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彩遊記

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カテゴリ:只記録( 272 )

自由について

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先日ある寄り合いの席で、簡単な自己プロフィールを表沙汰することになる。

経済的にもトレーニングにも必要な浪費と時間がかかるトライアスロン、順調だったデザイン事務所を閉鎖しての中国での教員生活、デザインとアート、文筆活動など多分野なわたしの“自由”に興味をもったのか、“自由”ってなんだろうという問いが立った。

“我侭で自由に見える生活も「捨てるもの」が多いですね。“と答えておいた。

英語で言う自由には「何かへの自由を表すfreedom」 と、「何かから開放されるliberation」がある。前者が無料とかバリアフリーなどの意味に使われるのに対し、後者は獲得していく自由を意味する。たとえば信仰の自由や、表現の自由、就職の自由など。

また「何かに向かう自由」【to】と「何かからの自由」【from】がある、何かに付け加えながら進む自由と、すでにある何かの中身を変えていく自由がある。

中世の日本での自由は、近代における意味とはことなり、自由狼藉という意味である。狼藉とは夜郎自大など、まるで無頼のように思われているが、どちらかというと既製の価値観を倒すために自らを他者とともにパティキュラライズした人のことを自由人、自由とよんだ。網野善彦「無縁・楽・公家」あたりを読むと、日本本来の意味がわかる。

しかし、自由を英訳したのはだれだろう、西周あたりかな。。。あとで調べてみよう。





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by ogawakeiichi | 2014-09-18 09:31 | 只記録

コンセプトについて

ここ数日、FBにアクセスできない状態が続いている。

FBにコンテンツをアップすると、注意のカーソルが必然的にFBへと向かうシステムには、やられた!と思うのだが、執着を手放す修行が足りないため,他者からののコンタクトを示す赤い表示の有無が頻繁に日常意識の俎上に上り、なかなか手放せないでいた。

そういえば初めてメールを始めた頃、ブログをはじめた頃も、メールやブログに執着してしまう時期があったなぁ・・。。

ところがなぜかFBにアクセスできなくなり数日が過ぎた。原因はわからない。

これまでFBというインタラクティブな装置のなかで拡散していた意識が、一方通行的なブログを綴ることで収束する意識へと向かう。

これはこれで、清清しい。

ところで目の前を通過していく現象や対象の断片的なチャンク情報を、脳の中へ記憶として蓄えながら、情報クラスター(くくり)として留めることは一筋縄ではない。

たとえば、ブログでもなんでもだが、あるぼやけたモノやコトをカタチという表現へと向かわせるときその作業を妨げたり難渋させたりすることがしばしばおこる。

そんなときは、あれこれの発想や思索を加速し、直感を動かすときの支点となるべきコンセプトのくくりが問題の場合が多いという。←たしかにそうだ。自分の興味の対象へ概念(コンセプト)の装いを変えればいいのかも。そのことでコンセプトはモチベーションの起動装置やシンボルに成って行くのかもしれない・・・ただコンセプトのないコンセプトってないのかな?。


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コンセプトとは「一つに掴まれたもの」のこと。日本語では「概念」のこと。言葉というツールで表現できるできものである。それゆえに、概念には必ずはっきりとした起源や発生がある。概念には言葉としての発生と変遷の歴史がある。
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ここはひとつ、モノ・コトに立ち向かうまえに、立ち向かう背後の概念(コンセプト)の建て直しでもしてみよう。。
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by ogawakeiichi | 2012-06-22 13:30 | 只記録

たわごと

f0084105_1021327.jpg人間は未知のものを既知のイメージで理解して、予測に基づき行動するいきものだ。

日本は、その多くが外から来た「外来コード」と、それまであった「内生モード」の組み合わせからなる。

日本という場は、外からの揺動を受けると、深層・中層・表層がそのつど動いて、そこから日本のマザーがアタマをもたげいい案配で適用していった。

ここ鹿児島では知事選も近づき、FBでは支持者の表明が相次いでいる。民主主義という民が主である表沙汰でもある。原子力発電の有無を争点にすると、投票箱が、原子を扱ったシュレディンガーの猫の、あの箱にもみえてくる。

