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彩遊記

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カテゴリ:情報とデザイン( 131 )

オートポイエーシス・トレーニング

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膨大な量の書籍を整理処分している。デザイン修行時代、薄給のなかで何年も最優先で買い続けた誠文堂の「IDEA」。1996年から12年滞在した中国で買い集めたデザイン関連書籍。数多くのパンフレットなどなど今後見ることもしないであろうと思える書籍は思い切り処分している。束ねた書籍をもう一度振り返れば、偶然にも目に留まり“金銭”という対価の支払い動機とその後の物語があるものばかりだ。

どうしても処分しきれなかった本を見渡せばある特徴が見えてくる。それはなんど読んでもなかなか腑に落ちない濃厚な味わいをもつ謎めいたシリーズモノ。工作舎“遊”、中国の思想全12巻、梅原猛著作集、青土社や求龍堂など哲学書群だ。

ガイドブックもない時代、南アジア・インド彷徨、中国生活。チベットや新疆ウイグルへの旅へて、8000M級の山々を仰いでのヒマラヤトレック、延々と続くウイグルの砂漠の神々しさに涙したことがあったが、i言い換えれば身体感覚を通したリアリティーからの経験記憶としてインプットはしてきたが、それは次第に思索へのインナートリップへと向かっていく。

『われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしている(松岡正剛)』

普通一般的には「単語の辞書」だけに偏るそうだが、わたしにはなぜか旅やアート、デザインで得た視覚からの「イメージの辞書」が先行し、言葉のアウトプットすることは苦手であった。それはたぶんに「単語の目録」を記憶として保存する努力が足りなかったせいであろう。※ブログはそのための言語訓練でもあるが・・

本を整理処分するなかで捨てられなかったひとつに“オートポイエース”関連のファイルがある。このオートポイエースという概念、中国滞在中にアフォーダンスとともにわたしのもとに頻繁に降りかかってきたものだが。わかったつもりになると、するっとどこかへ消え去っていくやっかいな概念でもある。

ところでこの“わかる”という概念だがそもそもオートポイエースから“わかる”とは、「わかる」=「学習する」と言うことで、学習について一時的に知識の活用がうまくできても、それはコツの修得にどどまり能力そのものが開発されているわけではない。(河本英夫)

前置きが長くなったが、書籍整理で再会したコピーのファイルがトリガーとなりこれまで幾度も弾き飛ばされていまだ攻略できない概念オートポイエースに再び嚆矢を向けてみることにした。

さくっと、モードを変えた文章で。。。。
↓  ↓

オートポイエースというのは、デザイン言語の一つであるが、これまで使っている経験から語るのはなかなかむつかしい。しかし様々な多くの人間の可能性を生み出す考え方である。

ここに黒いモノがあるとしよう。思考実験的に、そのモノのカタチからその色だけを取り出し,持ち上げてみる。つまりカタチと色を分離してみよう。(※これはインドで龍樹の説いた『空の思想』か!?)

そんなこと、現実にはできるはずがないって。そりゃあ、もちろんそうだ。しかし、ゆ~っくりと、思考のなかで、行えば・・ほらイメージできるでしょう。

さて、持ち上げた色はどんなカタチをしているか?するとそこには、色とカタチがお互いを決定できない分だけ、その間隙にさまざまな可能性がすぐにでてくる。ここに何かを生み出すための隙間、かなり広い隙間があいていることがわかるでしょ?!。そこまで出来れば、こういう処、こういう経験に、つぎつぎと入り込んでしまおう。

入力や出力によってのみ制約されるシステム経験から、内部も外部もない、まったくちがうシステムにパッと飛び込んでみる。その『ツボ』がわかったとたん、さまざまな新しい経験がうまれでてくる。

う~ん、これは。。例えば、境界が先に存在してシステムを区切っているのではなく、その運動が境界をつくり、その運動が停止した瞬間にその境界も消滅するようなイメージだ。

つまり、『存在の裂け目』から『行為の裂け目』へ

あとはそれにテクニカルにカタチを与え、表現を与えていく。

ここにはいりこむと、アイデアはいくらでも湧き出てくる。

このトレーニングを続けて、ここに目覚めよう!

微笑みだけを残して顔を消す。そんなトレーニングをやってみよう。

内と外を裏返す、世界を裏返す。そうすれば、ほら、世界が倍に広がるはずだ。(参考:河本英夫 SFC講義)

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by ogawakeiichi | 2014-09-05 16:23 | 情報とデザイン

文字の美・文字の力

おおっぴらには言えないのだが、某プロジェクトが発動して約1ヶ月。尊敬するデザイナー「杉浦康平さん」の担当だ。←おおっぴらに言えないならブログに書くな!。(笑

杉浦康平のデザインにはじめて触れたのは、ぼくがインドから帰国し、モノつくりを目指して飛び込んだデザイン事務所でのことである。←どちらかといえば、伝統工芸に惹かれていたのに、当時のデザインは資本の毒に侵されていた。

まず修行といえばデザイナーのアシスタントからなのだが、仕事といえばデザイナーが指示した文字指定を写植屋さんへもって走り、文字の打ってある出来あがった印画紙をもらいに行くのが主な仕事だ。

