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彩遊記

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カテゴリ:歴史アブダクション( 15 )

ミトラか、弥勒か、朱舜水。

ミトラか、弥勒か、朱舜水。「ミトラ  弥勒  明朝  明治」。なんと、長ったらしいタイトルなのか。
しかし、どの名辞・単語も外せない。「ミトラ」「弥勒」「明朝」「明治」すべて『M』ではじまる。

そこで、何の根拠もなく、この「言霊」の「Mの結び目」に目をつけてみることにする。

まったく違うと、思っていたモノ、コトの間隙にある関係性を見つけ出すことは、とても爽快なことである。

が。

アブダクションが発動しても、カタチにしようと思っても、するりと逃げられてしまう。

なにはともあれ、「チャンクな情報」からアウトプットだ。とにかくなにかに仕立てる行為にいかねばカタチも残らず、脳のニューロンも此処一発の炎上がない。だから今、なにがなんでも、観念の概念化に立ち向かうのだ。

その覚悟をもって、ミトラ教と明治維新を繋ぐ壮大なユーラシアの秘密めくドラマチックな精神流に迫りたい。

ペルシャに起こった【ミトラ】の光は、東へ伝わり、なんちゃって白蓮教徒の朱元璋が【弥勒】パワーに着せ替えて【明朝】を仕立てるが、やがて清朝に滅ぼされるときが来る。

その流れの深層は結社へ、

表層の一条は明朝復興を夢見た「朱舜水」により日本へと向かう。舜水の観念は南朝崇拝の水戸で成熟。

のち松平春嶽が名付けた、南朝の香ばしさ漂う「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」の【明治】に至る。


ある情報文化はある母型をもち、母型の上に発達する。つねに事態は移動からはじまり、着せ替え、乗りかえ、重ね着と姿を変えていく。

ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立てると、日本の位置は様々なルートから多様な情報を受け入れ、混沌を引き受け、バランスをとりながら一気に融合させる相等にハイブリッドな、全ての玉を受け入れる最下端の受け皿のような存在だ。

そこで、この歴史上から抹殺しかかっているミトラ教と、明治維新のトリガーを引いた、中国明朝の遺臣「朱舜水」をクロニクルさせていく。


まずは、東アジアに伝わったミトラ教を中国を舞台に時系列で並べてみよう。

↓面倒くさい人は、クロニクルをパスしてくだされ。
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紀元前 202~ ○ミトラ(東方ミトラ・マニ教)が東アジア一帯に広がる

紀元202  ○飛鳥時代には日本でも聖牛の供儀が盛んに行われた。(日本)◆中国にミトラ教(東方ミトラ)をもちこんだのは、ゾクト人(タジク人)とウイグル人の商人である。◆中央アジアまでは、バビロニアからカルデアン・マギもきている。◆経路は、内陸のシルクロードだけではなく海路もある。◆中央アジアで仏教のマイトレヤーと融合するかたちで中国に到来し、弥勒と呼ばれるようになった。

763年   ○ウイグル王国は東方ミトラ・マニ教(摩尼教、明教)を国教とする

845年   ○会昌の仏教弾圧の巻き添えを恐れミトラ教のマギ(神官)が福建へ逃れ、ミトラ教が中国化し て弥勒教となる◆ミトラと十二星座の結びつきは、弥勒教においても継承され、弥勒は十二星座界のヌシと呼ばれた。◆弥勒教においては占星術と風水が結びついた。◆ミトラ教はバビロニア占星術を中国に持ち込こみ十二星座・二八宿は、当時の中国の十二支二八宿と融合。 ◆七曜とミトラ教の呪術的な側面は、中国道教における北斗七星)信仰に結びついた。◆二八宿は仏教経由で中国に伝わったが、すぐに道教化。

12 世紀~   ○朱子は東方ミトラ(マニ教、摩尼教、明教)を学び朱子学を起こした。(※私見として、正確な考察の必要性を感じますが、もしそうであればこれはおもしろい。)

1271年~1368年   ○仏教の弥勒信仰およびポン教を取り込み、道教と弥勒教が中国二大宗教となる

14世紀中頃   ○中国山東および湖廣で叛乱が起こり元朝の支配が揺らぐ○倭寇と呼ばれる海賊が出没しはじまる○ 南北朝の動乱がはじまる(日本)

1351年    ○紅巾の乱が起こる◆白蓮教の教主であった韓山童(明王)や劉福通らが兵をあげる(東系紅巾軍)◆長江流域でも叛乱がおこる(西系紅巾軍)◆大勢力となった弥勒教徒(白蓮教、明教など)は紅巾の乱をおこし元を滅ぼす

1367 年     ○朱元璋が南京で即位して『明』を建国◆ミトラにおける理想郷「光の国」にちなんだ『明』という国号をつける◆明代以降、儒教・仏教・道教のほかに、儒教・仏教・道教・明教を融合した民間宗教(弥勒教)が現れた。※弥勒教は老子転生・弥勒下生・李弘伝教を説く宗教であり老子も釈迦も孔子も、李弘もみ  な弥勒の化身とみなした。 ※中国における「弥勒」は、ミトラ教のミトラにマイトレーヤがとりこまれた存在であり、仏教的 なイメージはない。※弥勒教が広まった明代以降、中国では儒教・道教・仏教・明教を区別しなくなった。◆明の創始者である朱元璋は弥勒教を支持基盤として皇帝になったが、天下をとったあとは弥勒教(白蓮教、明教など)を厳しく取り締まった。弥勒教は秘密宗教という形態をとるようになる