投票とは、ある集団での各成員の意思表示を行うための方法の一つである。集団内の意思が統一されない場合、多数決によって物事を決定することが多い。きわめて民主的におもわれる投票も、単票によるきわめて二分論的な方法でもある。つきつめれば善悪論までいき、劇場型になればなるだけ角が立つ。


安易なカテゴリー分類、それとともにある二項対立(あれかこれかの選択)ではなく、分けつつもどちらかを排他的に選択せずに選択そのものを無効化する方法はいまのところ無いのだろうか。

私たちは、2つの価値観に引っ張られて、そのどちらかを選んで他を捨てているか、もしくは2つのものに二重拘束されている。前者を二者択一といい、後者をダブルバインドという。

そのいずれにも陥らないで、ふたつの相反する矛盾や葛藤をそもままうまく生かしていく方法はないのだろうか。西田幾多郎の言う、絶対矛盾の自己同一的な・・・・・徹底的に覚悟のジグザグってものいいのかも知れない。

宮本武蔵の「五輪書」では、徹底的に生と死を武芸において技を磨いた。「さかゆる拍子・おとろう拍子」「あたる拍子・そむく拍子」それをまとめて、「懸かる」と「待つ」を同時にとらえた「懸待一如」という境地まで高めた。そこには生と死という大きな相反する結論がまっていた。

そこで大事なのはただひとつ、瀬戸際をどう見分けるかということだった。

「夕空晴れて、秋風吹き 月影落ちて鈴虫なく 思えば遠し故郷の空 ああ わが父母 いかにおわす」
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by ogawakeiichi | 2012-06-20 14:26 | 只記録

分岐について

世界を理解したいと思ったら、宇宙や自然と向かい合う必要があると言ったのは、私淑する松岡さんだ。

我々の生命の活動は‘宇宙―地球系’にたった一度だけ奇跡的に生じた「負のエントロピーを食べている系」に沿って35億年以上の旅をしてきた。そしていつの頃からか、我々はもともと物質でできているのに「意識」や「心」をもった。

わたしの左側には10年以上前、中学生だった娘が拾っていた猫がちょこんと座っている。虚ろな目で外を眺めている。この猫にさえときに心が通じることがある。私の脳が生んだ意識や心によって、猫の脳が生んだ意識や心と交流しているとしか言いようがない。

物質の運動は脳がつくった。脳は物質であるのに、その物質のなかを走り回る電気信号は意識を生んだ。これはいったいどういうことだ。←このことを心身問題という。

宇宙史から生命史を経て社会史、人間史(物質が経験する学)へ至る道と、その逆に人間、社会、生命、宇宙へと至る、(精神が経験する学)のふたつのルートからこの問題にチャレンジしていこう。

ところで、個人的にだが2012年を大変革の年と、ずいぶん前から位置づけている。311以降、時の流れを鑑みながらベタな言葉ではあるが人生の旅の分岐を模索している。

ラサという名のデザイン事務所をたちあげ、スタッフが寄り合い10年を過ごした。同時に個としては究極の身体思考からトライアスロンのフルタイプを目指した。←1994年達成。

その後、中国というまったくシステムの違う国家レイヤーのなかで、そこではモノに向かうデザインではなく、コトに向かう教育に取り組んだ、

難問にぶつかるときにつねに立ち止まり依拠することがある。依拠するもの、それは「相互共生発生」と「境界変化発生」という生物学上の発生や分化に関することだ。

人類や国家や社会や組織、また個人が新たなルートを模索するとき、生命論で言う「発生」「再生」「分化」に行き詰ったならこの二つの方法がある。

「相互共生発生」とは、バクテリアやウイルスを細胞内に共生させることで、内部システムにいくつもの小器官や小機能を発揮できるようにした見方だ。

「境界変化発生」とは、内部と外部を分けていた膜が自ら新天地をめざし、陥入したり飛び地をめざして内属と外包の関係を劇的に変えていく見方である。

これはあえて「区切る」「仕切る」によっていったん確立した境界を、あえて動かしてまったく新しい「自己―境界」の関係世界をつくりあげていくことである。
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by ogawakeiichi | 2012-06-08 05:34 | 只記録