帰りはだいたい、深夜26時を過ぎていた。おかげで、文字についてかなり詳しくなっていた。いまでも、文字の書体、大きさ、行間は100%当てられる!。

そのなかでも特に、書体については詳しい。←パソコン書体が出現して、ちょっとあやしいかも・・(笑

当時、写植機のメーカーである写研から正月が近づくと驚くほどの緻密なデザインとあわせのキャプションで、ゾクッとする美しさのカレンダーが贈られてきた。そのデザインが杉浦康平だったのだ。

杉浦康平デザインのカレンダーシリーズ「文字の生態圏」が、欲しくて欲しくて、写植屋さんになんでも言うことを聞きますからカレーンダーをくださいと日参し、やっと手に入れた思い出がある。←もうひとつの写植メーカーであるモリサワは、たしか、田中一光デザインだったような。。。

そんな杉浦さんが、当時のカレンダーシリーズの一部を再構成して出版したのが、この『文字の美・文字の力』である。

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●文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものだった。

●漢字は象形文字だと言われているが、その成立過程を考えてみて、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現するといった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、それが文字に生気をあたえている。

●漢字は書き手が全身を開いて自然と向かい合う。自然に潜む、不可視のざわめきをとらえきる。その結果が、漢字という文字のかたちに結晶している。つまり、漢字は自然の「かたち」をうつしとり、そのかたちに自然の「いのち」を吹き込んで産みだされた。

●文字にとって大事なことは「声の乗り物」だということだ。ただ単に目で見るだけではなく、人間の音声も写しとる。


==========

パソコンや携帯メールなどが普及した現代は、文字と人間の関係が激変した時代だ。

文字は書くという行為から、キーボードを打つという行為に変わり、そのため、かって文字が包み込んでいた生命力、身体性は、余分なものとして消え去ろうとしている。だが、一方で文字の魅力を新しく見直そうとする取り組みも始まっている。単なる記号に止まらない、記号性からはみ出した文字の活力を再発見しようとする動きになっていく。

アジアの漢字文化圏の日常や伝統図像に息づく、人々の祈りが込められたさまざまな文字のかたちをグラフィックデザイン界の巨匠・杉浦康平が豊富なヴィジュアルとともに読み解く国家、民族、そして現代の電子空間を超えて響きあう文字の生命力を解き放つ一冊です。



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by ogawakeiichi | 2014-08-29 04:48 | 情報とデザイン

アブダクション

f0084105_23293121.jpgアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。従来的帰納法からは斬新な新理論、イノベーション(あらたな価値の創造)は生まれない。論証を行うだけである演繹法からももちろん、新しいアイデアや新しい理論は生まれてこない。

記号論の王様、チャールズ・パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があると指摘した。

アブダクションとは、説明すべき事実に対してたくさんの仮説を立てて、その中からもっともらしい仮説を選び出す拡張的な推論プロセスである。たしか松岡正剛は『当て推量』と言い換えていたような気がする。

パースは分析的推論として【演繹】があり、拡張的推論として【帰納】と【アブダクション】があると整理した。アイデアや新しい仮説はどうやって生まれるのか。そのあたらしい考え方がアブダクションである。

ウィキペディアによると、帰納(きのう、Induction)法とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法のことで、対義語には演繹法がある。演繹法においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。

アブダクションは帰納に含まれるものであるが、帰納のなかで創造性の高い拡張的推論であり過謬性の高い、論証力の弱い推論でもある。だが、パースによると既存の枠組みを超えるイノベーション(あらたな価値の創造)を生み出すために不可欠な、もっとも優れた推論だと高く評価した。
ここで、思考のプロセスである代表的な演繹と帰納を整理しておく。

●演繹(deduction)
-----------------------------------------------------------------
<前提1> AならばBである。 

<前提2> Aである。

<結論> Bである。



●演繹ではない推論(広い意味での帰納 induction)

1.枚挙的帰納法(狭義の帰納)
-------------------------------------------------------------------
<前提1> a1はPである。

<前提2> a2もPである。

<結論>
(たぶん)全てのaはPである。




2.アナロジー(類推)
--------------------------------------------------------------------
<前提1> aはPである。

<前提2> bはaと似ている。

<結論>
 (たぶん)bはPである。


3.アブダクション
------------------------------------------------------------------
<前提1>
 aである。

<前提2>
 Hと仮定すると、aがうまく説明される。


<結論>
 (たぶん)Hである。


「アブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままにブレストするように提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている」

仮説はどこから生まれるのか?仮説は頭の中から自然と涌いてくるものだ。そこには何の法則も根拠も見えない。そこには、ただただ思いがけない創造的な飛躍がある。

なぜヒトは「ひらめく」ことができるのか?。なぜ人間は創造性を持っているのか。それは進化生物学的に説明がつくとアブダクション研究者は考えた。生きていくための問題をとくためには発想力が必要だ。アブダクションは人類進化の過程で自然に適応するために人間精神に備わった「自然についての正しく推測する本能的能力」であると考えた。

アブダクションでは、そうした「示唆的段階」で生み出したたくさんの仮説(アイデア)の中から、

1 もっともらしさ もっともらしい理にかなった仮説
2 検証可能性 実験的に検証可能な仮説
3 単純性 より単純な仮説
4 経済性 実験に経費、時間、思考、エネルギーが節約できる仮説

という基準で、もっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟考的段階に進んでいく。アブダクションという厳密でない推論こそ人類の叡智の中核をなす能力と言える。人間には創造性が進化の過程でビルトインされている。


参考引用サイト・http://www.ringolab.com/note/daiya/
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by ogawakeiichi | 2014-08-27 11:21 | 情報とデザイン

