ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

カテゴリ:日本史&思想( 35 )

日本の歴史をよみなおす。負について

f0084105_07451945.jpg
岳母の米寿祝で東京に滞在しているあいだ、気になっている場所を歩き調べた。今風の言葉で言えばフィールドワークということだろう。岩谷松平の代官山天狗坂、杉並和泉の島津氏菩提寺大円寺。東京赤坂の“溜池山王”などだ。

百姓という言葉はいま差別用語になっているらしい。なぜそうなったのかは知らない。だから大っぴらには使えないのだが、日本語では百姓と農民はだいたいおなじ意味だ。

ところが、中国語は、百姓とは、‘一般人、庶民’、をあらわす言葉だ。

はじめてこれを知って驚く人も多いと思う。中国語では、庶民のことを、かわいく親愛をあらわした‘老’をつけ、老百姓(ラオバイシン)と呼ぶ。

これまでの日本社会は、全体として非常に農業的な色彩が強く、近代以前は完全な農業社会と考えられてきた。

しかし、網野善彦は、この理解は、百姓=農民という誤った思い込みである。とする。彼は、日本列島の社会はこれまで考えられていたよりもはるかに非農業的であったことを炙り出した。←中国語には本来の意味が残っているのかも知れないなぁ・・。

網野史観によると、
=======================
とくに鎌倉時代後半、13世紀後半以降の社会は、銭貨の流通が活発になり、信用経済に近い状況が展開し、さまざまな形態の資本、金融資本、あるいは商業貿易資本さらには土木建築に投資される大きな資本が動くようになってきた。つまり資本主義的であったという。
=======================
網野史観は、表舞台の歴史とは裏腹に、裏や負の立ち居地からの見方でもある。。

近代にはいっても、明治の自由民権運動など政治家や知識人や壮士たちばかりによって推進されたのではない。壮士と博徒(やくざ)が手を組んでいた。そして博徒が負を引き受けた。

日本の中心国会議事堂近くに溜池山王という地下鉄の駅がある。ぼくはこの近くのマンションに2ヶ月ほど住んだことがあるのだが、いま埋め立てられ溜池はない。←世界どこに行っても迷わないぼくの優れた身体センサーによれば、ここいらあたり山王神社と氷川神社に囲まれた低地だった。

この溜池の開発は車善七という負を背負った男が担当した。江戸社会の中の汚物をあらかた引き受けた。それが溜池ということになる。

江戸初期のころから浅草弾左衛門という人物(襲名名称?)がいた。代々明治時代まで続く皮職人でもあった。

当時、牛を殺し生肉を扱う、皮を剥ぐというとこは賎視されていた。しかし、それを浅草弾左衛門が引き受けたかわりに、幕府は‘利益’と‘悪所’の特権を与えた。

その弾左衛門の許可がなければ市川団十郎の歌舞伎も興行が打てなかった。

中世では‘化外の民’とか‘道々外在人’と呼ばれる人々のネットワークがああり、そのネットワークが社会を融通していた。

しかし、今日ではそういうことがまったく通用しなくなった。
宗教と政治は‘政教分離’になり、差別は徹底して回避されるようになった。相撲も興行もすべて表に引きずり出された。暴力団も売春も賭博も一切禁止だ。

アウトサイダーやアウトローはほとんど排除されるようになり、アウトサイダーもインサイダーも排除され、安全な中間地帯だけが保全されていく。

いまは、そこに第三の‘負を引き取るところ’はない。そのまま法廷に持ち込まれるか、メディアに叩かれるということになっている。(参照:松岡正剛:千夜千冊)

[PR]
by ogawakeiichi | 2014-09-15 08:42 | 日本史&思想

惟宗と島津

ライフワークは大まかに幾つかの柱があるのだが、その柱の一つに、「ユーラシアを俯瞰する」というテーマがある。海外生活が10年を越えたことの節目に、ガツンと腑に落ちるまでユーラシアから「日本の方法」を知りたいと思った。

しかし、なんとなくアタリはついているものの、アブダクションの確信だけはあるものの、大概は確信となるモノに出合わないまま、それ以上進めないことの連続である。

目の前にあらわれた現象も、とっとと忘却の彼方へと飛び去っていく。しかし、そこに記録が残ると、なんらかの蓋然性は高くなる。歴史のゆらぎにおける,『ときの記憶の痕跡』,一次資料となれば、偽物の可能性を含めてもそれはそれで、興味をそそる。

