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彩遊記

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カテゴリ:サイエンス( 35 )

ミラーニューロンの仕業

f0084105_11355190.jpg旧知の友がD通を早期退職した。情緒と組織の面影の電話を受けるたび、次第に相互補完的になにかを共読している感覚になってきた。

D通をあっさりと止め、農業の周囲へ突き進むことにしたのだが、現実直視のなかで、複雑系の海を暗中模索、右往左往していた。

そのうち、ことばの調子で電話口の向こうの心の襞が感じられるようになってきた。次第に距離を隔てているにも関わらずミラーリングな影響を受けるようになってきた。

いち早く複雑性の海を泳いでる先人としての経験からミラーリング感覚が発動したのかもしれない。

我々の認知は共感などのかなり高度なものでさえ、身体感覚と無縁ではない。

受話器を通した聴覚からの情報が、共感から相互補完的な編集や共読に近い振る舞いを興すような気分になってきた。

これはいま流行りのミラーニューロンの仕業なのだろうか・・

ミラーニューロンの発火によって他人の喜怒哀楽を自分のことのように感じるのだろうか。

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ミラーニューロンは1990年代初頭に、イタリアのパルマ大学の神経生理学研究室ジャコモ・リゾラッティをリーダーとした研究グループにより発見された。

マカク属のブタオザルを使って、前頭葉の運動前野にあるF5という領域を調べているうちに、前代未聞のことがわかってきた。自分がある行為をしているときも、他者がその行為をしているのを見ているだけのときも、同じように活性化する脳の神経細胞が、下前頭皮質と下頭頂皮質の両方に存在することが分かった。

鏡のように他者の行為を映すことから“ミラーニューロン”と名付けられたこの神経細胞の発見は、脳科学のみならず、心理、教育、社会学、人類学、芸術など様々な分野に衝撃を与えた。

これは学習や模倣、コミュニケーション、さらには情動の伝播・共有を説明する鍵として注目を集め、生物学におけるDNAの役割を心理学で担うとも言われている。

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これはたんなる模写細胞や模倣細胞なのではないらしい。

ミラーニューロンは自分の行為と他者の行為をつなげてコード化するニューロンだった。

さらに調べていくと、ミラーニューロンは対象物がないパントマイムのような動作には反応しないことがわかってきた。テレビや映像の中の動作にも反応しなかった。

対象物とそれにかかわる動作がセットになったときにのみ、ミラーニューロンはみごとな反応を見せるのだ。

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つまり、【意図】に反応するということ。

ズバッと言えば、相手と同化しないとミラーニューロンは発火しないということになるのだが、

それでは、同化させている大元さまはなんなのか。。う~~NN。。。そこが問題。
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by ogawakeiichi | 2013-04-24 11:41 | サイエンス

生物から見た世界

f0084105_159249.jpgデザイナーなど、対象世界をアウトプットする者は、ユクスキュルの【環境世界】という見方を知っていてもおかしくはない。

彼の著書「生物から見た世界」は、杉浦康平をはじめとする一流デザイナーに愛された古典でもある。

ユクスキュルが我々に言い放った重要なことは「われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていない」ということだ。

さてさて、
これはどういうことかというと、ポイントはこのふたつ。
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①「我々はつねに知覚メガネをもって自然と接し、しかも、メガネのように取り外しできるものではなく、我々に内属しているメカニズムとしての知覚である」

②「知覚によって対象化された世界」は“ナマな自然世界”ではない」

そのことをユクスキュルは“Umwelt”「環境世界」と名付けた。
●“Umwelt” は知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同でつくりあげている「半自然=半人工」の世界像のこと。
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つまり、
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◎モグラにとっての環境世界はモグラが突き進む作用能力そのものと一致し、ハエの環境世界は明度空間と匂いの分布を重ねたような“Umwelt” をもっている。

◎一本のカシワの大樹は、われわれには空に聳える一本の大樹に見えているものの、キツネにとっては刳り貫かれた穴の世界であり、フクロウにとっては危険から遠ざかるための保護世界であり、カミキリムシにとっては巨大な食物市場そのものである。
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ユクスキュルは、研究の終盤には「トーン」(ton)という概念にまでたどり着いた。
トーンというのは、言ってみれば、動物たちがその世界像をもつための特定のフィルターのようなものだ。