ブランドとしての名所

f0084105_103327100.jpgなんちゃら起こしや、地域ブランドやらが近辺をウロつきだしてしている。付箋紙もったファシリテターやコンサルが登場し、紋切型で去っていく。

デザイン系でもデザイン思考として付箋紙を使ったエスノグラフィーをやるにはやるが、そこにはカタチ誕生までの責を負う。場所のブランドとはいったいなんでしょう。“日本流”からの一考察。

============

さて、さて、日本では場所のブランドのことを「名所」とよぶが、この「名所」の発生というものなかなかオツなもので、誰が言い出したのははっきりしないのに、いつのまにやら人の口の端にのぼり、それが、次第に公衆のイメージマップの重要スポットになっていく。

しかもいったんそうなると名所としての地位は断然ゆるがなくて、そこへ次のイメージが連鎖され、物語がついてくる。

つまり、ブランドとしての名所は『情報の現場的発生』であり、『情報の現場的編集』を促すきっかけでもある。

日本でも、名所はおおむね古代歌謡や和歌とともに発生していった。

歌謡や和歌に詠まれたスポットがしだいに名所になっていった。

裏返せば、そこに名がつくから名所なのである.

ぼくが10年余りをすごした中国華南の桂林は山水画の世界がそのまま残る世界ブランドの観光地である.

中国では、桂林と聞けば南宋の詩人王正功が詠んだ詩句が、パブロフの犬の如く人民の口から放たれていた。

北京や上海で桂林に住んでいるといえば、知識人のほとんどが『桂林山水甲天下・・』と謳い始める。

桂林へ行ったことのない人までが『桂林山水甲天下・・』。

こりゃあもう、詩句に想起された名所ブランドだ。

その後、名所にはたくさんの物語がつくられていく。そのなかでも“劉三姐”の物語

この桂林にある観光系総合大学にいたことたことから、名所ブランドから派生した“物語”からの幾つかのビックプロジェクトを垣間見てきた。

そのひとつがこれ


===
張芸謀プロデュースの超ビックスケール観光開発プロジェクト「印象劉三姐」ショーは、構想に5年5ヶ月を費やし、着工3年後の2004年3月20日、満を持して公開され、現在まですでに20万人以上の観客を動員している。←2004年で20万人。。。

桂林・陽朔の美しい山水画の世界をそのまま自然の舞台とし、さらに伝説の歌手「劉三姐」を融合させた大掛かりなショーの舞台は、2キロにわたる漓江水域とその背景にある12の山で構成されている。その自然の舞台に国内最大規模の照明技術、音響、演出効果を加え、さらにエキストラとして出演する600名ほどの地元の漁民、少数民族の娘たちが華を添える。演出のテーマは伝説の歌手「劉三姐」をメインとし、広西の少数民族風情、漓江のいさり火の風景などを組み合わせ人と自然の調和をあらわしている。
==

多くの名所は名句に詠まれ,名物を生んで、経済文化のスポットにもなていく。そこが、『価値が生まれる現場』であり、『価値を編集する場所』つまり、価値が湧出する場所である。

個人的には、自分が好きなモノを選ぶので、たまさかブランドだろうが無かろうがこだわりは無いのだが、どちらかというと、センターのよろず屋から生まれたブランドより、キワのアズマ屋が秘めたブランド力につよく惹かれるなぁ。

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by ogawakeiichi | 2014-08-23 11:58 | 情報とデザイン

時間のデザイン‐16のキーワード

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紙媒体、主としてグラフィックデザインを生業としていた当時、工業系や建築系のデザインにはなかなか立ち打ちできなかった。職人派建築士の書いた設計図にデザイン的な視点でディレクションするだけで、“手を動かし口も動かすデザイナー”を目指していた当時にとって、資格制度である建築デザインには忸怩たる思いが湧き出ることもあった。

高校時代デザインに目覚めた我が長子に、デザインやるなら建築家だよと示唆したこともある。蛇足だが、その後、長子はデザイン工学科の建築へ進み、磯崎新の孫弟子で一級建築士だ。

この本は早稲田大学の建築科、渡辺仁史研究室が設えた。早稲田の建築といえばさっと思い浮かぶだけでも吉阪隆正・石山 修武・栗生明・内藤廣、最近では 坂口恭平など建築界のスターが揃う。

昨今デザインと呼ばれるものが氾濫しているが、そのなかでも「都市・建築デザイン」はデザイン界の上位レイヤーに君臨している。長時間にわたりヒアリングし、予算とアイデアのなかで、数次元で対象を観察、数字(記号)に置き換えて、構造から構成までをやってのけ、そのうえ熾烈なプレゼンテーション、納期というリアリティーを通過する能力が求められているからだろう。平たく言えば、建築できればどんなデザインもできるということだ。

早稲田大学の渡辺研究室では、研究課程や成果を文字としてだけではなくダイアグラムとして可視化してきた。そのなかでダイアグラムをもっとも鮮やかに表現する切り口として「時間」というキーワードにアタックした。

わたしたちの生活の中には人間・空間・時間という3つの大切な「間」がある。これまで建築計画では人間と空間という世界が主流であったが、情報メディア技術によって時間に対する視点が空間デザインに要求されるようになってきた。

人間を時間という概念で捉えると、その行動の推移が空間の状態を反映していることがわかる。また、空間を時間という視点で捉えると、そこには情報が不可欠であることが明らかになってくる、さらに人間と空間とのかかわりを評価する指標として健康が挙げられる。このように3つの間を通して建築の世界を見直していこうとするのが本書である。

