ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

カテゴリ:鹿児島情報史( 18 )

南からみる中世の世界

f0084105_17093910.jpg

===========================

「南からみる中世の世界」

日時:平成26年9月27日(土曜日)~11月3日(月曜日)

会場:黎明館2階第2特別展示室



南九州から台湾に至る南北1200kmの海域には,先島諸島,沖縄諸島,奄美諸島,トカラ列島,薩南諸島からなる琉球列島が連なる。中世日本の支配領域の周縁にあって,謎に包まれた琉球列島の歴史は,喜界(きかい)町城久(ぐすく)遺跡群などの発見を契機として脚光をあびてきた。


中国の宋(北宋980~1127,南宋1127~1279)の時代,活発化する東シナ海交易のうねりは,11・12世紀,博多を拠点とする日宋貿易を興隆させ,列島内に広範な交易のネットワークが広がっだ。その波は琉球列島の中・南部にも及び,中国産の白磁碗,徳之島産のカムィヤキ,西北九州産の滑石(かっせき)製石鍋(いしなべ)の流通にみる広域の流通圏と文化的なつながりが生まれていく。グスクを拠点に地域の有力者(按司(あじ))が割拠するグスク時代が始まり,やがて三山(北山,中山,南山)の抗争を経て琉球王国が建国される。


序章
南九州と南島(なんとう)

南九州と島嶼(とうしょ)世界との交流は,古くは奄美や沖縄で発見される南九州の縄文土器,弥生~古墳時代の遺跡から出土するゴホウラやイモガイなど南海産の貝製品に見ることができ。平安時代にはヤコウ貝,檳榔(びんろう),赤木(あかぎ)など南島産物が,南九州の支配層から都の有力貴族への贈り物とされるなど,南九州は,琉球列島と古代日本を繋ぐ「ひと・もの・文化」の交流の窓口となっていた。


第一章
東アジア世界と日宋貿易

古代以来,我が国の対外交渉の中心であった大宰府鴻臚館(こうろかん)は11世紀前半に終焉を向かえる。代わって宋から来航する商人たちは博多に住居を構え貿易を営み,ここに「国際交易都市」博多が誕生。博多遺跡群から出土する貿易陶磁は,他を凌駕(りょうが)する圧倒的な物量を誇り,宋商の日用品,容器として持ち込まれた陶器の甕(かめ)や壺,目印に墨書(ぼくしょ)が記された陶磁器など,港湾都市ならではの多彩な資料が目を見張らせます。博多遺跡群を中心に,九州西岸の中世遺跡,交易船の積荷とされる奄美大島宇検(うけん)村の倉木崎(くらきざき)海底遺跡の貿易陶磁などが日宋貿易の痕跡だ。


第二章
中世の都市と町

院宮王臣家(いんぐうおうしんけ。皇族や五位以上の貴族)や有力寺社が集まる京は,海を渡って招来される「唐物」が集まる最大の消費地だ。治承・寿永の戦乱(1180~1185)を経て,源頼朝が幕府を開いた鎌倉は新たな政治都市に生まれ変わり,宋・元代の白磁や青磁の優品が集まる。

歴史上の出来事に彩られた京都や鎌倉出土の貿易陶磁,瀬戸内海に注ぐ芦田川の河床から甦った中世の町草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡の人々の暮らしを映しだす出土品も豊富である。


第三章
カムィヤキ・石鍋・貿易陶磁~平安時代後期の奄美・沖縄と南九州

『新猿楽記』に登場する八郎真人(はちろうのまひと)は,「東は俘囚(ふしゅう)の地(蝦夷=北海道)に至り,西は貴賀の島(奄美諸島)に渡る。交易の物,売買の種,数をあげるべからず。」とあるように列島を勇躍した中世の商人です。11・12世紀,喜界島の城久遺跡群はその盛期を迎え,徳之島伊仙町で生産されたカムィヤキは先島諸島にまで流通し。南九州では島津荘や大隅正八幡宮領の荘園が拡大し,阿多郡司として勢威をふるった阿多忠景は,永暦元(1160)年ごろ追討を受け「貴海島」(『吾妻鏡』)に逃れている。南さつま市の持躰松(もったいまつ)・渡畑(わたりばた)・芝原遺跡,大隅正八幡宮社家跡などが注目される遺跡だ。