ところが、この一次資料として残る古文書というもの、まったく異なる言語の様で、おいそれとは崩せない。しかし直接、一次資料を読めるってことは、おいらみたいなヤツにとっては、けっこうA10神経系をそそられる。もちろん専門家が書く二次資料や小説でもいいのだが、本モノといわれるものにぐっと対峙したくなる。ああ、壮大なる無駄なことだとおもいながらも、この無駄に至極の創発を求め彷徨したりするわけだ。

初めて中国語に触れたこときのような感覚で、鹿児島の歴史資料センター「黎明館」で古文書をひいひい言いながら、弄くり始めていたときのこと。

初っ端に出合った資料が、やってきましたぜ!いきなりヒット。長年探していた島津の殿様が「惟宗姓」で、島津という名称は現宮崎県都城市である島津荘の荘園管理を源氏から拝命をうけたところからの命名を示す資料である。なかでもこの『惟宗姓』にはそそられるのだ。(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

f0084105_1127940.jpg

(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

======
<島津氏>
鹿児島県・歴史資料センター「黎明館」等によれば、島津氏の元祖は、京において渡来系の秦氏の流れを汲む平安時代の人で、中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子の惟宗忠久という。惟宗忠康は京の藤原摂関家筆頭の近衛家に仕えて、日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘園の経営者(家司職)として薩摩下向。鎌倉時代のはじめ、その子「惟宗忠久」が源頼朝から島津庄の地頭に任ぜられ、地名の「島津庄」の名をとって「島津忠久」を称したのが始まりという。

最近、歴史作家の桐野作人氏のブログ「膏膏記」(2008.05.04)に遭遇した。そこに紹介されている薩摩の中世史に詳しい三木靖氏(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)の説によれば、島津氏は、初代忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代忠時も同様に鎌倉で没し、三代久経は、元寇のとき北九州で没している。四代忠宗も北九州にいたことが確認されている。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは、五代貞久以降であるという。

また、史実に基づかない「惟宗忠久」の伝承の根源は、『山田聖栄自記』にあるという。定評のある史料であるが、一方、これが忠久の「偽源頼朝ご落胤説」(ただし三男)の端緒とも言われる。そして、島津氏出自の扮飾や島津発祥地の伝承が、『山田聖栄自記』から出発して『島津国史』や『三国名勝図会』などへの影響に基づいているという。世間を賑わすこの出自の混乱は、江戸時代後期、とくに「島津重豪」時代の特徴で、重豪が、自身で「鎌倉に源頼朝と島津忠久の墓を建立」したことは顕著な工作の一環という。

更に、同様に、島津氏発祥の地「出水説」や「都城説」も、この史実から離れた『山田聖栄自記』に基づいて主張されている。史実に基づけば、島津初代忠久から四代島津忠宗までは、生涯、鎌倉在住であったことから、「島津氏の真の発祥地」は京都もしくは鎌倉と言うのが真相のようである。

なお、私見ながら、島津氏始祖「惟宗忠久」が、京において中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子であったという出自は、島津氏の本来の家風と文化が、知識・歴史・宗教・文化などいわば、「武家」よりも「漢籍に強い学者・知識人」の強い色彩を彷彿とさせる点で、その文化的な特質を感じさせる。このような視点は、幸にも火災などの災難から守られて、現在の鹿児島県立図書館や鹿児島県歴史資料センター・黎明館などに見られる室町・戦国時代からの島津氏の膨大な歴史・文化・資料の蓄積・整頓状況に驚かされることで、半ば証明されるように感じられる。

いずれにしても、島津氏は、「本来、藤原房前を元祖とする京の藤原北家・摂関家である近衛家を、主に経済的に支えて護ることを使命とする家門」の惟宗氏であったと見ることが出来る。すなわち、島津氏は、日薩隅において京の摂関家・近衛家の利害関係を代表し、表裏一体の立場の家門であったと考えられる。
なお、北家祖・藤原房前は、南家祖・藤原武智麻呂の弟。

http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/obitatakai.htm
=====
この惟宗の姓って、ユーラシアを旅して日本へやってきた秦氏である。秦氏といえば、藤原家。まあ、これを書き出すと、日本の裏に係わるカタチにまで及んでしまい、書ききらないのできょうは「パス。。