さて時間の概念を導入して、新しい空間デザインを試みるとはどういうことだろう。

我々の生活を鑑みると(いつ、どこで、どのくらい、なにを、どうかわったか)という日々を過ごす。その行動を視角的表現していくことが時と間の融合にあるあたらしい空間デザインだ。

膨大な行動調査のデータのなかから「変化」を捉え、動きの履歴の中に共通する特徴や、ルールを見つけ、そのルールうぃ汎用的なモデルにして「デザイン」を立ち上げていくこと。それが「時間をデザインする」ということである。

この本では16の視点から時間を読み解き眺めている。
なお、→は、私的に記した要素のエキスなセンテンス。

◆16のキーワードーーーーーーーーーーーー

●瞬間→際立つ一点に注目する。
●履歴→履歴を振り返り乗り越えていく
●同時性→その場の状況により即興的。
●速度→意識の発火を促すサイン計画
●一時的→無常、一期一会の仮囲い
●持続→サスティナビリティーを支えるシステム
●遷移→文脈をよむ
●進化→時間の「からまりしろ」から生まれる
●シークエンス→軌跡から意図や無意識を読み解く
●軌跡→行動をデザインする
●転換→表裏一対のデザイン
●リズム→都市の奏でるリズムを再編する
●蓄積→集めた情報から新しい関係性
●密度→疎と密を作りだし、情緒をくすぐる
●予測→シュミレーションしてみる
●歪める→伸び縮する時間の襞を表現してみる。

お・わ・り





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by ogawakeiichi | 2014-08-20 17:23 | 情報とデザイン

デザインの小さな哲学(松岡正剛千夜千冊から)

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昨今、資本の一端を担うデザイン、とくに広告系のデザインに対して名状しがたい違和感を感じていたのだが、松岡セイゴー先生・千夜千冊「小さなデザインの哲学」を読み、モヤついていたわたしのデザイン地平が少しばかりクリヤーになりつつある。※本書も読んだが、松岡解説・千夜千冊の方が数倍エエです。

“デザインの小さな哲学”を書いたヴィレム・フルッサーは【デザイン】(※ここでいうデザインは構成化・意匠化のこと)を、「記号」をアウトプットし、記号の背後にあるものを前へと押し出す「脱しるし化プロジェクト」として捉えていた。

フルッサーの考える「脱しるし化プロジェクト」とはなんなのでしょう。ここでいう【プロジェクト】とは、「知性が状況を変えるために投じる網(知的ネットワーク)」をその結び目ごとに、計画を前に(pro-)進めていくもの。←抽象度を上げる訓練してないと難しいかもな・

おおかたたくさんの結び目である結節点が未来の方向へぐぐっと引っ張り上げられ、リンクされた多くのラインが一堂に動き出すイメージだろう。

フルッサーが古代アジアのナーガルジュナ(竜樹)を知ってたかどうかは知らないが、ナーガルジュナの言う―「我々は森羅万象の網の結び目 のひとつにすぎない自己」――その結び目である自己の集合体である全体が「脱しるしプロジェクト」によってそろりそろりと未来へ動き出すイメージだろう。

フルッサーはまた“デザイン”を、【都市・家・家庭・身体・性・子供・技術・労働】という8つの領域の8つのプロジェクトの総体として考えた。

=====

デザインには数々の歴史的ルーツがある。生命体がもつ形態や色彩に関するものはすべてデザインの起源であり、アルタミラの洞窟や幾何学に発する輪郭獲得のプロセスも、脳の認知や身体の動作との関係から生ずる動的なプロフィールも、シャネルやプラダブティック青山店も、もとはといえば疑似生命多様体をモチーフとした。

しかし、それらの【デザインの起源】も、資本の毒に侵され次第に以下のように変化していく。

(1)生産と売れ行き曲線のなかで問われ
(2)各種メディアの相克のなかで期待され
(3)マーケティング理論の跳梁に追われ
(4)アートとポピュリズムの葛藤とのあいだで恰好をつけ
(5)クリエイターぶるデザイナーの自意識になかで勝手な紆余曲折を彷徨していく。

つまり、かくして多くのデザインは商品に接する消費者の欲情を触発するためのものに成り下がってしまったのだ。

おまけに今の時代、ソーシャルネットワークに覆われ、消費者の欲情さえも複雑化していく。そのためか、個人の意思決定さえままならず、しまいにはアクセスランキングやリコメンデーションに頼らないと購買衝動さえ起らなくなっている。

かくして誰も、大枚かけた広告デザインの“美と説得力”などには目をくれなくなってしまった。

元来どんなデザインにも、そのデザインをデザインたらしめてきた母系があった。デザインを生み出してきた民族・社会・衣食住・心理などの奥にうごめく原郷のようなものがあった。

デザインは、もともとこのような“デザインマザー”にひそむタイプやコードをもとに、デザインというモード(様式)を誕生させていた。

デザイン(design)の語源は、ラテン語の“designare”から派生した。これは「計画したことを記号に表わす」といった意味をもつ。

デザイン(design)という英文つづりのなかには、「しるし」(signum)を含んでいる。しかしここでは「しるす」ことがデザインではない。ここのところを多くのデザイナーが勘違いしているのだが・・・。じつは“de-signare”に分解してみると、語源的には「脱(de)-しるし(signare)」ということだ。

ラテン語の“designare”の意味は多義にわたり、「意図・狙い・プランニング・陰謀・形にしようとする作業・装う・スケッチする」などなど戦略的に処理するといったニュアンスだ。つまり、デザインにはもともとトリック的な策略や詐術まで含まれていた。

つまり、ピラミッドや観音菩薩、トロイの木馬をつくりだし、見るものを作戦的意図をもってに驚かせること!