明末~清初期     ○弥勒教系の秘密結社と秘密会党が多数生まれた。◆弥勒教系結社は、禁じれば禁ずるほど盛んになり、王朝とは別の勢力を形成し、たびたび大規模な叛乱をおこした。清代における民間の秘密結社は全国に広く分布し相互連携して地下秘密王国ともいえるものを形成した。※宗教系秘密結社には、一貫道、同善者、普度門など が会党系秘密結社には洪門会(天地会)、紅幇、青幇などがある




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〈引用・参考〉
シリウスの都飛鳥:栗本慎一郎  聖徳太子と斑鳩京の謎:久慈力  うつぼ舟:梅原猛  ミトラ教の歴史:ネット情報  ミトラ教研究.弥勒の徹底研究ミトラと弥勒:ネット情報  ミトラ教と神智学:ネット情報

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↓  ↓
◆ここで、ポイントを抽出してみると、12世紀以降の中央アジアと中国では東方ミトラ教
ミーフリーヤ派・弥勒派が活発な活動をし、彼らから朱子は東方ミトラ教を学び「朱子学」を興した。(12世紀)。↑※再考証の必要あり

更に王陽明が「陽明学」を築いた(15世紀)。東方ミトラ教は別名を「明教」というが、中国では明(1368~1644)という王朝名の由来となった。

朱子学と陽明学は東洋版神智学の双璧である。日本では江戸時代に林羅山、三浦梅園らが「日本朱子学」を興隆させ、中江藤樹らが陽明学を興隆させ、伊藤仁斎らが「古学」を起こし、荻生徂徠が「徂徠学」を起こし、本居宣長らが「国学」を起こした

弥勒信仰には2種類あり、死後縁をつないで龍華三会に会したいと願うのが『弥勒下生』。死後兜卒天に上って弥勒とともに暮したいと思うのが『弥勒上生』であるが、ミトラ教の本来の姿は『弥勒下生』である。

つまり日本には、アジアの深層を流れるミトラ教が、着せ替え、乗り換え、重ね着した見えない大河が、存在するということ。

興味深いのは、その流れは一条ではなく、様々なルートから、様々な人物、様々なスタイルでこの日本に流れ込んでいる。

以下は舜天講のみなさまが、
東京湯島聖堂であった出来事だ。
◆     ◆     ◆
※湯島聖堂の担当学芸員らしき人物との会話から・・

>・この孔子像は安東家に渡された三体のひとつと表向きにはなっているが、
>この聖堂のものは武家に渡されたもので。。。ごにょごにょとおっしゃる。
>・突っ込むと、蘇我家経由となっているらしい。舜サマの頃にも
>そして今も蘇我家の分家は続いているので、とのこと。
>・そのような情報は一般に出ていませんよね、と確認すると
>天皇に関係する話は表には一切出ませんとのこと。

>・円月橋といい、舜水の設計能力はプロ並であることを改めて確認。
>単に勉学レベルではなく、実際に設計の経験があるはず。
>隠棲時代か、国家経営戦略のときか。


そこで、
★湯島聖堂の孔子像が蘇我(曽我)氏経由について…
★円月橋といい、舜水の設計能力はプロ並であることについて…このように説く!!

▼   ▼   ▼
栗本慎一郎の「シリウスの都飛鳥」をみると、重大なことが書いてあるではないか。※カールポランニーの経済人類学を継承した学者だから、まぁ、「とんでも本」の類ではないと思う。

■引用:栗本慎一郎「シリウスの都飛鳥」320P~
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さて、そろそろ蘇我氏の出自を探らねばならない。蘇我氏のキーポイントは、ミトラ・ゾロアスター的文化(聖方位、水の利用、石積みの墳墓)へのこだわり、領域より人の組織へのこだわり、そして双分制であった。…(中略)…

蘇我氏のルーツは、サカスタン王国を作ったサカ族のうちパルティァ主流派に最後まで宗教的に抵抗した氏族である可能性が高いだろう。彼らはインドに阿弥陀信仰を伝えることができず、結果として日本に伝えた。…中略…

彼らのほうが他のペルシャ人より太陽信仰や星辰信仰が強かったと考えてよい。それは逆にササン朝ペルシャの国教(ズルワーン教)を彼らが完全には受け入れなかったということでもあり、彼らはより仏教的なミトラ教を選んでいたのである。
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すなわち、朱舜水持参の湯島聖堂の孔子像の動向には蘇我氏と舜水のミトラ信仰を母体とする「観念技術」がはたらいているのではないか。

つまり、【ミトラ信仰の中央アジアからの蘇我氏の流れ】と、【明朝(ミトラ・弥勒)王朝復興の朱舜水の流れ】の観念技術が、日本で揃った。

さらに、石積技術、水利技術をつかった円月橋など朱舜水の設計能力にもミトラ・ゾロアスター的文化のおもかげがあったのかもしれない。このあたり結社の得意とするところでもある。

ユーラシアを俯瞰した見方が、出来ると、それはそれでおもしろい。
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おわり。
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by ogawakeiichi | 2010-05-09 05:37 | 歴史アブダクション

大日本史の周辺

f0084105_5542353.jpg薩摩出身の元・夢の遊眠社員Wに上野不忍池でシャブシャブをごちそうになりながら、つらつらと明治帝について語り合ったのは一月前。Wは高校の頃から歴史につよく、日本史の得点だけで、大学の演劇学科にはいった。←すまん。。