黎明館にはとんでもない一次資料がどっさりあるのである。









[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-21 06:14 | 日本史&思想

異界を旅する能

f0084105_15343140.jpgここ数年、どこのグループのメンバーにも属さない孤独を自らに課してきた。

組織や団体とのつながりから一定の距離をとり組織や社会を観察したかったこともある。

組織や団体じゃなくって、「人」でしょ。って思いもあった。

つながりや、絆のある社会、ソーシャルネットワークなどどという言葉の流行に対し、いまさらというある種の違和感が発動したことにも起因する。 ※FBという、最大にして最悪?な、装置は使用する矛盾もおかしてはいるが・・。

淡々とした時間の流れのなかで、リアルな旅人のような交わりから醸し出される偶発美に惹かれていたのかもしれない。

孤独に耐えながら、全体が統一されていく演劇である能もそれに近い。

孤独であることの勇気、現代の日本でも失いかけているものだ。

能はお客さんに受けるとか受けないとかはあまり重要ではない。対象は客ではなく自分になる。

能の主要な登場人物には、シテとワキというふたりがいる。


面をつけて舞台で踊ったり跳ねたり縦横無尽に活躍してるのがシテである。それに対して、ワキは面もつけなければ、目立った動きもなく服装も地味である。

能の多くはワキの登場にはじまる。ワキが「あるところ」にさしかかる設定で、ワキはたいてい旅の途次という姿をとる。

そこへどこからともなく一人の女(男)があらわれる。これがシテである(ツレがいるときもある)。

そのうちワキの旅人はこの者(シテ)がふつうの者ではないことに気がつく。そのうち、いずくともなく姿を消してしまう。

このように、ワキが「あるところ」で正体不明のシテと出会うというのが夢幻能の基本構造になっている


何も期待していないときに、ふとワキと出会ってしまう異界。

この「ふと」で、物語が展開していく。このことを、禅では禅機と呼ぶ。

苦境があっても漂泊することで異界と出会い、リセットできる。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-11-15 15:36 | 日本史&思想

3・11の面影

3・11の1周年を迎えた。

個展を控えて制作のまっただ中、家人が東北でたいへんなことがあったらしいと外出先から駆け込んできた。

テレビ画面からは、これが現実なのかという画像がこれでもか、これでもかと押し寄せ、制作に向かう高揚した気分は一転してかき乱されていく。いってみれば、個展という個に属する高揚のOSエンジンで絵筆をとらねばいけない瀬戸際に国家の一大事が起こった。(※三週間後のブログ

地震は津波となり、福島第一原発事故へと連鎖していった。

以来、気持ちの中に得体のしれないたいへんな暗雲が立ち込めてきた。

平成5年鹿児島を襲った8・6水害でメチャメチャになった自宅周辺、アジアを彷徨して訪れた世界最貧国の異臭とシーンがオーバーラップをはじめた。もちろんその現場の切り取り方で状況は違うのだが、その規模はともかく、そのイメージはなんとなく掴めた。←あくまでもなんとなく。。

地震と津波の天災なら、復興へイザ!の勢いだけでよかったのが、一触即発のメドもたたない福島原発がそれにのしかかってきた。

すぐに、ラジオで聞いた小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)の情報を渉猟した。小出非公式まとめ←見といたほうがいい。

以来、この状態をなんとか整理しなくてはと思いながらも、整理できないままでいた。

広瀬隆の著作『原子炉時限爆弾』は、なんの因果が大震災直前に発売され、書店で偶然にもにパラパラとめくっていたこともあり、この符合に少々驚いた。
広瀬隆講演←これは見といたほうがいい。

彼の著書『地球のゆくえ』『赤い盾』『持丸長者』は、世界構造を渉猟していた当時、さかんに読んだ。しかし、まさか原発の科学的領域まで踏み込んだ本があるとは思わなかった。

広瀬文脈は支配構造が閨閥によってなされており丹念な調査からロスチャイルド財閥という一本の鎖で世界の支配構造はつながっていると説いた。陰謀論とは一線を画す膨大な資料を元に書かれた本である。