第四章
鎌倉時代の交易・支配と蒙古襲来

鎌倉時代,島津氏,渋谷氏,二階堂氏など諸国に所領を有する有力な関東御家人が守護・地頭として南九州の歴史に登場。平氏政権の積極的な対外政策は,対外交易の構図に変化をもたらし,蒙古襲来の衝撃にも関わらず,宋末から元代の交流は益々盛んになる。執権として代々幕府の実権を掌握した北条氏一門は,日元の貿易にも深く関わり,千竃(ちかま)氏を通じて南九州・琉球列島の交易支配にも関わったとされます。鎌倉時代の交易・交流に関わる遺跡や文書のほか,弘安の役で沈没した元船の発見で知られる鷹島(たかしま)海底遺跡などがある。

第五章
南からの風~グスク時代の奄美・沖縄

南北朝の争乱期,南九州各地に築かれた中世山城からは明代の中国産陶磁器の他,タイ産やベトナム産の陶磁器も出土し,戦乱の時代,海外との交易を求めた領主層の姿があった。14世紀には今帰仁(なきじん)城や勝連(かつれん)城に石積みのグスクが築かれ,沖縄を起点とする新たな対外交易が発展します。1429年には中山王尚巴志(しょうはし)によって三山が統一され,琉球王朝は繁栄の時を迎えた。



[PR]
by ogawakeiichi | 2014-11-13 17:11 | 鹿児島情報史

徐福伝承を検証してみる。【壱】

徐福伝承を調べてみる

f0084105_14145494.jpgこのテーマに取り憑かれ、昨年末はいちき串木野の図書館に篭もり、文献に首ったけとなる。

いちき串木野の図書館は、さすがに徐福伝承のある街らしく、徐福コーナーが完備している。それらの本を片っ端からめくり、気になったことを書き移し、記憶に止め、フィールドにでて確認する作業に没頭した。

では、徐福がいちき串木野へやってきた伝承はどこからはじまったのだろう。

まず、いちき串木野市に徐福伝承があることは室町時代の学僧、桂庵玄樹が『島隠漁唱』文明11(1479)年に詠まれたひとつの詩文より広まった。

それ以外でも紫尾文書(冠嶽神社宮司さんの話)から上宮岳神社(古紫尾神社)の縁起に「徐福来たりて、紫の紐をこの地に納む」の記録があることを知るが、この桂庵玄樹による『島隠漁唱』の影響が大きい。

徐福曾従海外来 初知日域是蓬莱

仙園花木春常有 祝得邦君萬壽盃

仙楽花飛絃管楼 満筵佳士喜清遊

主人有徳境彌顕 一岳高擎冠九州

従一神人来脱冠 仙山景象遶天壇

層岩萬丈絶巓水 雨不添深旱不乾


=========
冠岳は徐福が楼船に乗って蓬莱の薬を求め、初めて下り立った地。景色と人の素晴らしさに敬意を示し、冠を脱いだのでその名がある。徐福は釈服に着替えて 栖止した。このような霊地はまさしく蓬莱であり、冠岳に太守と同席していることは千載一遇。(引用先あり)
==========

さて、桂庵玄樹とはどのような人物だろう。

桂庵は周防、いまの山口県で生まれ、惟肖得巌に学び、遣明船で明に副使として文明十年(一四七八年)に薩摩に招請され、五十二歳からの三十年間を文教に捧げた。その遣明船には、日本水墨のトップランナーである雪舟が乗っていた。以前ブログでもとりあげたことがある。