野田秀樹率いる夢の遊民社は当時、学生演劇の極であったが、演劇学生の多くが活動資金や糧を得るため副業もやっていた。気がつけばWはいつのまにやらそっちのほうのトップとなり、いまは神宮絵画館などの名建築の補修をやる会社の社長である。さてさて、長いあいだ、ぼちぼちとかかわってきたものの一つに明治維新へのトリガーとなった大日本史があるのだが。いよいよ、こっちへ載せてもいい時期かな。日本史にあかるいWへの返礼・・(笑)

続きをよむ
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by ogawakeiichi | 2009-10-25 17:51 | 歴史アブダクション

中国のピラミッド

8月もオワリましたな。

通訳8本、翻訳1本。新聞原稿1本。水墨ワーク1本。シンボルマーク2本。デザイン講1本。企画書1本。合間にちょろちょと川内往復の介護をやって、ラボの移転を終わらせて、弟子たちを送り出し、夜な夜なの酒をさかなの縁起めくりに精を出す。復活の初月としては、資本の毒にたいしてヤラレルこともなく、まあまあか・・。

小選挙区の個の細胞レベルのゆらぎのカサネがさねは、まさに複雑系の相転移ですなあ。
末の選択で、アメリカの属国から中華の柵封体制へ.
群のレベルでみるとそういうことにちがいない。
個人的にはあの図々しい中華の方が、平和装いの一神教の巧みさより、わかりやすいが、大衆にとっては、中華の華下は許しがたいかも・・。

東アジアと、イマイチボケた領域のメーソン「友愛」とのカサネ・ソロエの振る舞いを、眺めてみるのもたのしみです。。。

ところで合衆国国璽にもある巨大シンボルがここ中華にもある。
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グーグルマップで拡大すると。→こうだ!
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by ogawakeiichi | 2009-09-03 06:56 | 歴史アブダクション

黒龍会周辺情報資料

すべてコピペ

「金策」(キムチェック)メッセージの意味するもの
月刊日本2002年11月号より

北朝鮮側からの事前対日メッセージ

 五月中旬、北朝鮮当局は、韓国中興の祖ともいえる故朴正煕の長女・朴橦恵女史の平壌訪問を受け入れた。金正日は、朴女史を恋人のように優遇して彼女の父親である故朴正煕を褒め称え、韓国を訪問することができたら、真っ先に朴大統領の墓参りをしたいと語った。朴女史は北側から最大限の歓待を受けただけでなく、板門店経由で帰国した。

 金大中は米国から忌避されただけでなく、政権の権威が喪失して身動きがとれなくなっており、この金大中政権の前途を見限った北朝鮮は、朴女史を受け入れることで、彼女を南北の架橋として、新たな希望の星とする演出に徹したといえる。
 
金正日はこの時、朴女史に母親が犠牲になった文世光事件について、北特殊機関の関与を認めて謝罪したが、彼女はその事実を日朝首脳会談が実現するまで公表することなく一人心に秘めて、「日朝平壌共同宣言」の発表を受けて公表した。北側の朴女史優遇にはある種の対日メッセージが込められており、朴女史もその真意を理解して日朝接近気運が盛り上がることを期待していたものと思われる。

 故朴大統領は、反日意識にだけ依拠した民族正統性を建国の基盤にしてきた韓国社会にあって、売国奴の誹りを覚悟して日韓関係の正常化を決断し、その後の韓国経済繁栄の礎を築いた。金正日は故朴大統領を最大限に称賛することで、支援金調達の必要性から対日関係の早急な改善を示唆するため、朴女史を招待したのであろう。
 
北朝鮮は、訪朝した金丸信元自民党副総裁や壷則首相から数兆円の約束手形を捲き上げている。だが、現金化できない苛立ちに耐えきれず、強圧的な方針を変更するシグナルとして、日韓修復を決断した朴大統領を評価する姿勢を明らかにすることで、日本側の対北認識の変化を朔待したものである。
 
韓国で発禁本扱いを受けている『親日派のための弁明』(金完隻著・草思社刊)の邦訳本が、我が国では三十万部も売れている。韓国世論の対日侮蔑ともいえる跳ね上がりに対する、嫌韓感情を癒やす効果があってのことである。

 同著書の日本語版序文の論旨は、平成九年に日本を訪問した後に北京経由で韓国に亡命した、北朝鮮の黄ジャンヨプ書記が述べた言葉と全く同じ本旨である。

 黄書記が亡命を決意して、事前に韓国に伝えたとされる「朝鮮問題手記」全文を読めば、彼は分断された民族の統一を切に願う憂国の情の持ち主であることがよく分かる。黄は亡命後、韓国全土に蔓延する反日感情に驚き、この現象をもたらした遠因は米国の南北分断、日韓・日朝離反戦略にあるとして、「韓国社会の異常な反日感情は南北統一の妨げになる」と、警告を発していた。
 
そのため、韓国当局は同書記を北側の高度な工作員と危険視し、一種の軟禁状態において、黄が希望している米国亡命も許可していない。『親日派のための弁明』を熟読してみれば、経済繁栄のみの対北優位性に依拠している韓国の存在そのものを、全否定しているといっても過言ではない。そして、民族正統性の観点からだけでとらえれば、貧しくとも北朝鮮に正統性があるとの結論を導いているといえる。
 