原発や核事業もロスチャイルド系の独占企業。脱原発の廃炉ビジネスも太陽エネルギーなどにもロスチャイルドやロックフェラーなどの影もある。

地震から原発事故にかけて、ツイッターのタイムラインではリアルの津田大介、情緒の内田樹と論理の池田信夫が頻繁に流れていった。

内田樹の脱原発の文章には情緒があって、池田信夫の難解な原発擁護の高飛車論理には頭脳の回転がついていけない。

しかし池田の言う原発の論理も丹念に丹念に読めば次第に輪郭が見えてきた。

3・11以降、原発関連で早期に出版されたのは武田徹『私たちはこうして原発大国を選んだ』だ。
f0084105_1721286.jpg


『私たちはこうして原発大国を選んだ』のタイトルには、原発を選択した覚えのない人には少々不満があるものの、原子力が日本に芽生えた経緯を書く。

第五福竜丸の被曝事故で、反アメリカ、反核感情が高まる日本に対し、アメリカ政府のワトソンが、反米感情の高まりを鎮めるために、柴田秀利という人物に何か妙案はないかと頼み込んだことにはじまる。

キーマンは柴田秀利。

柴田は日本にテレビを導入する過程で、アメリカから1000万ドルの借款をと引換に、反核のイメージを一新させる原子力の平和利用という面からも正力松太郎と組んで、読売新聞を用いた空前絶後の原子力平和利用のキャンペーンをはじめる。

正力松太郎が原子力発電・生みの親と言われれる所以だ。

仕掛け人・柴田秀利。メディアと警察権力・正力松太郎。政治・中曽根康弘の三羽烏は、原発を推進していく。

読売新聞のキャンペーンは功を奏し、戦後の原子力の平和利用という文脈のなか、発展の礎として熱狂的に受け入れられてきた。

しかし、次第にエコロジーの考え方や不安が広まっていくにしたがって、原発の意味というものが揺らいでいく。
=========================
70年代は環境の時代と呼ばれるようになって、周りの様子は経済成長一本やりではなくなっていく。でも原発は残った。地域振興策が進められ、立地の地元では原発なしにはやっていけない経済構造ができていく。こうなると地域周辺の反対運動は、原発をなくすような先鋭的なものではなくて、ある種の条件闘争のような、交付金を視野に入れたものになってくる。

21世紀になると、地球温暖化が危惧視されるようになってきて、市民運動は温暖化対策に熱狂的になる。たとえば、「チーム・マイナス6%」という自民党の政策にのった市民運動家はたくさんいた。でもそれを実現するためには、当時はまだ再生可能エネルギーはほとんどなく原発依存なわけである。チーム・マイナス6%、温暖化反対といった時点でじつは原発賛成だった。

また、民主党に政権が変わったときも、民主党は基本的に原発推進政党でしたから、政権交代を望んだ人は原発賛成。しかし、そうしたことはつねに意識されない。『私たちはこうして原発大国を選んだ』
=========================

石井彰は著書「エネルギー論争」のなかで、電力問題のみを論ずるのではなく、電力を含む全体のエネルギー論の観点から包括的に検討すべき点を主張している。(電力消費は全体の2-3割)

将来のエネルギー選択に関して。原発擁護派と再生可能エネルギー推進派で繰り広げられる白か黒かの議論にも警鐘をならす。

筆者は現時点では、魔法の解決策はどこにもなく、幾分ベターな現実的な選択肢をもって、英語でいう「マドリングスルー(なんとかかんとか折り合いをつけていく)」方策をとるしかないと訴える。

そのカギとなるのが、天然ガスの積極的活用と、エネルギー源と地域の分散化、多様化である。副題「天然ガスと分散化が日本を救う」が内容を端的に示している。



かくして、どの説を信じるかで、原子力を巡る評価は異なる。

計器の正しさを経験的に信頼し、この人は信頼できると感じられる人を信じ、手持ちの放射線の関する知識を信じる。

こうして確立された「信頼」の機能は、ニコラスルーマンによれば「複雑性を縮減させる」ことだという。つまり、「信頼」するにあったって「行為者は情報の不足をあえて無視」する。