いのちを守る300キロのもりづくり




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by ogawakeiichi | 2012-03-20 12:02 | 只記録

新年好

パソコンの棚卸をしていたら、出てきたのだけど
なんか、いいなあ~。
あの新年の瞬間の爆竹のすごさは、思わず参りました。・・だった。
なぜかアジアの魂が共振するのか・・涙で頬をぬらしていた。


↓過去の日記から

旧暦の正月、春節を迎えた。この原稿を書いている桂林の部屋の下では、子供たちが投げる爆竹がビュンビュン飛び交っている。悪童たちは、見知らぬ人の足元に、そしらぬふりをして投げてみたり、道路向こうの家に向かってバンバン、ドーンとまるで戦闘状態だ。水平打ちだけはやめろと注意したのに聞きゃしない。水墨画の師匠の昔話では、春節は花火から身を守るため、傘をさして水中眼鏡をかけて歩いていたという。
 
旧暦の大晦日。夕方5時を過ぎる頃から、通りを走る車の流れが少なくなり、街を歩く人影もまばらになった。一族そろっての「年夜飯」と呼ばれる晩餐がはじまる。およそ華人のいるところではこの時間に家族が集まり、食事をすることは非常に大切にされている。僕のほうは、休み期間中バイトで学費を稼ぐ学生や、はるか新彊ウイグルから来て、簡単に帰省できない学生たちと、学校が準備してくれた年越の宴に参加する。帰省できない学生たちの表情は心なし寂しそうだ。
 
もう待ちきれませんとばかり、大晦日の昼すぎから、バーン、バーンと散発的に鳴り始めた爆竹は、「年夜飯」が終わるころから、バリバリバリと連続した音に変わりはじめた。駐車してある車のセキュリティーが、爆竹の音に反応し、ウインウインとけたたましく鳴り響く。人通りの少なくなった街中は、火薬のにおいと、硝煙に包まれた不思議な世界だ。 
 
年越しに、爆竹をバンバン鳴らすのは悪魔を払い、福を歓迎する意味がある。同僚の中には、よくないことが続くと「爆竹を鳴らすのが足らなかったかなぁ?」とぼやくヤツもいるくらいだから、爆竹の音は、彼らの生活にしっかりと組み込まれているみたいだ。しかしこの爆竹、毎年のことだが、粗悪品による暴発や火事が多発して、主な都市では、本当は禁止されている。「新年気分が沸かない」との多数の声に押し切られ、“表向きでの禁止”から、13年ぶり“お墨付での解禁”とあいなった。

夜11時半、日没から鳴り響いていた花火と爆竹が“年越の瞬間”に向け小休止。僕は、一年で最大のショーを見るために、とっておきの場所に移動することにする。以前住んでいたことのある勝手知った17階の屋上だ。
 
11時50分頃から、再び爆竹と花火の音は激しくなる。夕方とは違うあまりの音の激しさに、形容しがたい不思議な感覚が襲ってくる。桂林の街全体が、半端じゃない花火と爆竹の音に包まれた。アパートの各ベランダで爆竹が裂烈し、ビルの屋上からは大輪の花火がバンバン打ち上がる。その花火の大きさ量ともに半端じゃない。きっとこの瞬間のために、散財したのであろう。ちなみにベランダでの使用は禁止なのだが、そんなことは、お構いなしだ。 
 
夜12時、いよいよ春節の瞬間を迎えた。音が激しすぎて耳が麻痺し、何にも聞こえてないような感覚になる。隣の屋上でも、目の前でも、山の上でもドンドン打ち上がる。スケールの凄さは鳥肌モノだ。思わず、参りましたと呟いていた。
 
もっとも、これだけバンバンやってくれると、嫌が応でもストレス発散。すっきり、くっきり新しい年を迎えられた気分だ。新年快楽!チャイナは新年を迎えた。 <終わり>

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by ogawakeiichi | 2012-01-23 06:14 | 只記録

メモ:新しい日本の創造1

メモ:新しい日本の創造M‐1

○日本が失った記憶、文化、スピリッツはなかなか再生できない。

○しかし、本来日本はそういうものを万葉の時代から歌ってきた。

○英語でぴったりとした単語はないのだが、しいていえばメランコリーか?