著者の金氏は出国を認められて来日し、日朝会談を横目に見ながら我が国で精力的に講演活動などを行なっている。同氏が自覚的かどうかを別にして、大局的な見地から見れば、南北統一が焦眉の課題となるにつれ、北側の正統性を補完する役割を果たしていると見なすことができる。同書には、半島統一は北優位が自然であり、日本の国益にもつながるという、北朝鮮からの独尊的な対日メッセージが込められているともいえる。



金策に対する一考察

 小泉訪朝が発表された八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の特殊船団が現われ、防衛庁や海保の追尾を誘って、巡視船が監視する目前でその存在を誇示するように朝鮮半島方面に引き返す珍事件が発生した。
 
我が国のメディアは「不審船出現」と報道しているが、同船団は従来のように日本やシナの漁船を偽装することなく、煙突部分に北朝鮮国旗を描き、船尾にはハングル文字で船名をハッキリと書いて、日本側に写真撮影をさせた上で引き揚げた。「不審船」ではなく、北当局が我が国にある種のメッセージを発するため送り込んだ伝令船と見なすべきである。
 
メッセージのカギは、船名「金策」にある。防衛庁は、「金策」を北朝鮮の地名と発表した。それも事実(日本統治時代の城津を金策に改称)だが、我が国と縁が深いある人物の名である。彼の名を冠にした「金策工科大学」が存在していることは、金策が北朝鮮にとって多大な功績を残した人物であることを物語っている。
 
金日成は、日本軍が撤退した後、コミンテルンが捏造した抗日パルチザン英雄伝説にのって平壌に凱旋した。コミンテルンの策謀が発覚する前に朝鮮戦争が引き起こされて、国民は同胞が血で贖う悲惨な内戦にかり出され、金日成の出自を問題にする懸念は封じられた。金日成はソ連軍が参戦していない戦争を利用して、傀儡の弱点を払拭するため、粛清に継ぐ粛清で、ソ連・コミンテルン派を壊滅させて独裁権力の掌握に成功した。
 
金日成にソ連派粛清を助言したのが金策で、さらに「主体思想」を提言して黄ジャンヨプなどが中心になって理論構築を行ない、金王朝の礎を築いた。この渦中で金策の出自(日本軍情報関係者)あるいは真の経歴(対日情報協力者)が露見したため、彼も粛清の対象になったとも喧伝されている。だが、表舞台から退いて、「主体思想」の構築を指導したとも、秘かに伝聞されている。
 
北朝鮮関連の人名録には、金策について以下のように記述されている。


金策(キム・チェック)。
一九〇三年生、モスクワ共産党大学卒、ソ連内務省GPUに入り、満州の金日成などの活動を支援した。ソ連軍中佐、金日成の腹心の一人で、人民軍の建設に中心的な役割を果たした。朝鮮戦争では前線司令官となったが五一年爆死、その功により、出生地を金策市と改め、その地の鉄工所を金策製鉄所、大学を金策工科大学と命名した。


 また、『金日成回顧録』の中に、金正日が父親の金庫を空けてみると金日成と金策と二人だけで映っている写真が出てきたと記述されている部分があり、金策の特殊な立場が問接的に示唆されている。金正日が二代目王朝継承者としての地位を盤石にした後で公表された党幹部の序列に、「金策」の名が浮上しているが、彼の人物と同一人かどうかは不明である。

 金策は黒龍会の一員とも言われている。黒龍会指導者の内田良平は対露工作に全力を注ぐために朝鮮半島情勢の安定を願い。日韓合邦運動を推進した民間人である。
 
内田良平は、朝鮮半島悲哀の歴史は国民の団結心の欠如にあり、その主たる原因は偏狭な正統性への因習に起因して、その弊害の克服が朝鮮自立の第一歩だとの信念を持って、朝鮮工作に遭進した。内田良平翁は、朝鮮社会の構造的因習は本貫一族へのこだわりにあると喝破し、「壇君神話」に基づいた疑似天皇制国家に全ての本貫を止揚する構想を打ち出し、半島人士との連帯を深めた。内田良平の熱意に賛同した多くの半島人士は、日露戦争に献身的に協力して、日韓合邦を積極的に進めてきた。この間の経緯は、『親日派
のための弁明』の中でも、詳細に紹介されている。日韓合邦を願った内田良平や朝鮮人士の願いは、明治政府の併合政策によって裏切られた形になったが、その精神は継続されていた。内田良平と明石元二郎は同郷の縁で懇意な関係にあり、金策は両者に縁がある人物と見なしたほうが無難である。
 
明石元二郎は欧州に赴いて、レーニンなどの共産主義革命を支援することでロシア攪乱工作を行ない、我が国の日露戦争勝利に多大な貢献を行なった旧日本軍参謀本部の高級情報将校である。対露工作の必要上、黒龍会運動に賛同する日鮮の会員多数を動員して各地に潜入させたが、その記録は一切残っていない。
 
明石は日露戦争後、朝鮮総督府に勤務して、抗露パルチザン対策などに従事、最後は台湾総督として民政に寄与し、死後は台湾に墓所を希望するなど、現地の興隆対策に生涯を託した明治人である。
 
金日成は北朝鮮社会の全て宗家は金日成個人から発するとして、彼を国父と崇めさせることで本貫を一元集約化した王朝体制を築いた。その正統性を白頭山を神聖視した「壇君神話」で補完し、一時は金日成民族
とも呼称した。内田良平の構想が紛いなりにも成就した結果だともいえ、金策が北朝鮮建国の貢献者と評価されているのもこのような因縁あってのことであろう。