たとえば、
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◎ミミズを捕食するカエルにとってのトーンは数センチの棒状のものとの出会いがつくっているトーンである。だからカエルはミミズとゴム屑をまちがえる。

◎ムクドリにとってはハエの飛び方のトーンがムクドリの世界像をつくるフィルターになっている。だからムクドリはハチとハエをまちがえる。
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われわれもこのようなトーンを使って外界を見ている。

デパートやブティックで特定の洋服を探すときは、このトーンをフィルターに使っている。

我々が買い物をする場合、すでにアタマの中でそのお目当てにあたる適当な“像フィルター” を用意している。その見いだしたいトーンによってしか、その売場は見えてこないのだ。


つまり、トーンとは、知覚と世界の「あいだ」を占めている調子フィルターなのである。


ユクスキュルはこのトーンとしての調子フィルターのことを【意味】とも呼んでいる。

たとえば、
-----------------------――
◎犬に向かって男が石を投げたとすると、それ以降、犬は石をぶつけられることに抵抗するようになる。しかし、その抵抗は犬の意志によって抵抗しているわけではなく、石的なるもののトーンを見分け、そういうものが自分に投げつけられるときの相手の動作のトーンを観察して反応するだけなのだ。
 
◎人間にとっても、石のトーンはさまざまな複合性をもって成立する。道で石につまずいて恥ずかしくなるほど転んだ者は、その後は石のトーンのみならず道のトーンや坂道のトーンを注意深く知覚するようになる。
ーーーーーーーーーーーーー――――――――

ということは、その人間にとっては、道は新たなフィルターを通した“道像” あるいは “像道” になったということなのだ。

これはギブソンが提唱した「アフォーダンス」にも似ているが、ユクスキュルの思考はギブソンのアフォーダンスよりより生命生活的でありまた知覚生物学的な見方だ。

こうしてユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである。
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by ogawakeiichi | 2013-04-20 15:05 | サイエンス

コンフリクト

なにかとコミュニケーションの不具合が生じている。

対話と議論が、混乱をはじめ、観察のなかに自己の感情が入り込でいく。脳が自己の感情を一歩引いて観察することに慣れはいるのだが感情回路と、思考回路がときに混乱をはじめるのだ。本来なら、思考回路から感情回路へ移れるのに、感情から思考のほうが圧倒的に多い。

人にはそれぞれ生きてきた物語による見解がある。その文脈において、対話では衝突、葛藤、対立などのコンフリクトが起こる。

そのため感情から境界を引くのではなく、お互いの相違点や認識を俯瞰して眺めながら、共通の認識や参加の意識を高めるベクトルへと自らが導く。

会話は、人間同士が言語でやりとりをする総称でコミュニケーションに不可欠だ。

議論は大脳新皮質で扱われる論理や言語、異なった意見や考え方を合致させていく。対話は大脳辺縁系で扱われる本能的は反応や感情、情動で、異なった意見や考えを共有していく。議論には終りがあり、対話には終りがない。

観照という言葉がある
これは、主観を交えないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ることだ。
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by ogawakeiichi | 2012-06-12 12:16 | サイエンス

部分と全体

f0084105_12402721.jpg部分と全体は、量子力学のw・ハイゼンベルグによる自伝をもとにした科学書で、山崎和夫訳、湯川秀樹が序を書いた名著である。

湯川秀樹の序文では、ハイゼルベルグの体力や気力に印象づけられたことが描かれている。ハイゼルベルグは体力のいる登山を好み、また知的冒険のために精神と肉体の両面にわたる耐久力があり、また一貫して理論物理学を哲学との不可分だったことが記されている。

つまり気力をもって、近代科学が次へのレイヤーへ飛び移るイノベーションのきっかけとなるハイゼンベルグが遍歴した科学者(アインシュタイン、ボーア、シュレーディンガー)達との議論を綴った内容だ。