彼は一四七九年、当時の藩主島津忠昌と共に冠岳に住職を尋ねている。

============
西嶽の形、風折烏帽子に似たり、故に冠嶽と称す(略)又一説に孝元帝の御宇、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠嶽と称す(略)徐福此嶽より紫尾山に至り、又去て紀州熊野山に至る、皆熊野権現の祠を建つといふ、此説真偽知るべからず、といへども、旧記に随て是を記す、紫尾山は鶴田邑に詳なり(天保14(1843)年の『三国名勝図絵』、串木野・出水・冠嶽の項)
===================
と書いてある。もうこのころには冠岳で封禅の儀式がなされたことは通説となっていた。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-03-19 14:01 | 鹿児島情報史

かごしまの都市計画を考えてみた。

かごしまの都市計画を考えてみた。


【このはなのさくやみち構想】

↓写真があやしいな、、

f0084105_13165213.gif

=========
門前町の参道では、人々はただ神殿へと向かう。ここでは桜島を聖なる山に、中央駅からドルフィンポートまでを参道と見立て、無意識のうちに人々がこのラインを中心線として往来する動線を考えてみた。
f0084105_1312898.gif

ヨーロッパや中国ははじめに全体像があって部分はあくまで全体の要素としてとらえる。しかし日本では部分からはじまりそれらを積み上げて全体をつくる。神経系のシナプスが伸びていく様子と似ている。

今回、鹿児島中央駅から、天文館へ向かう通りを観察してみると、高見馬場~鍛治屋町~高見橋の間は徒歩での交通量が非常に少ない。通りに面した建築が単調なため、にぎやかさがなく、通りとしての魅力にかける。とすれば、力ある建築、オープンテラスのようなカフェ、自由な通りの演出などで、人が集まりやすい空間(核)をつくり、分断箇所を繋いでやる必要がある。また、フランスで採用されているヴェリブ方式で(自転車貸出システム)で、可動性の自由度をより高めることも必要なのではと思う。
f0084105_13131080.gif

f0084105_1374614.gif
f0084105_138656.gif
f0084105_138276.gif


このはなのさくやみち構想
◎トラムと、自転車と、徒歩の3通りで誘導。
◎サクラ島への参道感覚?
◎鹿児島中央始発、ドルフィンポート着のトラム
◎鹿児島中央駅は、タクシー乗り場を移し、
引き込み線を敷設して始発駅にする。
◎10年後、公共交通機関以外は入れなくする
◎左右に自転車道をつくる
◎街路樹が十分に木陰をつくる道
◎自由度の大きい歩道空間、歩道を広場とみなす
◎しかし、パラソルなどカラーは統一する
◎夜の7時以降は通行止め、屋台が並ぶ
◎駅周辺、通りのサイン計画の徹底
◎力をもっている建築物をつくる。
◎五感で感じる通り
◎おどろきと、共感、おもてなし。


モノとコトと相互性が繋がる場を目指していく。。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-03-09 13:00 | 鹿児島情報史

天之御中主神

f0084105_93310100.jpg悪友白画廊Mの面子を潰しちゃと、深夜からピカサをつかって資料づくり。これ,スライドの長さに合わせミュージックを一緒に編集できるのはありがたい。仕上がったときはすっかり明るくなっていた。

外は久々の寒波到来。北風が身にしみる。高速を北へと走らすと霧島連山は7合目まで雪を頂いていた。

麓にある県立霧島高校の体育館で『アジアと日本の見方』を半徹でつくった資料をまじえて高速連射。こっちはユンケル飲んで、気合がはいって、しゃべりっぱなしだからいいものの、学生たち、寒かっただろうに。。。。

久々の霧島だ。神々の里だ。こりゃあ、日本マニアのおいらにとってはほっとけない。講演を終えると。さてさて、まずは和気神社へ。。ここは宇佐八幡の神託事件で中央を追われた和気清麻呂の配流先とされる。宇佐へ配流の際に猪によって難事を救われたとの伝説から和気神社では狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている

何度も通った薩摩一之宮『鹿児島神宮』。大隅一之宮『霧島神宮』はパスして、国分市弟市丸の『天御中主神社』へむかう。鳥居の上には北斗の名が掲げられている。

『天地初めて発けし時高天の原に成りませる神の名は。天之御中主神』とは『古事記』の冒頭だが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はこの世に最初に出現し、高天原のトップ。いわばこの世の主宰神。

続いて登場したのが、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)。これらら神と合わせて『造化三神』と呼ばれる。

天之御中主神は、県内に9カ所あるが、だいたいアメノミナカノミコトという名前を知っている人も少ない。ところが妙見さんというとちょいと事情は変わる。

天之御中主神は、北斗信仰など道教の影響を受け、室町時代以降は、日蓮宗で信仰される妙見信仰と習合した。妙見菩薩は北極星、北斗七星の神格化だともいわれるが。天之御中主神が妙見菩薩の姿を借りて庶民の中に降りてきたのだ。参考バジラな神々

でも、鹿児島神宮はヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメを、霧島神宮はニニギノミコト。つまりアメノミナカノミコトの子孫を祀っている。しかし、どちらもトップに君臨する最高神である『天之御中主神』の神社よりはるかに立派だ。なんでじゃい?
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-12-17 09:28 | 鹿児島情報史

タオイズムの丘

↑下:投げ出された世界の周辺 からつづく↓

◇タオイズムの岳 【蓬莱伝説・タオイズム】
 川内川を望む南の丘には、秦の始皇帝が徐福に命じ、不老長寿の薬草を求めて東方に使わせた徐福・蓬莱伝説のひとつである“冠岳”がある。徐福はこの山頂で、薬草を探しあてた際、冠をささげたと伝えられている。今でも冠岳には断崖絶壁に修行場が点在し、廃仏毀釈にあった廃寺を復興させた鎮国寺や、庵を結び仙人らしさを求めタオイズム的修行に励む人もいる。   
 
タオイズムの呪法をマスターしたプロをタオイストと言う。タオイストや方士による道術や方術は、日本では「山の民」の秘術としても伝えられ、山伏の起源といわれる「役行者」もタオイストの呪術の持ち主だ。川内川と東シナ海を望む冠岳は、山中に点在する修行場にタオの気配を感じさせるエリアでもある。
 
タオイズムには多元的で5つの見方が混在する。第一には老荘思想を背景にした無為自然。第二には仙人的な生き方に憧憬する神仙思想。第三に易や陰陽五行を背景にした陰陽思想。第四に星相家や医方家や預言者などの神秘思想。第五に地勢を占い土地を選定するための風水思想、民間の鬼神の祭、桃印や印鏡などを駆使する方術とよばれる民間信仰などだ。冠岳におけるタオは第二の仙人思想、第五の方術を使った民間信仰などだ。

◇祖父と記憶と芸術と 【タオ・枯山水・山水画】
 タオイズムの原理は季節感、方位、色彩観、人体の見方など、ありとあらゆる場面に及ぶ、山水画も四神相応の風水術もタオイズムのひとつで、日本の禅寺にある枯山水の石庭も、もとはといえば、タオガーデンの模倣になる。

 美智子様に御進講した庭師であった祖父の墓は高野山にある。といっても和歌山県の高野山ではなく真言宗の泰平寺と言う名のお寺だ。地元では弘法大師の高野山といったほうが通りがよい。日本出版界の母型をつくりアインシュタインを招聘した改造社・山本実彦もここに眠る。薩摩藩は幕末の廃仏毀釈が特に激しく寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。泰平寺はその荒波を越え辛くも存続するボロボロの寺だ。だが豊臣秀吉が薩摩攻めの際、薩摩方の大将・島津義久の降伏にともない両者が和睦をした名刹でもある。ここには、そのとき秀吉が座ったとされている和睦石が残っている。その石を利用してちょっとした枯山水があるのだが、その石組みをしたのが祖父だった。