 ちなみに、金策は息子に「国泰」という名前を付けている。「国家安泰」を願った名で、朝鮮風ではなく日本人の思い入れそのものである。金国泰は労働党書記として金正日の秘書的な側近の地位にあって、現在でも米国やロシアとの交渉の重責を担っている。
 
金日成が死去した時、三十八度線の北側から明石大佐が日露戦争後にまとめた報告書「落花流水」にちなんだ一節が放送された。金王朝の創業を支えてきた北の長老達が金日成を送るに際して、金策に縁ある著名な日本人軍人の書に託して彼の業績を記録に留め、併せて「興亜積極論」に国運を賭した
旧日本軍への義理を果たしたものと思われる。

 また『日本書紀』で白村江の戦の項に、「天智元年(六六二)の五月に安曇野比羅夫らが軍船百七十隻ひきいて百済に乗り込み、勅語を賜わって正式に余豊を百済王とし、別に金文字でかいた勅語(金策)を福信に賜わって……」と、「金策」の意味は「金文字で書かれた勅語」だと記述されている。「金策」という名称は単なる個人名ではなく、日朝の歴史に因んだ、ある想いが込められていることを暗示しているといえる。
 
我が国の先人・先達は、西洋近代文明の侵略的開国強圧を跳ね返すための脱皮革命ともいえる明治維新を成し遂げ、不平等条約の撤廃を悲願として、近代日本の活路を「脱亜入欧」に求めた。

 だがその一方で、西洋覇権のアジア浸透に対抗するため、「興亜積極論」政策も多いに進めた。日韓併合は、アジア興隆に賛同する半島人士の協力あってこそ実現したもので、決して西洋植民地主義的な侵略支配ではなかった。
 
戦前の日本有志の助言で疑似天皇制国家を創設した北朝鮮の国体は、今や風前の灯火だともいえる。金王朝を苦心して支えてきたであろう長老達が「金策」のメッセージに託して、我が国に苦痛の叫びを投げかけてきた、その心情背景を正鵠に受け止めることができる日本人は果たして存在しているであろうか?
 
北側には、拉致事件は敗戦後の疲弊期はともかく経済力を回復してもなお「イエローヤンキー」を恥じない「半国家」日本と、常に準戦時体制を強要された北朝鮮との軋櫟の中で生じた出来事だと居直る捻れた心情が潜在している。
 
北朝鮮にとって日本は育ての母とも言うべき存在だった。しかし、その北朝鮮は戦後日本が仇敵である米国の妾になり下がったことを憎悪している。現在の日本がなすべきことは、日本が北朝鮮の養母であったことを弁えて、実子同然に育てた義理の息子の非道を糺し、真っ当な道を歩ませることでは
なかろうか。
 
マレーシアのマハティール首相が、日朝首脳会談の実現を大歓迎しているのは、我が国が「アジアの日本」を覚醒し、再び「興亜積極論」に乗り出すであろう期待感を表明しているからである。
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by ogawakeiichi | 2009-08-02 05:26 | 歴史アブダクション

アジアンロマン

東アジアには、壮大な歴史ロマンがありまして、隈研吾が北京につくったオポジットホテルで清王朝末裔・愛新覚羅なんとかさんとお会いした.

気品漂う、川島芳子にそっくりのお方でしたが、最近まで貧乏アパートに住んでいたとか。ところが今は、一転して高層マンションにお住まいです。

対談後、河北省にある、皇帝の避暑地にいそいそとお出かけになられました。皇帝末裔筋は当然ながら、いまでも脈々と続いているのですね。

なぜ、満州に日本が進出したのか、ロシア南下の防波堤だけであったのか日本は満州でなにをしていたのか、黒龍会とはなんなのか、北朝鮮のなんたらはこのあたりが腑に落ちないと、たぶんにちんぷんかんぷん。まだ、まだ、ロマンは尽きませぬ。
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by ogawakeiichi | 2009-07-14 14:10 | 歴史アブダクション

朱舜水と空海の時空超越関係

先日、鹿児島市内を流れる甲突川を散歩しながら朱舜水につらつらと思いを巡らしていた。すると太陽神経叢のあたりの直感情報系が躍りだし、【朱の宗族】と【丹生一族】って繋がっているのでは・・とアブダクションがはじまりだした。

※宗族と丹生一族
■宗族とは族長のもとに族譜(同族の系図)を有し、宗祠(祖先の神主を安置した建物)を設け、族産(祭田・義荘など同族の共有財産)をおくものが多く、特に華中・華南に普及している。
■丹生一族とは水銀を扱うプロの技術者集団であり、空海上人はその一族を巧みに利用する事に成功したと考えられる。

つまり、【朱舜水の朱の宗族】と【空海の丹生一族】は【水銀ネットワーク】と【土木技術ネットワーク】の入れ子構造での共通項があったのではと・・

日本において水銀を産出する中央構造線を西へと伸ばしていくと朱舜水の故郷、中国の杭州付近に至る。調べてみると杭州付近は水銀の産地でもある。この辺り【朱の姓】が中国でもっとも多い場所でもある。

水銀の原料は硫化水銀の粉末だ。その粉末である【朱砂】の独占的採取加工に当たっていたのが【丹生一族】で、鳥居などに使う【朱】はこの水銀からつくりだした。こうなってくると秦氏との繋がりも香ばしい。