それがデザインであった。

数学が科学、戦争や機械の意味理解が深まらせその文脈によりモノ・コトを誕生させるのが本来のデザイナーなのである。

ピタゴラスが直角三角形の解法を見出し、インド数学が「ゼロ」を導入して以来、数学は自然についての理解の計画を数学記号に置き換えるということをしてきた。これは実のところエディティング=デザインとしての数学的なレトリックであって、トリックなのである。

かってデザインは魔術や呪術であった。デザインは個人センスを磨けばいいというものじゃあない。デザインのインスピレーションはもともと民族や歴史や社会の文脈から記憶として立ち上がってくるものなのですよ。(参照:松岡正剛千夜千冊)
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by ogawakeiichi | 2014-08-19 02:59 | 情報とデザイン

複雑さとともに暮らす

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『誰のためのデザイン』を書いたD・Aノーマンの著書『複雑さとともに暮らす』を手にした。

『誰のためのデザイン』は人間中心設計のアプローチを提示し、ヒューマン・インターフェイスやユーザビリティに多大な影響を与えたデザイナー必読書。

認知学の領域であるアフォーダンスをデザインに取り取り入れたそれはそれは新鮮な書物でもあった。しかしギブソン認知学を取りいれて新鮮ではあるものの、なんとなく、しっくりこなかったことも事実だ。

それはさておき、多くの人々が、アジア人は欧米人より複雑なモノを好むように見えるらしい。たとえばアジアのウェッブサイトが欧米に比べ簡素化されていないことなどにそれを感じるらしいのだが、しかし、この見方は違う。複雑さは文化ではなくタスクに依存する。世界中どこであれ複雑さは生活の現実なのだ。

つまり複雑さは日常生活の一部であり、ズバッといえば『複雑さ』より『分かりにくさ』が問題なのであって、本来、複雑と分かりにくさは区別していかねばならない。

『複雑さ』という言葉は、世界の状態をあらわす言葉で、『分かりにくい』という言葉は心の状態を表す。

複雑になるのが避けられない場合でもタスクの複雑さを反映したものであればそれは許容でき、理解でき、学習できるが、恣意的な悪いデザインの場合には精神的な苦痛以外のなにものでもない。

我々は読み書き、楽器演奏、車の運転を学ぶのに複雑だからといって嫌いになるのだろうか。不可解な機能を学ぶことは嫌であるが、難しさや複雑さがタスクに見合ったものなら学ぶのに数週間ないし数年をよろこんで費やす。

今日熟練したエキスパートの動きを研究した経験則では、世界レベルに達するには一万時間の周到な訓練が必要とされている。だれもがすべてに関し、この領域に到達しようと思ってないのは幸いだ(笑

複雑さは扱いやすくすることができるが、それをうまくやるにはもちろん相当な努力が必要である。解決策は全体のシステムを理解すること。

そんな複雑さとデザイナーはどう付き合えばよいのか?

デザイナー側に要求されるのは、複雑そうな道具をタスクにあった理解しやすい、使いやすい、楽しいものに変えることなのだ。

簡単なことというのは複雑さの対極にあるのではない。

複雑さは実世界の事実であり、簡単さは心のなかにある。複雑さは必要であることが多い。複雑であっても分かりにくくならないようにするのがデザインの課題なのだ。

ここから僕的にちょいと重要なことを書いていく。

じつは『誰のためのデザイン?』以来、ノーマンには二つの変化が現れたのだ。

その一つは『簡素(シンプル)』に対する考え方、二つ目は、従来のアフォーダンスを置き換えた『シグニファイヤ』という概念である。

まず一つ目の『簡素(シンプル)』だが、シンプルの背後には複雑なタスクが待ち構えている。

しかしそのタスク自体に億劫な心理的影響を与えないだけの愉しさをデザイナーは準備しなければならない。

実世界のタスクは複雑でありそれ自体は世界の現実でもある。であるからしてデザイナーもユーザー側も実世界とそれに見合った「テクノロジー」についてはパートナーとして共存しなくてはいけないというのがノーマンの主張である。これを『テスラーの複雑性保存の法則』という。

もちろん人の認知について混乱を起こさないというのはデザイナーの責任というのは従来の主張と変わらない。
 
二つ目の『アフォーダンスからシグニファイア』とは・・

ノーマンは『誰のためのデザイン?』において、アフォーダンスの概念をはじめてデザインの世界に導入した。以来、デザイン界に受け入れられてきたが、アフォーダンス提唱者ギブソンの概念とは異なって受け入れられてきた。

本来アフォーダンスは生体とモノのとのあいだの関係性であって、その存在に気付くか気づかないかに関わらす環境に存在するものである。しかし、ノーマンは、それがユーザーに知覚されない限り存在しないと同然であると説明した。そこでユーザーがアフォーダンスを知覚できるように「製品にアフォーダンスをつける」などというようになってしまった。←このあたり個人的に違和感あったとこです。