本当の意味で十分に吟味された科学的演繹を行なっている人は反対、推進にも実は少ないのかも知れない。

何を信ずるか、何に気づき、何を忘れれるかなどによって、安心から不安まで揺れる大きな振幅の中でぼくたちは生きているのだ。

脱原発では中沢新一が緑の党をつくり、思想家・吉本隆明は反原発運動を憂う。ふたりともぼくが大きく影響を受けた思想家たちだ。


『松岡正剛』はこう言う。
▼  ▼  ▼

=======================

ぼくは混乱しそうになるアタマを整理しながら、3つのストリームが自分のなかで錯綜しているのを見た。
 
(1)この災害が東北を襲ったことについて、ずっと考えて行かなければならないだろう。それには蝦夷の歴史から今日の町村の現実まで眺め渡さなければならないだろう。

(2)国家と原子力のことについて、何らかの見通しと判断をしなければならないだろう。それには世界のエネルギー問題や環境問題まで見渡す必要がある。

(3)危難とリスクとその解消と保持の関係について、かなり深い問題を浮上させなければならないだろう。

それには資本主義経済下の社会学や現代思想の根本をぐりぐり動かすべきだろう。

いずれも厄介な難題だ。が、ぼくは時間をかけてでもこの難問を考えていこうと思った。
========================

我が師も、おなじようなところで立ち止まり、難問に取り組んでいた。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-03-12 15:56 | 日本史&思想

日本のカタチ

f0084105_23305855.jpgう~ん、。。日本の国家デザインを振り返っていると、再び南北朝から明治維新への文脈に立ち止まってしまった。

極めつけは、水戸学から唸りをあげて明治へ向かう流れなのだが、これまでなんど組み換え、整理してきたのだろうか。振り返るたびに見方が変わっていく。

それを揺るがす大元は水戸学なのだが、ここがなかなか定まらない。

なぜ、水戸光圀が「日本の面影」の正体を知ろうとしたのか。そのキッカケをつくったのは中国人・朱舜水なんだけど。。。またまた振りかえり~。
▼   ▼   ▼

朱舜水は、光圀に「日本のレジティマシー」について研究しなさいと言った。

正統な天皇は、南朝なのか北朝なのか・・それについて水戸は「水戸彰考館」なる歴史編集研究所を立ち上げ、「大日本史」の編集にとりかかった。

そこで見えてきたのが、南朝を正統とする見方であった。

日清、日露戦争でも、太平洋戦争の渦中でも南朝の楠木正成は「忠君愛国」の象徴として君臨してきた。

楠木一党は、元来「悪党」だった。悪党といっても現代の文字面の意味ではない。

悪党とは現在の言葉になおせばアウトローだ。ということは水戸藩にとって、すなわち「天皇と無頼」という系譜こそが日本の正統だったわけになる。

徳川幕府にとっても日本の正統性をどう見るかの問題が巻き起こる.この問題については誰もが悩んだ。

「徳川の日本」には。大まかには3つのモデルがある。

================
一つは慕夏主義。
二つ目は、水土主義。
三つ目は中朝主義。
================

慕夏主義とは、中国の奥にある神話的中国王朝。中国の分母的なもので、過去の偉大な国にモデルを求めていけば後の王朝は作られるという考え方で、奈良朝がつくった平城京モデルは唐の律令モデルを真似たもので、さらに唐朝は、夏や周のモデルを想定したものだった。

2つ目の水土主義は自分の国にあったモデルをつくったほうがいいという考えかた。いいかえれば、どんなモデルも日本的に改変したほうがいいと言うモデルである、これは熊沢蕃山がらが提唱した。のちに貝原益軒を含めた日本の本草学や吉宗の国産物産論へとつながっていく。

3つ目のモデルが「中朝主義」で、山鹿素行らが推進した。この中朝主義をひとことで言えば、「中華」という思想を日本へそのままもってこようというもので、自分の国を世界の中心と考える思想だ。この中朝主義がなにやらかにやら引用されて問題を引き起こしていく。

中国は三〇〇〇年に渡ってずっと華夷秩序にもとずいた中華帝国を理念としてきた。そこからみれば日本はつねに辺境でしっぽをふって言うことを聞いている間は認めるが、勝手は許さないというやつだ。これはいまでも中国のお家芸である。

しかし、その当時、中国は漢族の明朝だったのだが、それが異民族である満州族にとって変わったのだ。

これは日本にとっても、思想の一大事!