【朱色】と【朱の宗族】と【水銀】との結びつきの有無は、これからグッと精査する必要ありだが、弥勒革命を目指した白蓮教徒である朱元璋(※朱元璋はどうやら、なんちゃって白蓮教徒だ。)が起こした明朝から朱舜水の流れと、終生ヤマに憧れた空海がヤマに戻るにあたって弥勒菩薩を重視した故事、この【弥勒菩薩】のキーワードを含め、俯瞰でぐるっと見渡すと、【朱の宗族】と【丹生一族】って繋がっているのでは・・と。すなわち【朱舜水】と【空海】は弥勒と水銀で時空を超越して繋がっているのでは・・と、まぁ、こういう「妄想」でございます。
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by ogawakeiichi | 2009-05-13 18:00 | 歴史アブダクション

ミトラか、弥勒か、朱舜水。「ミトラ・弥勒・明朝・明治」

f0084105_14542424.jpgミトラか、弥勒か、朱舜水。「ミトラ  弥勒  明朝  明治」。なんと、長ったらしいタイトルなのか。しかし、どの名辞・単語も外せない。「ミトラ」「弥勒」「明朝」「明治」って、すべて『M』ではじまっている。そこで、おいらはこの「言霊」に目をつけた。「Mの結び目」の考察をはじめて、早一年。某結社のつどいをまえに、このあたりのことに対し高速編集を迫られているのだが、ああ~ぁ、まとまらない。テーマがでかすぎる・・

まったく違うと、思っていたモノ、コトの間隙にある関係性を見つけ出すことは、とても爽快なことである。が。アブダクションが発動しても、カタチにしようと思っても、するりと逃げられてしまう。なにはともあれ、「チャンクな情報」からアウトプットだ。とにかくなにかに仕立てる行為にいかねばカタチも残らず、脳のニューロンも此処一発の炎上がない。だから今、なにがなんでも、観念の概念化に立ち向かうのだ。その覚悟をもって、ミトラ教と明治維新を繋ぐ壮大なユーラシアの秘密めくドラマチックな精神流に迫りたい。

ペルシャに起こった【ミトラ】の光は、東へ伝わり【弥勒】パワーに着せ替えて【明朝】を仕立てるが、やがて清朝に滅ぼされるときが来る。その流れの深層は結社へ、表層の一条は「朱舜水」により日本へと向かう。舜水の観念は水戸で成熟、のち「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」の【明治】に至る。

ある情報文化はある母型をもち、母型の上に発達する。つねに事態は移動からはじまり、着せ替え、乗りかえ、重ね着と姿を変えていく。ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立てると、日本の位置は様々なルートから多様な情報を受け入れ、混沌を引き受け、バランスをとりながら一気に融合させる相等にハイブリッドな、全ての玉を受け入れる最下端の受け皿のような存在だ。

そこで、この歴史上から抹殺しかかっているミトラ教と、明治維新のトリガーを引いた、中国明朝の遺臣「朱舜水」をクロニクルさせていく。

なんのこっちゃわからない人だらけだろうが、。。

まずは、東アジアに伝わったミトラ教を中国を舞台に時系列で並べてみよう。

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紀元前202~  ○ミトラ(東方ミトラ・マニ教)が東アジア一帯に広がる
紀元202     ○飛鳥時代には日本でも聖牛の供儀が盛んに行われた。(日本)
           ◆中国にミトラ教(東方ミトラ)をもちこんだのは、ゾクト
           人(タジク人)とウイグル人の商人である。
           ◆中央アジアまでは、バビロニアからカルデアン・マギもき
           ている。
           ◆経路は、内陸のシルクロードだけではなく海路もある。
           ◆中央アジアで仏教のマイトレヤーと融合するかたちで中国
           に到来し、弥勒と呼ばれるようになった。

763年       ○ウイグル王国は東方ミトラ・マニ教(摩尼教、明教)を国
           教とする

845年       ○会昌の仏教弾圧の巻き添えを恐れミトラ教のマギ(神官)
           が福建へ逃れ、ミトラ教が中国化して弥勒教となる
           ◆ミトラと十二星座の結びつきは、弥勒教においても継承
           され、弥勒は十二星座界のヌシと呼ばれた。
           ◆弥勒教においては占星術と風水が結びついた。
           ◆ミトラ教はバビロニア占星術を中国に持ち込こみ
           十二星座・二八宿は、当時の中国の十二支二八宿と融合。
           ◆七曜とミトラ教の呪術的な側面は、中国道教における
          (北斗七星)信仰に結びついた。
           ◆二八宿は仏教経由で中国に伝わったが、すぐに道教化。

12世紀~    ○朱子は東方ミトラ(マニ教、摩尼教、明教)を学び朱子学を起こした。
           (※私見として、正確な考察の必要性を感じますが、もしそう
           であればこれはおもしろい。)

1271年~    ○仏教の弥勒信仰およびポン教を取り込み、道教と弥勒教   1368年      が中国二大宗教となる
      


14世紀中頃   ○中国山東および湖廣で叛乱が起こり元朝の支配が揺らぐ
           ○倭寇と呼ばれる海賊が出没しはじまる
           ○南北朝の動乱がはじまる(日本)

1351年     ○紅巾の乱が起こる
          ◆白蓮教の教主であった韓山童(明王)や劉福通らが兵をあ
           げる(東系紅巾軍)
          ◆長江流域でも叛乱がおこる(西系紅巾軍)
          ◆大勢力となった弥勒教徒(白蓮教、明教など)は紅巾の乱
          をおこし元を滅ぼす