ノーマンは近年、本来ギブソンの提唱したものとはかけ離れていることを認識し、これを『シグニファイア』として区別しることにした。僕自身、ギブソン流アフォーダンスはかなり学んだつもりなので、デザイン界初の「アフォーダンス」提唱者自らの「宗旨替え」には、そうだよなと思う反面、デザイン思考の大御所も認識転向するとの驚きと、益々の尊敬の念てなことで。

お・わ・り。
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by ogawakeiichi | 2014-07-28 05:24 | 情報とデザイン

理解の秘密

f0084105_1684345.jpgなにかと大混乱の年を通過中だ。いよいよ、アセンションとやらを通り抜け2013年に入った。今年もまた元旦恒例、南洲寺早朝座禅会にいき、それが終わると薩摩川内の実家で昆布だし甘薄味の雑煮を食べ、夕刻前に、東郷町にある藤川天神での初詣へと行く。藤川天神は学問の神様、菅原道真が亡くなったところとの云われもあり、受験生で賑わう。さて今年はどんな年になるのか・・

年明けのブログ初めは、引きこもりがちで「忍」な年から脱皮して、コミュニケーションへ嚆矢の向いた年にしたいと思っている。それには相互理解にたち向かう覚悟と動きが必要になってくる。

これまでのノンバーバルだから、見ればわかるでしょ。からの決裂宣言。

で、話は一転するのだが・・・「理解」するとは、いったいなんなんだろう?

受験生にとって、普通に生活する人にとっても『理解した』と言えるには、なんらかの過程を経ることなくでは、記憶する脳の貯蔵庫へ仕舞っておくことも、引っ張りだすこともできない。

そこで、やっとのことで見つけたリチャード・ワーマン著、松岡正剛監修のナマ本を参照捲りながらの記録・・・。


『理解する』とはいったいなんなのか?

う~ん。

じつは「理解」にとってもっとも重要なことはコミュニケーションであり、さらにその奥に控えるインストラクションの働き。というのが本書の解答!

「インストラクション」とは「指示」でなくて「説明」という語感に近い。日本では江戸時代に使われていた「指図」とか「段取り」という言葉かそれにあたる。


「インストラクション」が見えないということは、そもそも「理解」とは何か、理解ってどういうふうに進むのかということがわかっていない。

「インストラクション」でもっとも重要なことは相手をできるかぎり理解させることである。

われわれの日常の行いには、仕事と暮らしが深くかかわっている。たとえば料理の注文から、あらゆることまで、それにはコミュニケーションの成否が関わってくる。

玩具の組み立てからコンピュータの操作まで、すべてはコミュニケーションであり、コミュニケーションの奥に控えるインストラクションのやりとりにかかっている。

動かない情報や知識は、情報でも知識でもない。情報や知識は移転によってこそその力を発揮する。

料理を注文して食べるという行為にも、情報と知識の【レパートリー】があり、【カウンター】があり、それを移転するための【パレット】がある。

つまりどんな仕事の本質も【情報の転移】でできており、その情報の転移により「理解」のシャッフルがおこる。

インストラクションがコミュニケーションの鍵を握り、「理解の秘密」をインストラクションが握っている。

この本の著者リチャード・ワーマンは、仕事こそが表現であり芸術であり、生活であって技能であるとまで言い切った。

彼は、すべての仕事は【アンダースタンディング・ビジネス】となるべきだと口癖のように言っていた。

また、リチャード・ワーマンは情報は建築と同じものに近いと考えた。


まず【情報建築】(Information Architecture)という概念をつくり、情報の分類の基本には100や500の区立てはいらないという仮説に到達していた。

彼によると、情報の組織化に必要なのはたった5つ。

それは
●「場所」(Location)
●「アルファベット」(Alphabet)
●「時間」(Time)
●「分野」(Category)
●「階層」(Hierarchy)
略してLATCH。


さらに
インストラクションの基本は次の5つ(5つだけ)で構成される。
●送り手(givers)
●受け手(takers)
●コンテンツ(content)
●チャンネル(channel)
●コンテクスト(context)


【インストラクション】がうまくなるには、自分のなかの送り手と受け手が重層的になる必要がある。つまり、自分で送り手と受け手を演じ分ける能力がいる。それゆえ、自分の中に起居している該当知識をつねにノートの左側と右側とに書き分けていくような感覚が必要になる。←送り手と受け手を同時に俯瞰しながら、ズレを修正していくってことだろう。

【コンテンツ】は、静止するコンテンツと見てはいけない。コンテンツとは情報のシンタックスから内容のセマンティクスを取り出して次のトポスのところへ、そのセマンティクスを巧みに移転することなのである。シャッフルし、編集し、リデザインすることなのだ。

コンテンツを動かそうとしたときの、その動きを方を含めたものがコンテンツである。

じっとしているコンテンツはコンテンツではない。そのようにコンテンツを見ると、コンテンツは3種類に分かれる。

●(A)過去のコンテンツ
●(B)現在のコンテンツ
●(C)未来のコンテンツ

これらのコンテンツを動かすには歴史編集が必要だ。だが、それだけではない。ここにはきわめて総合編集的な「知識移動の構造」が準備される必要がある。それを創りながら知識の移転を図っていく※ふつうの情報整理術屋たちはインストラクションに「時間朔行」や「歴史」を持ち出せない。

●(B)現在のコンテンツ
現在の行為についてのコンテンツをインストラクションする。つまり現在の行為についてのインストラクションとは、自分や自分が属しているチームが何かを思考していたり試行しているときのインストラクションをさす。