 枯山水は池や流水を用いず、石と砂で山水の風景を表現する庭園形式。竜安寺や大徳寺大仙院に代表される。水を感じさせるために水を抜いた。そこには日本人究極の「引き算」の表現があり、玉砂利や砂による余白と残余の表現は和様ならではだ。「残余の自覚」があったとき「仮山水」は「枯山水」に飛躍する。禅者「夢想礎石」にはじまり、職人群として脚光を浴びるのが「虎菊」や「善阿弥」らの山水川原者だ。彼らはしばしば「清目」と蔑まされつつも、日本の枯山水を独自につくりあげていく。

 水墨画が如拙・周文・雪舟により禅林の中で「水墨山水」の実験にとりかがっていたのと同じ頃、日本の庭では「負の山水」である枯山水の試みが着手されていた。「枯れる」とは「離れる」に通じる。元来は人が離れて恋しくなるときのことを表す言葉でありそういう「枯れる心」というものが、庭にも山水にも及ぶとき、われわらは枯山水に至り、そこに水の流れを聞くのである。枯山水は「負の庭」なのだ。

 ぼくは祖父からたいそう可愛がってもらった。完成の枯山水庭園を指し示すため、破墨で描く山水のイメージ画も達者であった。一気に仕上げる溌墨にいたっては汪蕪生の「黄山幻幽」のように霧風を湧かせた。多分にぼくが今こうして、美術の周囲を彷徨しているのも祖父の血の遍歴のミームがしっかりとぼくのなかにも組み込まれているからなのだろう。
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-14 09:20 | 鹿児島情報史

投げ出された世界の周辺 

→天の岩戸伝説からつづく↓

◇投げ出された世界の周辺 
 薩摩川内のホノニニギ(ニニギノミコト)を奉る可愛山陵へは昭和天皇、平成天皇(皇太子当時)、皇族が行幸・参拝されている。庭師であったぼくの祖父は、ご結婚報告のため御陵に行幸された美智子妃に“南九州の植物“についての御進講役を賜ったという。

 ぼくはと言えば、ちょうどそのころ山陵の麓、薩摩川内市国分寺町国府に、「世界と一緒に空中を飛んでいる網目の一部」として投げ出されていた。カールセーガンの言うところの宇宙のビックバーンから数えること、地球カレンダー12月31日午後11時45分以降、第四世紀完新世第四間氷期の刹那に、RNAの多彩な編集活動による生命活動をスタートさせたことになる。

 生誕の住所名が示す薩摩国分寺跡では大規模な調査が行われる最近まで、畑や土手を掘ると平安期、薩摩国分寺の屋根を葺いた「天平の甍」が出土する場所でもあった。豊臣秀吉の九州征伐に際し薩摩国分寺は焼失。その後明治維新の廃仏毀釈によるダメ押しで現在国分寺の形跡は全く無い。川内市資料館で見る再現ジオラマでは我が家の辺りは極彩色の伽藍に囲まれ、息吹としての「いのち」がその最も美しいモノとしての「かたち」になり、日本本来の美を受信できる場所でもあったようだ。

 川内川河口の北緯三十一度線をまっすぐ西に辿れば上海に至る。唐様の響きの中に平安朝から唐朝へと覚悟と熱意で往来した先人たちの記憶の断片を想起できる場所がある。河口近くには “唐浜”、唐へ渡る船が出港していた“唐渡口”、“唐船が艫”とよばれる唐の難破船が漂着した場所など、いまでも大陸との往来を名に留める場所である。幼少の頃“唐浜”には祖父がよく海水浴に連れて行ってくれたものだ。そのせいか、幼心に東シナ海に横たわるリメスを越えた「むこう側」への思いを抱くようになっていた。