1367年     ○朱元璋が南京で即位して『明』を建国
          ◆ミトラにおける理想郷「光の国」にちなんだ『明』という
          国号をつける
          ◆明代以降、儒教・仏教・道教のほかに、儒教・仏教・道教
          ・明教を融合した民間宗教(弥勒教)が現れた。
          ※弥勒教は老子転生・弥勒下生・李弘伝教を説く宗教であり
          老子も釈迦も孔子も、李弘もみな弥勒の化身とみなした。
          ※中国における「弥勒」は、ミトラ教のミトラにマイトレーヤ
          がとりこまれた存在であり、仏教的なイメージはない。
          ※弥勒教が広まった明代以降、中国では儒教・道教・仏教・
          明教を区別しなくなった。
          ◆明の創始者である朱元璋は弥勒教を支持基盤として
          皇帝になったが、天下をとったあとは弥勒教(白蓮教、
          明教など)を厳しく取り締まった。
          ○弥勒教は秘密宗教という形態をとるようになる

明末~
清初期     ○弥勒教系の秘密結社と秘密会党が多数生まれた。
          ◆弥勒教系結社は、禁じれば禁ずるほど盛んになり、王朝と
          は別の勢力を形成し、たびたび大規模な叛乱をおこした。清
          代における民間の秘密結社は全国に広く分布し相互連携して
          地下秘密王国ともいえるものを形成した。
          ※宗教系秘密結社には、一貫道、同善者、普度門などが、会
          党系秘密結社には洪門会(天地会)、紅幇、青幇などがある
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〈引用・参考〉
シリウスの都飛鳥:栗本慎一郎
聖徳太子と斑鳩京の謎:久慈力
うつぼ舟:梅原猛
ミトラ教の歴史:
ミトラ教研究.弥勒の徹底研究ミトラと弥勒:
ミトラ教と神智学:


◆ここで、ポイントを抽出してみると、
12世紀以降の中央アジアと中国では東方ミトラ教ミーフリーヤ派・弥勒派が活発な活動をし、彼らから朱子は東方ミトラ教を学び「朱子学」を興した。(12世紀)。更に王陽明が「陽明学」を築いた(15世紀)。東方ミトラ教は別名を「明教」というが、中国では明(1368~1644)という王朝名の由来となった。

朱子学と陽明学は東洋版神智学の双璧である。日本では江戸時代に林羅山、三浦梅園らが「日本朱子学」を興隆させ、中江藤樹らが陽明学を興隆させ、伊藤仁斎らが「古学」を起こし、荻生徂徠が「徂徠学」を起こし、本居宣長らが「国学」を起こした

弥勒信仰には2種類あり、死後縁をつないで龍華三会に会したいと願うのが『弥勒下生』死後、兜卒天に上って弥勒とともに暮したいと思うのが『弥勒上生』であるが、ミトラ教の本来の姿は『弥勒下生』である。

つまり日本には、アジアの深層を流れるミトラ教が、着せ替え、乗り換え、重ね着した見えない大河が、存在するということ。

興味深いのは、その流れは一条ではなく、様々なルートから、様々な人物、様々なスタイルでこの日本に流れ込んでいる。

以下は昨年、朱舜水フリークである仲間の、東京湯島聖堂であった出来事だ。

◆     ◆     ◆
※湯島聖堂の担当学芸員らしき人物との会話から・・

>・この孔子像は安東家に渡された三体のひとつと表向きにはなっているが、
>この聖堂のものは武家に渡されたもので。。。ごにょごにょとおっしゃる。
>・突っ込むと、蘇我家経由となっているらしい。舜サマの頃にも
>そして今も蘇我家の分家は続いているので、とのこと。
>・そのような情報は一般に出ていませんよね、と確認すると
>天皇に関係する話は表には一切出ませんとのこと。

>・円月橋といい、舜水の設計能力はプロ並であることを改めて確認。
>単に勉学レベルではなく、実際に設計の経験があるはず。
>隠棲時代か、国家経営戦略のときか。


そこで、おいらは
★湯島聖堂の孔子像が蘇我(曽我)氏経由について…
★円月橋といい、舜水の設計能力はプロ並であることについて…
このように説く!!

▼   ▼   ▼
栗本慎一郎の「シリウスの都飛鳥」をみると、重大なことが書いてあるではないか。※カールポランニーの経済人類学を継承した学者だから、まぁ、「と本」の類ではないと思う。

■引用:栗本慎一郎「シリウスの都飛鳥」320P~
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さて、そろそろ蘇我氏の出自を探らねばならない。
蘇我氏のキーポイントは、ミトラ・ゾロアスター的文化(聖方位、水の利用、
石積みの墳墓)へのこだわり、領域より人の組織へのこだわり、そして双分
制であった。…(中略)…

蘇我氏のルーツは、サカスタン王国を作ったサカ族のうちパルティァ主流派
に最後まで宗教的に抵抗した氏族である可能性が高いだろう。彼らはインド
に阿弥陀信仰を伝えることができず、結果として日本に伝えた。…中略…

彼らのほうが他のペルシャ人より太陽信仰や星辰信仰が強かったと考えてよ
い。それは逆にササン朝ペルシャの国教(ズルワーン教)を彼らが完全には
受け入れなかったということでもあり、彼らはより仏教的なミトラ教を選ん
でいたのである。
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すなわち、朱舜水持参の湯島聖堂の孔子像の動向には蘇我氏と舜水のミトラを母体とする「観念技術」がはたらいているのではないか。つまり、【ミトラ信仰の中央アジアからの蘇我氏の流れ】と、【明朝(ミトラ・弥勒)王朝復興の朱舜水の流れ】の観念技術が、日本で揃った。さらに、石積技術、水利技術をつかった円月橋など朱舜水の設計能力にもミトラ・ソロアスター的文化のおもかげがあったのかもしれない。このあたり結社の得意とするところでもある。