ぼくは、まずタイトルであるDER TEIL UND DAS GAVZE (日本語訳:部分と全体)が、気になった。実はといえば、このタイトルがぼくに本に手を伸ばす行為を興した単語アフォーダンスをもっていたのだ。

部分と全体というタイトルから、マクロとミクロ、類と個、はたまた地と図(フィールドとフィギュア)の往来からイノベーションが興っていくイメージを喚起した。

1900年代初頭、相対性理論はすでにマクロ方面では幅をきかせていた。その頃、ミクロへの量子力学が語られはじめた。量子力学を構築した物理学者のほとんどは20歳代の若者たちだった。

叙述は、青年時代のハイゼルベルグが、屋根上でプラトンを読みながら、物質の究極について、正立体のようなイデアがあるのか、それとも数式があるのかで悩むところからはじまる。←※ここはよーわからん、

ハイゼンベルグは学生時代から仲間たちと闊達に議論し、自分の思索のひらめきと深化のほとんどをこれらの会話の奥から引き出す能力に長けていた。会話の中で思考を深めていった.

彼は早期にヘルマン・ワイルの「空間・時間・物質」にはすでに出会っている。←物理学の名著なのにぼくはまだ読んでいない・・・。

また、ハイゼンベルグのひらめきは錚々たる対話の相手に恵まれたせいでもある。その遍歴は、当時の物理学の親分アーノルド・ゾンマーフェルトの門下にはいったことだ。門下にはパウリがいた。

ハイゼンベルグはヴォルフガング・パウリと言うこれまた早熟な天才との交流を通して、量子力学を作り上げていく。

次に、ゾンマーフェルトの一門流派とは違う、ボーアとアインシュタインに出会う。

とくにボーアとの対話は、主に政治と科学を巡る議論になった。

さらに波動関数のドゥ・ブロイ、シュレディンガーなどなど、今となってはこりゃすごすぎるこんな連中と対話していた。

ただ、世はナチス・ドイツとなり、牧歌的な雰囲気は消滅していく。家族を守るため、自信の立場や環境に、逆らえずに翻弄されてゆく。

ボーアの相補性仮説、シュレディンガーの波動関数、ドゥ・ブロイの物質波の提起、ディラックの電子の海仮説、パウリの排他律、そしてハイゼンベルグの不確定性などの理論がシェルドレイクの仮説のようにボコボコと誕生していた。

しかし、現在に至っても、これらを統合する理論までには至っていない。
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by ogawakeiichi | 2012-06-04 12:43 | サイエンス

生物多様性

複雑性とか多様性とか多文化共生という、ごちゃっとした言葉に惹かれ、生物多様性シンポジュウム鹿児島大会に参加した。

昨夜某所で一緒だった某嬢がパネリストのひとりだっだのには驚いたのだが、おまけに後ろの席には、夕べの主客であった副知事までが座っていた。←シンポジウムのことなど一言も話題にはあがらなかったのだ。なんの因果だ。マクロもミクロも我が眼の前に現れる現象は、 thereからhereへと動いているのか。

多様性は、どちらかといえば、もうかりまっかのマーケットの競争理論とはまったく正反対のベクトルにあるのだが、官学そして経済界からもキーマンたちが参加していた。

もともと複雑で多様な世界を、善悪や儲かる儲からないなどの2元論が幅をきかすようになったのはいつの頃からなんだろう。

生物多様性とは個性とつながりの世界である。

すべての生物の間には違いがあり、それぞれに個性を持ち、それらが森から海まで、そして食う・食われる・花粉を運ぶといったさまざまな関係でつながりあっている。

やっかいなことに、人間の場合、誰もに生物多様性や多文化共生の意識がないと、多文化共生や生物多様性の意識をもたない、イケイケ組にヤラレっぱなしということにもなりかねない。