この場合、コンテンツの価値が決定していないことが多い。インストラクションしているあいだにいわゆるアイディアの産出がおこる。アイディアとはインストラクションの途中から生まれて新たな理解力をつくるためのものなのである。

ワーマンはアイディアが生まれ、それにあとからインストラクションがくっつくより、インストラクティブ・プロセスがアイディアを生んだ場合のほうが、ずっとその後のアイディア成長力がいいという。だから(B)においては、まさにリアルタイムの自己編集と相互編集のスイッチを押す方がいい。

●(C)未来のコンテンツ
一般にはこれがインストラクションだと思われてきた。だからこのインストラクションはわかりやすくは「上司の指示」や「尋ねられた道を教える」といったことにあらわれる。けれど、それだけではない。未来に属するインストラクションがすべてここにある。会社の方針をどう説明するか、経営者のヴィジョンをどう説明するか、社会の未来像をどう提示するか。これらは(C)のインストラクションなのである。

実はここには、自分が気がついていないインストラクションも含まれる。社会が暗黙のうちに、また偶然に与えているインストラクションも(C)なのだ。

つまりこの(C)のインストラクションには、「社会の解読を促すインストラクション」がひそんでいる。それを発信するのが仕事だとすれば、ここでは「他者の知恵」を取りこむことこそ、新たなインストラクションになりうるのである。

しかし、このインストラクションの“種”は、たいていの場合、戦争の予感や政治不信に出入りしていたり、書物の中にあったりテレビの中にあったり、ファッションや株価になったりしているので、また廃れた商店街や低迷する業界にあったりするので、そこにインストラクションがひそんでいるとはなかなか思えない。

だから(C)のインストラクションを組み立てるのはきわめて高度にもなる。けれどもそこを組み立てるのが、最もラディカルで、最も未来的なインストラクション編集なのである。
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by ogawakeiichi | 2013-01-02 11:30 | 情報とデザイン

コトラーのイノベーション・マーケティング

f0084105_7202199.jpgフィリップ・コトラーと、イノベーションは,それぞれ個別に何度か取り上げてきたが、「コトラーのイノベーションマーケティング」という、バロックな本を見つけ読んでみた。

ズバッといえば、組織論においてイノベーションを考察したもので、とりたててドキッとするような記述はない。最近では経営に複雑系を取り入れたコトラー本より、ダイレクトに複雑系や経済物理学や、行動経済学、デザイン思考系を読んだほうが個人的にはワクワク感がするのだが、それはそれで・・・

ということで、「コトラーのイノベーションマーケティング」の読書メモ。ポイントはアイディアをイノベーションに変える「A-Fモデル」にある。

このモデルは、従来のイノベーション・プロセスが、ひとつひとつのステップを経る多段階モデルであったのに対し、先に役割を決めて協働を生む全く新しいモデルでもある。※「A-Fモデル」ってABCDEFの役割があるだけのことだが、名称が少々仰々しい。

つまり「段階ではなく役割でとらえるという、パラダイムシフト」だ。←ここらあたり経営学者コトラーの真骨頂、経営論のイノベーションといえるのかもしれないな・・。

あるブロガーによると、「A-Fモデル」をこのように捉える
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イノベーション・プロセスを、「野球型」から「サッカー型」に変えたと考えると、分かりやすいかもしれません。

野球では、守備の時は全員で守りますが、攻撃の時は、一人ひとりバッターボックスに立ちます。

自分の打順(段階)が回ってこなければ、何もできませんし、敗因を打てなかった人の責任にすることもできます。

一方、サッカーでは全員がそれぞれの役割を果たしながら、同じフィールドに立っています。

攻撃している場面でも、守っている場面でも常に同じ段階に参加していることになり、
状況によっては、ディフェンスの選手がゴールを決めることもあります。

コトラーさんが示す、「A-Fモデル」は、常にゲームに参加しながらも、それぞれの役割が決まったサッカー型のモデルと言えます。


※わかりやすく大雑把に言えばそんなとこだろう。
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「A-Fモデル」とは、コトラーによって、イノベーションを起こすイノベーション・プロセスをAからFまでの6つの役割としたもので・・以下↓

  A : アクティベータ(イノベーション・プロセスを始動する)
  B : ブラウザ(情報収集を行う)
  C : クリエーター(新しいアイディアを生む人)
  D : デベロッパ(アイディアを製品やサービスに落とし込む)
  E : エグゼキュータ(導入と実行を担当)
  F : ファシリテータ(プロセスが行き詰らないよう後押し)

f0084105_7214254.png


「A-Fモデル」は個(人)のイノベーターであれば、無意識のなかでやっている気もするのだが、上記のように言語化してみるとはっきり理解できてくる。さらに、これを企業や組織のプレイヤーに共通認識することで、イノベーションチームプレイが生まれてくるのだろうな・・

本書では、従来型のイノベーション・プロセスが目標⇒調査⇒アイデア⇒評価⇒開発⇒投入の【段階】で考えていたのに対し、「A-Fモデル」では【役割】としている。

しかし、ここで提示した従来型のイノベーションプロセスというのは マーケティングの話だと思うのだが....


最後に・・蛇足。

さて、アイデアとイノベーションの違いはなんだろう。それは顧客に対してエスノグラフィー的な十分な観察があるかどうかだ。「顧客のニーズを満たす」ことではなく、それよりずっと奥深い、顧客がいま何をしているかを観察し、顧客の生活を充実させる方法を思い描くことで、顧客の生活の質を高めようとすること。←最近はこれもやらないコンサル屋が多すぎ!