ユーラシアを俯瞰した見方が、出来ると、それはそれでおもしろい。



謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-04-09 08:43 | 歴史アブダクション

義満と世阿弥と男色と

f0084105_7393486.jpg足利義満が絶世の美少年『藤若』を寵愛し、レオナルド・ダ・ヴィンチがジャコモという少年に目をつけ『サライ』の愛称で可愛がったことは知っていたのだが、しかしあの『藤若』が、あの花伝書を書いた『世阿弥』だったとは、まったく知らなかった。

なんだが、ショックだ。たとえてみれば、独身だと思っていた人に旦那がいた!みたいな・・・。が、まぁしかし、芸術家には意外と男色が多い。

『藤若』は大和の観世座で、初舞台を踏んでまもなく、時の将軍足利義満に目を付けられた。ということは少年愛の相手にもなったということでいまの少女マンガが描く世界を、はるか昔に世阿弥たちが生きていたわけである。

もちろん、世阿弥は色香だけで出世したわけではなく、並外れた才能があったわけで二条良基(にじょうよしもと)のようなトップクラスの文化人たちからも可愛がられ、『藤若』こと世阿弥も、そこへとよばれた。連歌師たちのサロンにも出入りし、一流の文化人たちと交わりながら、能を大成していった。

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by ogawakeiichi | 2009-03-26 07:46 | 歴史アブダクション

うつぼ舟

f0084105_810566.jpg◎水墨の師匠が「メイユエンモン」を知ってるか?と尋ねたことがあった。聞きなれない中国語の音でも、慣れてくると、語感から、日本人の名前じゃないかと想定できるのだが、あくまで日本人ぽいと言うだけで、なかなかそうやすやすと中国語の音と日本名がアタマの中で繋がってはくれない。

「メイユエンモン」「メイユエンモン」と幾度か唱えているうちに、はっと「梅原猛」がヒットした。中国語は、ときどきとてもやっかいな言語だ。英語などとは違い、日本の固有名詞をすべて中国語読みにする。ちなみに浜崎あゆみは「ピンチーブー」だ。ブーになっちゃった。(※中国人にとっての日本語の固有名詞もおなじことが言えます。)

水墨の師匠は、訪日で京都を訪ねたおり、「梅原猛」の茶室に招待された。一緒に撮った写真をときどき日本人に自慢げに見せるのだが、芸術系でもないかぎり誰にでも知られたメジャーな存在でもない。

梅原猛は、京都市立芸術大学の元学長。JOCVの先輩アーティスト藤浩志が在籍当時の学長でもある。ぼくは二十代半ば、「仏教の思想Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」からパラパラと縁起をめくりはじめた。

◎唐突だが、個も類も人間の思想は深化していけば、行くだけ、まさかと思っていながらも数寄な彷徨へ向かってしまう。ぼくは日本では、ミトラ、ゾロアスター、マニ、景教らの存在ががすっぽり抜け落ちているのではと密かに思っている。正倉院がシルクロードを伝わってやってきた文物のゴール地点だとすれば、アタマの産物であるミトラ、ゾロアスター、マニ、景教など宗教思想が伝わってきていないとは考えにくい。

景教は空海が持ち込んだ。真言宗は景教(キリスト教ネストリウス派)が深層に流れている。景教に付随してたぶんに、アヘンや水銀や金の精錬の秘法も入ってきた。真言宗の作法をやってみて驚いたのは、十字を切ることだ。灌頂の儀式だってキリスト教の洗礼の儀式じゃないのか。東大寺のお水取りや各地の神社で使用される松明には、単に明るさのためというより、宗教に必要な神秘性が見られる。ざっくり言えば、それらの宗教は深くその存在を隠し、在来の宗教の中に身を潜め、伝来したと想像できる。景教と空海の関係については機会を見て述べてみたい。

ここでは空海以前に、「秦氏」が持ち込んだと思われる原始キリスト教の考察を梅原猛の新刊「うつぼ舟」をなぞりながら、上記の妄想にアワセていく。

つづきを読む
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by ogawakeiichi | 2009-03-10 08:10 | 歴史アブダクション

2.26事件

63年前の今日のできごとである。昭和11年2月26日早朝、東京一帯は前夜から降り続いた雪がさらに激しさを増し寒さも一段と強くなっていた。突然、軍靴と銃声の轟きが市民の眠りを破った。朝5時を期して、歩兵第一連隊・第三連隊・近衛歩兵第三連隊など1400名にのぼる陸軍部隊が反乱決起したのである。世に言う『2・26事件』が起こった。
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叛乱軍の首謀者の一人とされた磯部浅一は2・26事件の直後銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」

この言葉が、ある時から気になってしょうがない、あたまから離れないでいた。皇道派といわれた磯部らになぜ天皇は激怒したのであろうか。それともぼくが皇道派という名称に引きずらているのだろうか。現在午前3時。63年前、緊張高まる帝都において昭和の捩れが加速していく時間に縺れた磯部と天皇と日本を解きほぐしてみたい。

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by ogawakeiichi | 2009-02-26 08:36 | 歴史アブダクション