じつにここが難しい。お花畑的な軟弱思想と見られがちだ。

非現実的といわれようと、徐々に全体レイヤーをあげていくしかないのだろう

多様性や多文化共生といったものは、複雑系を理解したうえで、どうにもならない違いをワザをもって良い塩梅を目指すしかない。

まあ、海外で現地の人にまみれ、あちらのメンタリティーで長期生活してみれば多様性は触知感覚として腑に落ちるのだが、・・・

どうしたって、世界は、人間は、生物多様性がもたらす価値をワザをもって上手に利用していくことしかないのだ。←我が見解

鹿児島県知事は、人間の潜在意識に多様性の理解を落としこむ教育の必要性を説いていた。



生物多様性条約では、3つのレベルで多様性があるとしている。
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【生態系の多様性】(たとえば、東京湾の干潟、沖縄のサンゴ礁、白神山地の原生林、釧路や尾瀬の湿原などいろんなタイプの自然がある。

【種の多様性】大きなヒグマ、空をとぶトンボ、海をおよぐ魚、ブナ、ヒノキなどの樹木、動植物から細菌などの微生物に至るまで、いろいろな生き物がいる。

【遺伝子の多様性】あさりの貝殻模様が千差万別なことなど、同じ種類でも多様な個性がある。異なる遺伝子をもつことにより、環境の変化や病気の蔓延がおこっても絶滅する可能性が低くなる。
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我々の呼吸に必要な酸素は、数十億年の間に植物の光合成によってうみだされた。雲の生成や雨を通じた水の循環、それに伴う気温、湿度の調節も、植物の葉からの蒸発散や、森林や湿原などが水を蓄える働きが関係している。

豊かな土壌は、生き物の死骸や植物が分解されることで形成され、森から窒素・リンなどの栄養分が河川をつうじて海までつながり、豊かな生態系をはぐぐんでいる。

これらのベースにも生物多様性があるわけだ。

生き物の遺伝的な情報、機能や形態も、我々の生活の中ではなくてはならないものとして利用されている。鎮痛剤、解熱剤、アスピリンは柳の樹皮を成分とし、工業分野でもハスの葉の表面構造をまめて汚れのつきにくい塗料が開発された。生物多様性はわれわれの暮らしを支える有用な価値をもっている。

日本人は、四季の移ろいとともに変化する風景、鳥や虫の声、山や海の幸をもたら豊かさと、自然災害をもたらす荒々しさを持ち合わせた自然をまえに、独特の自然観をはぐくみ、さまざまな知識、技術、豊かな感性を培ってきた。

また、全国各地には漬物、しょうゆ、日本酒など、それぞれの地域の微生物と食材が織り成す地域固有の食文化のように、自然と文化が一体になった「風土」がある。

豊かな自然に接し、そのなかで遊び、学ぶことは豊かな文化の根源である【生物多様性】からしか生まれない。
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by ogawakeiichi | 2011-10-16 10:55 | サイエンス

サブリミナル・インパクト

f0084105_9482283.jpg最近はフェイスブックや、ツイッターで記録することが多くなり、このブログとは長いあいだ、ご無沙汰していた。

FBも、ツイッターも、ブログも散々にいじり倒したおかげで、それぞれのしつらえ、ふるまい方がなんとなくだが、わかってきた気分ではある。

なかでも、FBの友達やフォロワーを不特定大多数にまで増やす方法に限って言えば、、それに秀でた皆様方のやりかたを観察すれば、ふむふむなるほど・・になってくる。

容易いネットワークづくりのやりかたは、インチキブランドづくりの過程にも似ている。←あくまで方法論が似ているということです。

はじめは情報をなるべく伏せて繋がりを構築し、一定の人数までいったのちオープンにして、そこへ絶え間なくメッセージを投げかける。

そのメッセージは私たちの潜在脳に働きかけて、選択や意思決定にまで影を落としていく。

しかし、それは自覚にない。そのわけは、人間の意識下にある情動・認知系への介入は、意識レベルでは認識されないからなのだ。

コカ・コーラはあらかじめブランド名を知って飲むと脳のある部分が活動するのに、ペプシだとさほど反応しない。

ペプシは脳科学的にもブランド戦略に失敗している――そんな衝撃の研究が発表されたのは04年。

人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。何かを好きだから見る(選ぶ)のではなく、見る(選ぶ)からそれが好きなのだ。