つづく・・
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-03-08 23:27 | 日本史&思想

日本文化の構造

日本の文化は何層にも重なりつづけながら、しかも下層の文化を残してきた。

たとえば仏教という強固な倫理観をもった宗教がはいってくれば、それ以前にあった神道という層に重ねて神仏習合となり、道教も仏教とかなさり、修験道の流れとなった。いい塩梅でさかね、あわせ、きそいあってきた。

重なったものは執拗低音となって古層となる。

朝鮮半島は漢字をほぼ完全に駆逐して、ハングル文字に変えてしまったが、日本はひらがなの普及の後も漢字は残りカタカナだって使っている。

何層にも重なった文化は質量の増加によって、時に相転移していく。今様ではイノベーションという表現になるのだろうか・・。

世阿弥はこのような状況を「ものまね」と名付けた。猿真似ではない。ここでいう「もの」とは「もの思い」「もののけ」などに使われる抽象度の高いもので、漠然としたものを指している。

何かを真似ようとするとき、そのものを真似るのではなく、もっと奥にある本質みたいなものをざくっと捉え、真似てみる。表層の部分は状況に合わせて自由自在に変化させていく。

これが日本だ。

ところが、どっこい戦後、自らの重層的な文化を積極的に捨てる作業に邁進してきた。

ものまねではなく、重層的な文化がないところに外からの文化を受け入れる。盲目的な単なるさるまねになってしまった。

日本の文化を形成するものは、日本の古典と漢籍が中心だ。

以前の寺子屋などでは、素読が中心で論語を身体で読んでいた。

寺子屋の祖である、心学の石田梅園も儒教、仏教、道教となんでも取り入れていた。

夏目漱石と寺田寅彦が、アインシュタインの新設を確かめるべく東京帝国大学で実験したあと、和服に着替えて能を揺った。

脳科学や理論物理学やマーケティングの話しのあとに、日本文化や漢籍について語り合う。そんな日本人が増えてくればおもしろいのだが・・

しかし、この重層的な文化の獲得は一朝一夕にできるものではない。即席で身につくものではない。


引用参照:春秋社・身体感覚で論語を読みなおす(安田登)
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-03-07 13:32 | 日本史&思想

空海の声字実相義を読む

近年様々なところで読書が奨励されているが、読みたくても読めない本を読もうとする機会はナカナカ少ない。空海については、演劇の題材になり、ファッションショーのコンセプトまでなり、空海マニアに出会うことも少なくないが、そのなかで空海本人が書いた著書に触れたという御仁はこれまで出会ったことがない。

そんな空海を、空海の書いた原文を輪読と図像によって読みきろうとする機会がやってきた。

題材は「空海の声字実相義」
前回は、だいたいこんな感じ。⇒ここ

今回はこのつづき・・

輪読しながら、ふと思うことは、空海は世界観のレーヤーをぐいぐいと上昇し、世界を俯瞰。そのとき直感したあるモデルをもって舞い戻り、社会での現象にこれを当てはめてコト動かしていた。ようだ。。

「華厳思想」やナーガルジュナの説く「空の思想」は、はじめは、まったく手に負えなかった.

しかし、読み込んでいくうちに、昨今現場において出会いが多くなってきた「多文化共生」や「生物多様性」と、「華厳の思想」や「空の思想」とかさねあわせて見てみると、「華厳の思想」や「空の思想」の立ち位置から、多文化共生、生物多様性などが紐解け、一蓮托生の世界観が腑に落ちて来るという経過があった。

さらに、空海の声字実相義を読むと、一見お花畑的な思想にも見える「華厳思想」や「空の思想」を突き抜け、その奥には、密へと向かう思考方法があることを知る。

華厳が「部分は全体、全体は部分であってこの世界の実相は個別具体的な事物が相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあう。」というところで立ち止まっているのに対し、空海の「声字実相義」は、そこで立ち止まらず、人間の成長を時間的変化と文化社会的文脈で記述する方法論で未来へ向かう。人間を、環境と常に交流・相互作用している開放システムとして捉える【等至性】と言われるモデルをもっていた。

大日如来という巨大な推進エンジンシステムで、我々全員が共有する避けることのできない自然法則と、これまで個々の人間意識が個々に経験したことをすべて呑み込み、未来へ向かう時間と与えられた文化環境のなかで変性しながら、相互に煌めき合う光のなかを、それ自体が空である自覚をもって【ある情報世界】へ向かっていく。←わかるかな~~。これを文字で表現するって難儀だ。

声字実相義の最後は、自然的原因、社会的原因を超えて、自分自らがクリエートする。それを皆がつくりだす。個性は探すものでなく自分で創りだすもの。アイデンティティーは本覚法身にある。・・・と説いている。(高橋秀元ナビゲート)
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-02-28 14:09 | 日本史&思想

