシンプルにわたしの同調妄想を言語化してみますと、初期の水戸藩、大日本史の書く南朝正統論は、朱子学を背景とした幕藩体制の立てなおしを推進する啓蒙手段であって、京にある北朝の帝の存在は、それはそれでよしとしたのではないかと思っていたのではと想像するのです。

つまり大日本史のOSである朱子学の下敷きとなっている周敦イの太極図説(陰陽思想や五行思想を新たに組みなおした一種の宇宙生成論)に鍵があるのではと思っています。

初期の大日本史は朱子学者によって始められました。ということから朱子学にある太極図説の、陰陽思想に南朝と北朝を重ね合わせ、正統と閨統が回転扉をまわすように、南朝北朝は表裏一対となる存在であるというふうに考えていたのではないかと思うのです。

大日本史がスタートした時代と、大日本史に初めて取り組んだ頃の水戸藩の朱子学から南北朝を俯瞰してみると、たとえ足利氏簒奪による南朝から北朝へ回転した皇統に不満があったとしても、北朝を無理に回転させる必要もなく。京の北朝の帝は帝。時がくれば、天命が正閨の回転扉を回すくらいに思っていたのではないか。と、思うのです。

すなわち大日本史の説く南朝正統論は、足利氏による皇統簒奪は正統ではないが、時がくれば天命が現在の皇統に放伐を下し回天させるであろう。それよりも南朝の忠臣楠木正成に倣って、武家は幕府に対して忠義を果たせというものであったということです。

天皇が君で、幕府は臣。皇統は正と閨を天が回天させる。楠木忠義信仰での幕政改革。これがぼくのアブダクションする初期水戸派です。あくまで初期ですよ。

ところが、どっこい・・時は経ち・・大日本史の読み違いもボチボチとはじまり水戸学の中興といわれる藤田幽谷から、豊田天功、会沢正志斎、藤田東湖と時代が下るにつれて水戸藩における中心的人物の思想観は変化していきます。そしてその読み違いは、それまで南北朝の関係を、表と裏、正統と閨統の表裏一体としていたものが、江戸末期に向かうにつれ、本物と偽者という二分になっていく。

もちろん時代の変化もありました。主なるものは、開港を求める列強の要求や安政の大地震です。これを境に時代は捩れをはじめます。思想、血縁、利権が絡み入り混じった武家内部、公家内部、それに海外勢力が拍車をかける日本の捩れです。

本来、水戸藩は「学者は君子たることを学ぶ、儒者たることを学ぶにあらず」として実践学的な傾向がありましたが、ペリーによる開港問題を契機に、当時の思想は朱子学から、より行動的な陽明学へ移り、倒幕論へと一気に飛躍していきました。

これは水戸藩の朱子学から陽明学的行動主義への転換でもありました。徳川宗家を支えるべき御三家の一つ、水戸藩で倒幕論がまかり通るとは、幕府にとっては本末転倒です。もちろん水戸藩の内部も混乱をはじめ、最後は天狗党の乱となっていきます。

朱子学は原理や理屈にこだわりますが、陽明学は口先だけのことを嫌う、つまり知ることと行うことは同じでなければならないとする『知行合一』と根本に遡って物事を処理するという『根本塞源』を説く行動哲学です。千夜千冊は前期と後期の水戸学をこう書きます
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 前期水戸学と後期水戸学ではその思想も様相も活動も、馬と牛のごとくに
 大きく異なっている。前期は日本の歴史を幕府の史書とは別に独自に解明
 しようという馬だったのだが、後期は尊王攘夷というイデオロギーと密接
 に結びつく牛になった。(松岡正剛)
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また、この頃、京に在る北朝の光格天皇が登場し、幕府に対しついに天皇の力を誇示してきます。このことは古代以来の王権を発揮しようとしたわけで、それは次の考明天皇にも引き継がれます。

このあたりのクロニクルを俯瞰してみると、たぶんにたぶんですが。吉田松陰あたりに、大日本史の書かれた当時の意図とは違う、読み違いか、読み替えがあったような気がしてなりません。

というのは、うなりを上げで時代が明治の維新へ動き出すのが、吉田松陰と会沢正志斎、藤田東湖が水戸で縁起してからです。

徐々に王権を発揮しようとする、北朝天皇の力の誇示に対して、時代の動向を察した吉田松陰、会沢正志斎、藤田東湖らの意識が南朝復興の火種を発火させたのかもしれません。

資料によると、長州の情熱の志士、吉田松陰が嘉永四年(1851年)12月、水戸を訪れ、会沢正志斎に多大な感化をうけ「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らず、急ぎ帰りて六国史を読む」と手紙に記しています。

『六国史』とは天子が一系であって連綿と続いているという国体論と共に、天皇を中心にして外国に対して処した事例を明らかにしているものです。もちろん水戸派や吉田松陰にとっての天子の一系とは南朝のことです。

また、注目すべきは吉田松陰が、楠木正成を祀る湊川神社を三度、訪れていることです。本来、楠公忠義精神は幕府体制保持のツールであるとするのであれば、幕府と乖離する松陰が三度も訪れることはありません。そうするとあくまでも尊皇のためです。その尊皇も南朝への尊皇ではなかったのでしょうか。(※根拠ある資料考察が必要ですが・・

この松陰流の水戸学の読み方は、次に松陰流倒幕がセットになって陽明学を内包した松陰流行動学でスパークさせ、吉田門下生らは「助走の塾生から、爆走の志士」へとなっていく。

これが次々と連鎖をはじめ、徳川封建社会への対抗勢力としてそれぞれの身分階級のそれぞれの目論見が、混ざり合いうねりながら、ついに沸点到達したのではないでしょうか。
 
資料;第千九十一夜【1091】藤田覚『幕末の天皇』 (松岡正剛)
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 長州が長井雅楽の提案のあと、藩議を一変させた。和宮の降嫁は幕府権力を
 再強化しかねない。そんなことをしたら幕府は10年延命して、腐っていく。
 そのときは 【天朝モ亦幕府ト倶ニ転覆ニ至リ玉フベシ】 という見方が浮上
 してきたんです。これは水戸イデロギーが諸国を急速にまわったせいですね。
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それが最後には、長州の言う【天朝モ亦幕府ト倶ニ転覆ニ至リ玉フベシ】ということになっていく.そんな気がします。
by ogawakeiichi | 2008-12-10 11:55 | 歴史アブダクション
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