人間の感情は、潜在的な情報処理が優先するかたちで発現するのであって、それが自覚(意識)されるのは、常に全てが起った後のことである。

あるいは、各種の情動はまったく自覚されることなくサブリミナルなまま私たちの生活を規定しているのであり、私たちは自己意志により各種の物事を決定しているようなつもりでいるが、実はほとんどのことを無自覚な情動に導かれるかたちで行っているのである。

こうした事実について認識しておくことは、音楽・映像文化の著しい発達や広告産業の激化が進展している現代においては、ますます重要になっている。

意識されない情動の領域に働きかけることで「快/不快」が生じることがわかっている以上、企業はそれに応じた巧みな広告活動や商品開発を実施する。

政治もまた刷り込みめいたイメージ戦略を駆使してくる。情報技術の進化により空前の「自由」を獲得しつつ、私たちは同時に他者の思惑通りに動かされやすくなっているという現状を、しっかりと自覚しなければならない

アマゾン読者書評より参考、引用あり
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by ogawakeiichi | 2011-07-25 09:50 | サイエンス

本能という報酬系

f0084105_11103372.jpg昨日は“天賦のシステム"を民族学のモースが書く贈与論から、ごくごく根っこの部分を記録したが、きょうは量子生物系から本能について、ちょろっと・・
↓  ↓  ↓
わたしたちの細胞には液性コミュニケーションというはたらきがある。

我々は最初に単細胞から生まれてきているが、それが多細胞へとなりその多細胞をたくさんつくって個体というものを形成している。

もともと、細胞をつかさどるDNAやRNAは、利己的で自分のことしか考えない。

遺伝子は、自分のために自己戦略を選んで、進化の歴史のなかに誕生した。もっとはっきり言えば、そういう情報戦略をもって地球上にやってきた。

そしてこの遺伝子が細胞のなかにはいったのであるが、多細胞はそのなかにたくさんの遺伝子をもつことになる。

個々の細胞を丸抱えして集合した多細胞生物というものになった。この時点で、わたしたちは大問題を抱えたわけだ。

なぜ問題かというと、遺伝子は自分のために生きているわけであるから、そんな遺伝子が入った細胞をたくさんあつめた多細胞状態にして、この連中がいうことをきかなくなったら困るのだ。

しかも、周りには草原であるとか砂漠であるとか、雨が降ったり降らなかったり。暑いとか寒いとかの環境がある。

そういう環境の中で多細胞が生きていくには、内部にある個々の細胞の条件をコントロールしながら、しかも生きるための生存戦略のシナリオを書かなければならない。「進化」というのは、それをやり続けた歴史だ。

で、このとき進化のシナリオはなかなか画期的なことをしてみせた。多細胞がある行動をおこしたときのことで、たとえば餌のほうに動いたとか、変なモノがあるから細胞内に取り込もうとした場合に、固体内の状態を「快感」として記憶しようとした。

そして、この快感状態の記憶を細胞間の“液性”が、どの程度の興奮状態をもつか、それとも安定した状態になるのかということを、細胞間で連絡しあい、そういう快感を“1"なら“1"として決めた。

それによって私たちのなかには「報酬系」というものが生まれる。

つまり、“1"なら“1"の快感状態が細胞間を満たしていると、なんらかの+のできごとを感じられるような、報酬がおこるような仕組みをつくりだした。

これは個体の多細胞が同時に体感できる「気分」のようなものである。

つまり、ある報酬がそこにおこっている状態を“1"として考え、それを基準として行動することで生物は活動していく。

この“一"のところの報酬系にあたるのが“本能"なのである。

わたしたちが日常つかっている本能の正体は、報酬系なのだ。
そしてこれが、遺伝戦略とはべつに、私たちの生体システムのなかに出来上がっていった。

すなわちわたしたちは、遺伝戦略とはべつに、細胞間コミュニケーションが管理している「気分のルール」のようなものにもとづいて活動しているとも言えるわけだ。
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by ogawakeiichi | 2011-01-10 11:05 | サイエンス

オーランチオキトリウム

f0084105_1429649.jpgこれが実用化されると、エネルギー問題が一挙に解決?