隼人の古代史

f0084105_14313780.jpg東京に住む中高時代剣道部だった友人が鹿児島へ立ちより、いま隼人を追いかけていると話していた。

鹿児島出身なら一度は追いかけねばならないテーマなのかもしれない。

ところで、よくわからないまま使っている言葉に、鹿児島人の代名詞のようになった【熊襲】と【隼人】ある。

はたして【熊襲】と【隼人】とはなんであろう。

古代南九州には熊襲、あるいは隼人と呼ばれる人々が暮らしていた。彼らは【古事記】や【日本書紀】にも登場し、古くから知られていたが、「熊襲」と「隼人」の区別や、当時ヤマトと呼ばれた中央政権とどのような関係だったのか、記述しておきたい。

さて、さて、熊襲と隼人の学説的な違いの説明なのだが、いまだこれといった説はない。

ただ、記紀には隼人より先に熊襲が登場するため、時代の前後からいえばどうも、熊襲が先で、遅れて隼人という言葉が使いだされた。

先日、訪れた隼人塚史跡館の展示室では、熊襲を球磨と曽於を合わせた地域とし、隼人を薩摩と宮崎の日向をあわせた日向が隼人の住む地域としていた。

==========
肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族であり、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えたと言うのが現在の通説である(津田左右)。
===========

なお、隼人の古代史を書いた隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。

津田左右説と中村説の違いは、熊襲が分布していた地域について、熊本県の球磨を含めないというとことであろう。

それではつぎに、隼人だが、ところで隼人という呼称はどこからきたのであろうか。

これには地名からとったとする地名説と、隼の名前からくる性行説がある。

この議論は江戸時代の本居宣長から盛んになり宣長は、隼人の名義をその敏捷性にあるとした。(性行説)しかし歴史学者、喜田貞吉は、古代の異族を呼ぶのにその挙動をもって名とする例はないとし隼人は【はや】の人であるとした。(地名説)


ハヤトが史上にその具体的な姿をあらわすのは、天武11年日本書紀に大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲をとるとの記述からだ。

つまり隼人は薩摩、大隅以外にも、今の奈良県にも住んでいた。これを畿内ハヤトとよび、奈良県の五條市阿田。京都府も京田辺などにもその痕跡がある。

この理由は大隅の隼人族の大隅直一族が、5世紀からヤマト朝廷と天皇の后となるなどの親和策をとり近習隼人といわれ身辺の諸用をつとめたからだ。

なかでも、忠義を尽くした例として、5世紀末には雄略天皇を陵墓に葬るさい、7日間食事もとらず泣き叫び、死んでしまった話しがある。

この哀号に「オラブ」とつけた。

いまも南九州では、泣き叫ぶことを「オラブ」というのはそのためなのだ。
[PR]
by ogawakeiichi | 2011-12-06 14:32 | 日本史&思想

日本辺境論

f0084105_1103931.gif3・11以来、原発に関しての池田信夫の合理と、内田樹の情緒がツイッターのストリームラインを頻繁に流れていった。

スパット切れ味のよい論理的思考もそれはそれで好きではあるが、じわっとぼやけた情緒もこれはこれで大好きだ。※池田信夫は最近イノベーションに関して、これまた合理的にまた論理論理的にスパッと書いた本を出版した。

自分自身のこのあいまい状態がいいとは思わないのだが、まあ、現時点ではそういうことになる。

内田樹の日本辺境論は、日本人を常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民とする。外部にある世界標準に準拠してしか思考できない私たちとする。

『じゃあ、それの呪縛からどうやって解き放つかといえば、日本には外部や上級審級は存在しない。そのようなものに「正しさ」を保証してもらわなくても私はこれが正しいと思うと言いうる。

どうして言いうるのかといえば、その正しさは今ある現実のうちではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからだ。つまり、わたしの行為や判断の正しさは未来においてしか保証されない。

だから、自らの実存を自分がなした誓いの担保として差し出すことができる人々であれば、新しい世界標準をつくりだすことができるのだ。とすれば、世界標準にあわせた普通にする努力をするのではなく、とことん自分として考えたほうが好い。』