○たとえば、それは「うつつ」だ。「うつつ」は「うつろう」に変化する。そのおおもとには「うつ」(空っぽ)がある。

○日本は一つではない、一途で多様な日本なのだ。

○面影日本。ルーツ オブ ジャパンというものがあり、ジャパンマザーという埋めこまれたものその中に今の事態がのっかっている。

○ジョン・ダワーは「私たちが語れねばならないのは日本文化たちである。日本文化たち」と語り彼は、JAPANSという複数形で日本を表現した。

○わたしたちは、本来たくさんの「日本たち」を語らねばならないのだ。

○たとえば天皇と将軍。地方と中央。これらはともに自立していた。

○マネージメントも大切だけどイメージメントも大切だ。そのふたつを一緒にやらねばならない

○マトリックス オブ ジャパン。ジャパン マザーをつくる。それならどんなキーワードが出てきても問題は解決する。

○西洋世界はそのことをやってきた。いまグローバルスタンダードといわれているものはベネチア、ジェノバが世界というものを知っていった大航海時代。それが複式簿記を産んで貸方、借方が生まれ、一度アントワープへ移り、東インド会社をつくり、アムステルダムからロンドンへうつり、そこではじめてコンメンダ、コンパンダといわれるものがカンパニーとなり現在の金融を中心とした世界のモデルができていった。

○たくさんのコーヒーハウスができて、その中からロイドができてロイズコーヒーをつくって保険というものもつくり、たとえば、エクイティーという言葉が全部の歴史を呑み込んだ

○わたしたちは、現在それらを英語で、あるいは翻訳して使っているに過ぎない。

○日本人は日本文化の中に潜んだものを世界に発信する努力がたりない。

○日本は特殊だというものの、堺や福原や太宰府やヤマトや藤原4代がつくりあげたあるコンセプトを世界へ広げる努力をしていない。

○日本がやってきた「マトリックス オブ ジャパン」を、日本知、アジア知、世界知というコードをつかって組み立てることが必要だ。

○わたしたちの奥にあるものを取り出すと別のものと出会う。たとえば携帯ストラップというものを取り出すと、かつての「ねつけ」と出会いレゾナントがはじまる。

○たとえばミノリとイノリもそうである。ふたつはペアであるべきた。

○今日のTPPの問題はミノリからイノリが欠けている。本来、お米はミノリとイノリが一緒だったはずなのに・・・。
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by ogawakeiichi | 2011-11-10 12:45 | 只記録

マルヤ・ガーデンへ!

笑顔とか明るさなんかありません。一点一点の写真を見ていると、その被写体が、もし自分だったら・・と、考えこんじゃうんです。正直言って、ちょいとばかし気持ちが落ち込むような写真ばかり。立ちすくんでしまう写真ばかり。でも、この手の世界も一度くらいは見てやってください。オイラの綜合ディレクションです。主催はJICA九州。



「地球の上に生きる2011・鹿児島展」
DAYS JAPAN フォトジャーナリズム写真展
◎とき:10.12wed〜10.18tue
◎ところ:マルヤガーデンズ7階 ガーデン7