つづく
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-13 09:09 | 鹿児島情報史

天の岩戸伝説

◇天の岩戸伝説 【スサビ・数寄・サビ】

アマテラスの天の岩戸への引きこもりで闇世となってしまったことに困り果てた神々は、アマテラスを引き出すためのアイデアを話し合う。その結果、岩戸の前で「アメノウズメ」がストリップを舞い、外の賑やかさにアマテラスがなにごとかと岩戸から覗き込んだ瞬間、「タジカラ」という神が岩戸を一気に押し開けるというアイデアだ。そのアイデアはまんまと成功、世間に再び太陽が戻ってきた。これが《高天原パンテオン》の前半のクライマックス「天の岩戸伝説」になる。
 
ぼくは高校の卒業式を終えると、リュックを背負って、宮崎県北部を走る「闇世」をアナロジーさせる名称「日の影線」に乗り、天の岩戸駅に降り立った。天の岩戸駅は高千穂峡にかかる鉄橋の脇にある一日平均乗降客3名のプラットホームだけの駅。はるか下をながれる川面から周囲の山々に反射する木霊の水音と朝方に広がる雲海は神話の里を想起させるのに十分な場のエネルギーをもつ景色であった。
 
大きくなってもあまりにも泣きわめくスサノオは、父神のイザナギにより「高天原」から「根の国」出雲へ追放されてしまう。その後「荒ぶる神」スサノオは、これもまた一転、「流された王伝説」になり、ヤマタノオロチ退治の「出雲神話」《出雲パンテオン》と変化していく。
 
スサノオに代表される荒らぶる魂、“荒魂”は、元来、風が吹きすさぶ感覚をもとにうまれた感覚で、のちに「スサビ」とよばれる。「スサビ」は「遊び」とも綴って、日本文化の至るところで極端に、あそぶものたちの感覚の底辺を支え、これがすすんで「数寄」の精神へ向かっていく。その後、スサビは、日本文化を体表する「サビ」へとすすむ。

◇ホノ二二ギはここにおわします 【オラリティー・一対】
 川内川水源のある霧島山系には山頂に「天の逆鉾」をまつる天孫降臨の地と伝説される「高千穂の峰」が鎮座する。その河口にあたる薩摩川内には神武天皇、天皇家に繋がる「ニニギノミコト」を祭る神亀山・可愛山陵がある。川内川河岸から山陵へ延びる参道の金赤の3つの大鳥居をくぐり抜け、最後のアーチ型の石橋を渡ると、いよいよ山陵への長い階段がはじまる。息を切らしながら322段の石段を登り終え、宮内庁の衛視詰め所を通りきると玉砂利の敷き詰められた御陵へと到達する。じつはこの階段、中学時代、所属した剣道部のトレーニング場所でもあった。

日本神話は、語り部“稗田阿礼”によるオラリティーを太安万侶が万葉仮名で記す『古事記』と舎人親王の漢文による編纂『日本書紀』に始めて描かれた。これらによる天孫降臨物語では、天孫一族(天皇家)代表のホノニニギ(ニニギノミコト)という神が列島に名乗りを上げ、「猿田彦」を案内役として日向から全国制覇がはじまることになっている。これが《日向パンテオン》で、このホノニ二ギの御陵がぼくの育った薩摩川内市にある可愛山陵だ。
 
アマテラスの《高天原パンテオン》の流れを受け継ぐホノニニギの《日向パンテオン》。それとは反対に《高天原パンテオン》から追放されたスサノオの《出雲パンテオン》。その二つに枝分かれする分岐点を凝視してみると、『アマテラスの神話に象徴される光の国《高天原》を正統とする大和朝廷』対『追放されたスサノオとそれに続く征服されたオオクニノヌシの神話に象徴される異端となった《出雲》』ということになる。出雲のオオクニノヌシが要求を呑んで「国譲りした」相手とは、大和朝廷を準備していた大王一族、(天皇家)のことだ。

つづく
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-09 17:39 | 鹿児島情報史

腑に落ちる神の記憶

↑下からの続き↓

◆腑に落ちる神の記憶

◇日本の神話 【カオス・概念と観念・流された王伝説・HereとThere・和魂と荒魂】

川内川にかかる泰平橋の両側には奉納名を刻んだ灯篭が等間隔に立ち並び、ほぼ市のセンターに位置する日本神話における一人である《日向パンテオン》ホノニニギを奉る杜へと続く。