戦争へのエンジンは、宗教、民族、・・戦争利権などであるが、
戦争への原因は、食料とエネルギーだ。。。

きょう、グッドなニュースが舞い込んできた。。
沖縄の藻に含有される「オーランチオキトリウム」というものが、化石燃料の重油に相当する、炭化水素をつくることがはわったという。

記事はここ
asahi.comニュースサイエンス記事.

生産能力10倍 「石油」つくる藻類、
日本で有望株発見2010年12月15日7時0分

              ↓         ↓        ↓       ↓
 藻類に「石油」を作らせる研究で、筑波大のチームが従来より10倍以上も油の生産能力が高いタイプを沖縄の海で発見した。チームは工業利用に向けて特許を申請している。将来は燃料油としての利用が期待され、資源小国の日本にとって朗報となりそうだ。茨城県で開かれた国際会議で14日に発表した。

 筑波大の渡邉信教授、彼谷邦光特任教授らの研究チーム。海水や泥の中などにすむ「オーランチオキトリウム」という単細胞の藻類に注目し、東京湾やベトナムの海などで計150株を採った。これらの性質を調べたところ、沖縄の海で採れた株が極めて高い油の生産能力を持つことが分かった。

 球形で直径は5~15マイクロメートル(マイクロは100万分の1)。水中の有機物をもとに、化石燃料の重油に相当する炭化水素を作り、細胞内にため込む性質がある。同じ温度条件で培養すると、これまで有望だとされていた藻類のボトリオコッカスに比べて、10~12倍の量の炭化水素を作ることが分かった。

 研究チームの試算では、深さ1メートルのプールで培養すれば面積1ヘクタールあたり年間約1万トン作り出せる。「国内の耕作放棄地などを利用して生産施設を約2万ヘクタールにすれば、日本の石油輸入量に匹敵する生産量になる」としている。

 炭化水素をつくる藻類は複数の種類が知られているが生産効率の低さが課題だった。

 渡邉教授は「大規模なプラントで大量培養すれば、自動車の燃料用に1リットル50円以下で供給できるようになるだろう」と話している。

 また、この藻類は水中の有機物を吸収して増殖するため、生活排水などを浄化しながら油を生産するプラントをつくる一石二鳥の構想もある。(山本智之)
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by ogawakeiichi | 2010-12-15 14:25 | サイエンス

生命記憶

f0084105_1125239.jpg以前、三木成夫の「胎児の世界」をアップしたことがあったが、そのなかで彼は「生命記憶」ということを唱えていた。

そこに書いてあったのは、日ごろはさほど、気にもとめないのだが、当たり前だが、僕ら人間も生物の一員ということだ。

そう考えると、ぼくらの生命史は36億年前にスタートし、5億年におよぶ脊椎動物の進化の過程のさまざまな記憶が、身体、行動や思想の背景に深く刻み込まれてることになる。←地球史では46億年。宇宙史では137億年。

この生命史で形成されたであろう記憶を、解剖学者である三木さんは「生命記憶」として説く。

※人間の脳は「脳幹の部分にあたる爬虫類脳」と、大脳旧皮質・古皮質など大脳辺縁系と呼ばれる部分にあたる旧哺乳類脳と、大脳新皮質にあたる新哺乳類脳<あるいは人間脳>に分かれてる(ポールマクリーン、脳の三層構造仮説)。

ぼくらは生きるということを、自分の身体の半分でしていることがいかに多いことか。

人と相対するとき、仕事に向かっているとき、あらゆる場面で意識は自分の前方へ向かっている。

未来という感覚に対しても、未来は自分の前に開かれ、輝く光に向かって進んでいくイメージで生活している。←ときには、引き篭もりになりたいことも、あるにはあるが・・・

では、後ろはどうかといえば、どちらかといえば闇のイメージでもある。←う~ん,ゾロアスターか

そうすると、われわれ人間も、集魚灯に集まる魚や、ミジンコが光に集まってくるのと同じ感応をしつづけているのだ。←夜行性も多いが、夜行性といっても街のネオンに惹かれていく。