http://bit.ly/qwL1IB

※地球の上に生きるー自分の知らないところで何かが起こっている。。。



●現場の記録

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●裏方編:2ヶ月前の事始め
資料を集めて、読み込んで、観察して、イメージのプロトタイプをつくって、揺すって、ポスターつくって、市電に吊るして、チラシをちらし、プレスへつなぐ
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現場見て、空間のイメージつくって、当日の午前中、外光をふさいで、壁をつくってそこを東日本大震災写真展示のスペースに
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午後になり、壁紙を張って、入り口のメインをつくる
絵画配置の指示をして、微調整を繰り返す。スタッフは途上国帰りのJOCV看護士と我がお弟子さんたち(笑
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人手が足りずにJICAメーリングリストでHELPを発信。仕事を終えた面々が三々五々やって来て、なんとかかんとか、間に合いそう。
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誘導系ビジュアルをおいて
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完成~!
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ライティングの調整を終わり、はじめてじっくり写真を見た。その強さに、立ちすくんだ。◯◯なんかどうでもよくなった。

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by ogawakeiichi | 2011-10-13 08:14 | 只記録

たわごと

久々に間合いを詰める、機を誤った。

間合いをとりながらプロトタイプを構想して、それを揺さぶりながら事態は進行していったのだが、どこでそうなったのかは定かではないのだが、よし、これでヨシ!と、思いをぐっと入れこんだのだ。

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プロトタイプが高額になったり、思い入れがあまりにも強くなりすぎると「完成品」に近づいてしまい、建設的なフィードバックが得られないばかりか、フィードバックに耳を貸そうとさえしなくなる。そこでデザイナーが受けたダメージばかりが強調されてくる。(ティム・ブラウン)
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本来ならば、経験豊富なデザイナーは多くの仮留をしながら最後の最後で一気に詰めるのだが、今回ばかりは、ちょいとばかし詰めのタイミングを誤ってしまった。

対象とはすでにラポール環にあると想定していただけにそれは無念になった。

想定外の展開の余地を残していなかったのだ。

やはり最後一気に詰めるタイミングを見計らうのは、難しい。

間合いを詰める、機をつかむには、身体性を伴った堪技を磨くしかないのかも知れない。
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by ogawakeiichi | 2011-10-10 11:00 | 只記録

孔子の正名論

昨夜、ある寄り合いでアヤシイ小川さんとアヤシイを枕詞に付けられ紹介された。先日も、ミニミニ講演をした際の肩書きに、ナゾの男と枕詞がつけられていた。

私的にはデザイナーというかりそめの肩書きをときに名刺に記載はしているのだが、これが前面に出すぎると、昨今、私的には避けたい広告デザイナーに受け止められやすいので都合が悪い。←モノをつくり、コトの仕組みをつくり、人と人を繋ぐすべてをデザインとして捉え動いているので◯◯デザイナーと限定されるのも好きじゃない。

鹿児島大学の講師の肩書きは、世間様には受けがいいのだが、講義時間的に腰をどかんと下ろせてやってないので、この肩書も、本人的には座りが悪い。

一般的には肩書きのない名刺を使っていたのだが、世間はなかなか許してくれない。

肩書きのないのは、ヤクザか政治家みたいですねとよく言われる。

なぜ、日本では肩書きがないと不安なのだろう。

どうも、それは儒学の影響じゃあないだろうか。。。儒学の本家、中国での名刺に記載してある肩書きなんで凄まじい。勝手にでっち上げたようなものまがりだ。←なぜ、こんなこと言えるかというと、同僚中国人の多くがそうだった。

孔子は「必ずや名を正さんか」と言い、荘子は「われ、こころみに汝のために妄言せん」と言った。

「名、正しからざれば、言、順わず。言、順わざれば、事、成らず。事、成らざれば、礼楽、興らず」だった。
 
このように孔子が考えたのは、もともと中国では「名」は「実」にこそ合致することによってのみ力を発揮すると考えられていたからである。

「名を正す」とは「名と実の合体」の如何を問うことでなければならなかった。

つまり、「肩書き」に、実体を合致させることが、孔子の言う正名論なのだ。

パラドックス的に言えば「名」というもの、たとえば「肩書き」というものがが儒教社会にとっていかに重要かということが、ココから垣間見えてくる。だから肩書きがないと不安なんだろうな。

「名を正せる」かどうかはおいといて・・
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by ogawakeiichi | 2011-10-09 15:29 | 只記録