混沌とした世の天地開闢からはじまる世界版・盤古伝説が、どこの始祖神話にもあるように、日本神話では混沌状態のカオスから、「アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)」、「タカムスビノカミ(高御産巣日神)」、「カミムスビノカミ(神産巣日神)」の「造化三神」が誕生する。

次に「神代七代」が登場し、初期の頃、カタチとしては観念的だった神々が、七代の過程を経て男女一対へと次第に概念的に分化をしていく。開闢から七代目には日本版アダムとイブである観念的象徴と言うべきイザナギ・イザナミの一対の男女の神が生まれ、観念的日本の国土を生みだしていくことになる。

イザナギ・イザナミの間に生まれた初めての子は奇形の“ヒルコ”であった。“ヒルコ”は「流された王伝説」となり空白の時を経て「負」から「正」へと転じて、最後は庶民に奉られた商売神「えびす」へと変化していく。「えびす」は漢字で「夷」と書き、華圏では辺境・化外のモノをさす夷狄でもある。
 
「流された王伝説」の「流す」とはある存在を「流し雛」のごとく「流す」ことで、境界を超え、脱皮、転生させていく。すなわち“ヒルコ”は脱皮、転生しながら精霊や威力を分与され、きらびやかな「負の花魁」としての庶民に愛される「エビスさま」となる。世界神話にはこのような「流される」物語が多く存在し、それらは「貴種流離譚」と呼ばれている。
 
その後、イザナギは、先に死んだイザナミを追って黄泉の国へ行くのだが、あまりにも変わり果てたイザナミの姿に、一目散にこの世へと逃げ戻った。これを「よみがえり」という。イザナギはすぐさまに身体を水で清めて“禊”をし“穢れ”清めたとされる。以来、「禊」は「ThereからHere」への“結界越え”を祓う行為として、日本人にとっては切実なコトとなる

追いかけてくるイザナミから逃げ、よみがえりの途でイザナギの左目から“アマテラス”が右目から“ツクヨミ”、鼻からは“スサノオ”が生まれる。その後、アマテラス《和》とスサノオ《荒》は、なにかと比較される一対の存在になっていく。スサノオは生れつきの暴れん坊で、しかもかなりの泣き虫であった。最初はアマテラスもスサノオをかばうのだが、ついに堪忍袋の緒が切れ、スサノオの荒ぶれから逃れるように「天の岩戸」に引きこもる。
 
柔らかな精神と行為をもつアマテラスのスピリットは「和魂」、荒ぶる神“スサノオ” は「荒魂」と呼ばれるようになり、「アマテラスとスサノオ」:「和魂と荒魂」の対比は今では歌舞伎の「和事と荒事」としても表現され、極めて日本的な方法のミームとして残っていくのだ。
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-08 15:55 | 鹿児島情報史

荒ぶる月夜の記憶

◇荒ぶる月夜の記憶 【境界・HEREとTHERE・禹歩のステップ・橋姫】

↑下からの続き↓

この川内川にかかる泰平橋を境に、中秋の名月を仰ぎ見る十五夜の夜365メートルに渡る大綱を約3000人の荒らぶれで引き合う伝統行事がある。島津義弘が秀吉の命で朝鮮征伐へ出陣の際、薩摩武士の意気高揚をもって始まったとされている。

それは綱引きというより肉弾戦であり覚悟の行事だ。橋を境に、薩摩藩島津氏の居城、鶴丸城に近いほうを上方、遠い方を下方とよぶ。互いの陣営には綱を引っ張る「引き隊」に加え、「押し隊」と呼ばれる相手方の引き手を蹴散らす部隊がいる。綱を分ける中央ではお互いの「押し隊」が相手方を蹴散らそうと、スクラムを組み神輿をかつぐときのステップに似たタオイズムの「禹歩」に近いステップで相手方をグイグイ押して攻め込むのだが、相手方の「押し隊」も当然黙っておらず、中央で押し合いぶつかりあうことになる。