ぼくらは前に一歩を踏み出せば、後ろには足あとが残っていく。

この足跡によって、自分という存在が過去を拠り所にして、あるいは過去の歴史に支えられていきてきたのだということに気づかされる。

過去に意識を振り返ってみることで、さまざまな「ことば」や、いろんな出来事を成り立たせている存在が重層的にひっそりと寄り添ってきたしていることに気がつく。

たとえば、“なめまわすように見る"という言葉だ。これは、赤ん坊に「なめる」という舌をつかった触覚的な行為から、「見る」という眼に良えう視覚的な行為、つまり舌と眼による二つの感覚が、このことばの内側で重なり合っている。
f0084105_1046539.jpg

↑おいらの携帯を舐め回す、小川隼世3世

“腑におちるということば"の意味は、よくわかったということだが、これは頭で理解するというより、身体全体で納得したということを示す絶妙な表現でもある。

赤ん坊が“はいはい“を始めるころ、身近なものから手にとって、まず口に運んで「なめて」いる。我が家では畳の上を這いながら畳の目をなめまわしていた。

つまり人間は、生まれてまもないころには、単にものを見るだけでなく、なめて、かつ見ているのである。むしろ舐めるということを通して、もののカタチを認識していたのだ。

「のどから手が出る」という言葉だが、その思いはカメレオンの時代、両生類、爬虫類の記憶に辿りつく。

舌は体内に潜む内蔵の最先端である。内蔵の一番先が舌として露出し、この先端部分が生存のためにものを食べる器官、つまり捕食に必要なてとなり、食物を取り込む触覚や味覚に相当する舌のような役割をしているのだ。

この進化の深い記憶を、霊長類としての人間が知らずしらずうちに「のどから手がでる」という言葉に結晶させたのだろう。

「なめまわすように見る」、「のどから手がでる」というこうした表現は、単なる思いつきではない、人間の生命としての歴史の中で培われた根源的な感覚の表れなのである。
(参考資料:杉浦康平/多言語的なアジア)
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by ogawakeiichi | 2010-11-25 10:43 | サイエンス

サブリミナル インパクト

f0084105_5283737.jpgブランドを考えるうえで、政治的メディアリテラシーを考える上で、サイエンスの香ばしさを漂わすプレゼン素材としても知っておいても損はない。ぼくらは、広告やメディアでながされる作為、無作為での外的な操作や誘導にさらされている。そのなかでも最も抵抗しにくいものが無意識のプロセスへの介入だ。。

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「あなたはCMや広告の影響を受けていますか」とあらたまって訊かれたら、九五パーセントの人はノーと答えます。「不愉快だから」とか「信用できないから」などと言って。しかし実際、高いブランドイメージを保ってきた会社が、CMの新作で犯したわずかなミステークのせいで、あっという間にマーケットシェアの大半を失ってしまう。それも商品そのものの質や競争力は変わらないはずなのに。そんな例は数限りなくあるのです。(下條信輔『サブリミナル・インパクト』ちくま新書 2008年 pp.156-157)
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朝日新聞より

■無意識の認知が社会のうねりを生む

 コカ・コーラはあらかじめブランド名を知って飲むと脳のある部分が活動するのに、ペプシだとさほど反応しない。ペプシは脳科学的にもブランド戦略に失敗している――そんな衝撃の研究が発表されたのは04年。人間の経済行動と脳の働きを結びつけるニューロエコノミクスは大流行し、一般向けの解説書も気軽に読める時代になった。

 人間の脳のクセがクリアに説明されるほど、しかし私たちはもやもやと居心地の悪さを覚える。すっきりわかりやすい脳の本の洪水に息苦しさを感じる読者は本書の眼差(まなざ)しに希望を見いだすだろう。著者単独書としては実に9年ぶりとなるが、その問題意識にブレはない。むしろ21世紀に入り現実性を増している。

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by ogawakeiichi | 2010-06-14 05:13 | サイエンス