コレに従えば、あれれ、内田の情緒は池田の合理を包括してくる。

ああ、これって多様性の見方なのかなぁ。。

多様性は見方より、それを使いこなすワザがねえ。。

まあ、そこらあたり置いといて・・

丸山眞男は、外来のイデオロギーに対して反応する日本人の国民的常同性を「執拗低音」とよんだ。(執拗低音は決して主旋律にはならない。低音部で反復されるとする音楽用語)

『主旋律は圧倒的に大陸から来た。また明治以後はヨーロッパからきた外来思想だ。けれどもそれがそのまま響かないで低音部に執拗に繰り返される一定に音型によってモディファイされ、それと混ざり合って響く。そしてその低音音型はオスティナートといわれるように執拗に繰り返し登場する。』

この回帰するパターンのことを丸山は「原型」とか「古層」とかに音楽用語で言い換えた。

つまり日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだが、変化する仕方は変化しない。ということだ。←わかるかな~

もっといえば、正統な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにも言えるのだ。よその世界の変化に対応する変り身の早さ事態が『伝統』化しているわけでもある。

 ↓参照(「日本の思想と文化の諸問題」1981年10月)
==========================

〈執拗低音は主旋律ではないんです。これを主旋律にしようというのは無理なんです。無理にしようとしたのが、神道から、あるいは国学から戦時中の日本主義に至るまでの悲劇なんです。執拗低音が、しかし主旋律を変容する。……そこに日本的なものがある。執拗低音――断片的なもので体系的なものでないけれども――を取り出せば、どうやって外から入って来た非常に高度な世界観――仏教とか儒教とかキリスト教とか、あるいは自由主義、民主主義、マルクス主義、何でもいいです、それは――というものが、どういうふうにしてわれわれの血肉になっていったか、ということの一つの秘密が解ける。……

「いきほひ」というのは非常に重要な概念。……状況変化に対する適応性というものにも現れる。つまり状況追随主義になっても現れるし、状況変化になっても現れる。それから今度は主体に内在した場合にはエネルギー主義になる。……中国に比べると、善悪の倫理的基準よりは「いきほひ」のある人間、つまり「あいつ、元気あるな」「やってるぞ」という、それが尊重される。……そういうのがずーっと私の言う執拗低音としてある

============
[PR]
by ogawakeiichi | 2011-10-05 11:00 | 日本史&思想

郭務悰の唐・占領軍

昨日のブログでは藤原鎌足を百済の皇子・豊章と書いた。このあたりは以前はトンデモなように言われていたのだが最近はなぜか、この手の情報が、有識者から漏れ聞こえる。

わたしがトレースのもとにして、自己変換しているプロトタイプは静岡県知事である川勝平太氏の論文だ。

NARASIA 東アジア共同体という平城遷都1300年記念の論文集にある。(※この論文集、後付にはわたしの名が記載された貴重な本でもある。)←ちょい、自慢(笑

おっと、話がずれてきた。

さて、さて、当時、ときの百済の現地リーダーは福信である。


豊章(藤原鎌足)は663年、福信の大歓迎を受け、百済へ帰り百済王となった。

しかし、唐・新羅連合軍と刃を交える戦術で、福信と決定的に対立し豊章は福信を殺害した。

そして唐・新羅の連合軍の前に敗れ、百済王朝は完全に滅亡した。

その百済王朝の血をひく鎌足の息子が藤原不比等なのだ。

つまり、鎌足が父となり日本で生まれた子の藤原不比等は百済系の2世なのだ。

日本書記のハイライトは百済の観点からすれば、朝鮮半島における百済の滅亡である。

その滅亡は663年、白村江海戦での倭の水軍の壊滅的崩壊だ。

敗戦後、近江令の制定、壬申の乱、藤原京の造営、「日本」の国号、「天皇」の称号の採用などが目白押しであった。

その急展開の背景には唐の使節や軍人が繰り返し来日しているという事実がある。

郭務悰が唐からつれて来日した数は2000人にもおよびそれは占領軍といってもよい

つまり倭の体制は崩壊し、唐帝国のシステムを模倣する方向に向けて大転換がおこったのだ。

その過程で、倭は「日本」という国号を持ち、律令制が導入され。都城が建設された。

その大転換期に藤原不比等による百済王家の日本における再考が画策されていた。


藤原京につづく平城京の造営は、そのような国際的共同作業の脈絡でもとらえうるのである。
[PR]
by ogawakeiichi | 2011-09-30 14:40 | 日本史&思想