 両境を示す場所には「壇木」とよばれる地面か1メートルほど突き出た神木が突き出、大綱の両端には「ワサ」と呼ばれる輪が結んである。相手方に綱をもっていかれそうになったとき、勇者で固める最後尾の「ワサ」をこの神木である「壇木」に引っ掛け、大綱を中央より相手側へもっていかれないようにする。決戦前の「壇木祭り」の神事を終えると「ここ」と「むこう」の共同体を区切る「村立て」の中心に仕立てられた「壇木」を境に、1番太鼓が打ち鳴らす激しい音で、いよいよ豊作の祈りを賭けて戦いの火蓋がきられる。

 もともと境を区切る“橋”にはいろいろな情報が吹きだまるとみられていた。そこには宇治の橋姫伝説に有名な愛憎の激しい女神がおり、一条戻り橋の鬼女のような妖怪のたぐいもいた。橋はこの世とあの世の境目で、あっち側とこっち側の共同体の境目でもある。川内川に掛かる泰平橋を境にした十五夜は、市内の高校生も「あっち」と「こっち」に分かれて熱い戦いの仲秋の青春の夜を過ごしたものだった。 

なぜ綱引きが“月”とこんな縁を結んだかといえば、潮の満ちひきに関係があるらしい。次に、不死を願い、豊穣を祈ることに関連し、水神信仰や龍神信仰ともつながっていただろうという。なお薩摩川内市の沖に浮かぶ甑島では、おなじく中秋の頃、「かずらたて」とよばれる行事がある。五穀豊穣を祈り、山から採ってきたカンネンカズラ(くずかずら)をつなぎ合わせて綱をつくり、それを大蛇にみたて地域内を跋扈のリズムで練り歩く。ぼくは中国と縁を結び約10年が過ぎようとしているが、幼い頃から見てきた川内の大綱引き、甑島のかずらたてには、柳田国男の言う“海上の道”、島尾敏男の言う“ヤポネシア”を伝って吹き込む“龍神信仰”と“タオイズム”に通じる大陸からの風を感じてしまうのだ。
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-08 06:20 | 鹿児島情報史

腑に落ちる薩摩の記憶

◆腑に落ちる薩摩の記憶

◇流せない水の記憶 【おとずれ・イコン】
鹿児島県薩摩川内市は霧島山系に源をもつ川内川の河口に位置する町である。街の中心を貫く川内川は梅雨の時期になると幾度も氾濫による堤防決壊を繰り返してきた。高校生のときは数度に及ぶ大水害で街の全域が幾度も冠水。避難の途中で亡くなった同級生のニュースは“個と類の生命(天災)”をかわるがわる沈思黙考させた身近な最初の出来事でもある。   
 
古代から川薩地方に繰り返される大洪水の「おとずれ」は、流域民たちにとって、畏れと見えない「稜威(イツ)の力」を感じさせていたようで、黄河の洪水六神と同様に、洪水を面影的存在「河童」の悪戯として仕立て上げていた。

ぼくの祖父は河童が“ひょーひょろひょろ”と鳴きながら、田圃の畦を上流に向かって隊列で歩くという不安定な記憶の面影に、大雨と洪水の偶有性を重ね合わせていたようだ。まさしく「音連れ」なるコトである。

祖父に連れられ、川内川と樋脇川が合流する淵に建つ祠(戸田観音)を尋ねた記憶もある。そこには祭られた観音様と、それに従う沢山の「河童像」が安置されていた。今、想起してみれば、二つの川が合流する深い淵を見下ろす崖上に、聖なる場所と俗なる場所を注連縄で区切った神聖な結界を準備することで、そこに代理の力をもった観音のイコンを奉り、川に対する治水の願を託したのだろう。 つづく
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-10-07 11:50 | 鹿児島情報史