 
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by ogawakeiichi | 2012-11-09 07:23 | 情報とデザイン

次世代コミュニケーションプランニング

f0084105_11523682.jpgこの本「次世代コミュニケーションプランニング」の出版社ソフトバンククリエイティヴといえば、東京目黒の第五中学前にあった緑荘に一緒に住んでいた若井君が取締役の会社だ。

著者の高広伯彦氏のことは、彼のツイッターをフォロー以来なにかと気になっていた。コミュニケーションとかコミュニティーが枕詞に付く本は、フィリップ・コトラーのマーケティング2・0以来、山崎亮のコミュニティーデザインをはじめとしてコミュニケーションをコンテンツにしたプランニングブックの連打が続いている。

「次世代コミュニケーションプランニング」もこの文脈にある。ぼくにとってはめずらしく久々に予約を入れといて出版されると同時に購入した本でもあったが、とは言っても新しい言葉を著者なりの解釈で分類解説してるものの、それほど目新しさはない。

気になった個所を箇条書きで表記してみた。

〇伝統的なマーケティングに「4P」というものがある。「Product(製品)」「Promotion(広告・販促)」「Place(流通)」「Price(価格)」である。

〇広告において、クライアントのいうことには「オーダー」と「オファー」しかない。

〇「オーダー」とはいかにスムーズに実行するか、「オファー」であれば、なにをどうしたいのかを明確にすること。つまり、お品書きにないものを熟考していく。

〇そしてそれに応えるためのひとつの方向が「コミュニケーションプランニング」である。

〇今までの「広告」とは、商品やサービスを消費者に「伝える」ための技術・作法だった。

〇「コミュニケーションプランニング」とは、商品やサービスと消費者が「会話する」ための技術・作法である。

〇4Pの概念が生まれたのは高度成長期で、まだモノ余りなど想像もできなかった時代だ。その後に生まれたのが顧客の視点から見た「4C」という概念だ。

〇「4P」が企業視点であったのに対し「4C」は顧客視点である。Customer value (顧客価値)Customer cost(顧客コスト)Communication(コミュニケーション)Convenience(利便性)。

〇今までの広告が、商品やサービスを消費者に伝える技術・作法だったのにくらべ、コミュニケーションプランニングとは、商品やサービスと消費者が会話するための技術・作法である。

〇そして、その手順はまず、商品・サービスがどういった「コンテクスト」に埋め込まれるかを考えることからはじまり。そしてさまざまな種類の「顧客接点」を駆逐していく。

〇そのため、従来の広告やプロモーションの手法の延長線上にありつつも、企業がすでに持っているコミュニケーション手法を棚卸する必要がある。

〇マクルーハンは、メディアを通じてそれまであった空間的、時間的制約が取り払われて、地球規模でコミュニケーションがとれるようになる「グローバルヴィレッジ=地球村」を予言した。それは現在インターネットの世界において、より現実味を帯びてきている。

〇マクルーハンはまた、メディアは人間の身体の延長上にあるものとした。たとえばテレビは人間の視覚を拡張するメディアであり、ラジオは聴覚を拡張する。電話は耳や口を拡張するメディアである。人間の身体には限界があるため、メディアやテクノロジーが身体拡張のために使われており、それらによって、視覚が重視され聴覚が重視される時代になったとする。つまりメディアは単なる「情報の入れ物」や「情報の乗り物」ではなく、メディア自体が私たちの思考や感性の組み立てかたに影響を与えるという考え方だ。

〇しかけとは「人に伝えたくなる情報」で、しくみとは「人につたえやすい機能、ツール」のことである。つまりここには。「しかけ」×「しくみ」という公式が成立する。

〇人を巻き込む小さな工夫をする。商品・サービスそのものによるクチコミの企みというものを考えていく。たとえば、無料配布の2個パッケージなど。(※一個は自分で、もう一個は他人へあげる)←ぼくなら、2つとも自分で食べるが。。(笑

〇「バスマーケティング」と「バイラルマーケティング」の違いを理解する。

〇「バスマーケティング」は話題になる企画。「バイラルマーケティング」は、どうウイルス的に広がるか。

〇たとえば、ホットメール。ふつうにメールを送ってもhotmail.comが最後についてくる。これがバイラルマーケティングのさりげなく拡げるやりかた。

〇「次世代コミュニケーションプランニング」はメディアを発見し、消費者と会話し、クチコミを再考し、コンテキストを生みだしていくことである。

〇その企業・ブランド・商品を取り巻くコンテクストはどう構成されているか。

〇その商品が売れる理由をどうかんがえるか。

〇その商品(やカテゴリー)に関する現在のパーセプションはどうなっているのか。そこに解決すべき課題はあるのか。

〇その企業・商品が過去に培ってきたコミュニケーションの資産はなにか。

〇ターゲットとする消費者層のメディア状況はどうなっているのか。必要であればどのようなメディア・広告枠を開発すべきか。

〇その商品がもっとも「機能する」場所・シーンをどのように考え、演出できるか。

〇PR上・広告上のメッセージ発信のルール、ストーリーをどのように作るか

〇それらの全体構造をどのように描くか

〇それらを実現するためのスタッフを外部、内部含めて集めてこられるか、

と、いったことを考え、実行する職能が必要となっている。


以上。
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by ogawakeiichi | 2012-09-04 11:54 | 情報とデザイン