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彩遊記

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カテゴリ:身体性( 14 )

「和」の身体作法

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ご近所の娘の同級生が弓道日本一になった。その勢いで先週パリで行われた世界弓道選手権で世界一に輝いた。母親の話では、指導者なしで一人で練習しているらしいが、弓道は奥が深い深いといいながら明けても暮れても弓をひいていたらしい。

『日本の弓術』を書いた大正時代、日本に滞在していたオイゲン・ヘリゲルは、弓聖“阿波研造”から弓の稽古に呼吸を指摘され、丹田呼吸を教えられる。

丹田呼吸とは呼吸によって力の中心を「重心」、すなわち核コアの位置に重心を下げ、力の中心と体の重心を一致させる。世阿弥はそれを「万能を一心にてつなぐ」と云った。なおここでの“心”とは「芯(コア)」のことだ。

身体をあらわす和語には「からだ」と「み」がある。からだは「殻」であり、空である。筋肉でいえば表層筋。わたしたちが日ごろ意識している筋肉になる。ところが表層の奥には、深層の身体が隠れている。その深層の身体が「み」である。

「から」の中に詰まっているもの、それが「み」なのだ。その「み」が充ちた状態を「充実」という。

体幹トレーニングやコアトレーニングという言葉が、周囲で妙に流行っている。体幹を追い詰めていくと、その本来は“深層筋”であって深層筋の代表は上半身と下半身を結ぶ重要な役割ももっている“大腰筋”だ。大腰筋と呼吸には和の身体作法が詰まっている。

さて、アリーナのトレーニングルームへ出遊!
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by ogawakeiichi | 2014-07-29 11:25 | 身体性

身体性のメモ

•息…呼吸法(腹式呼吸)
•呼吸法の目的は、「調息(呼吸を意識的に整える)」によって、「調身(体を整える)」、さらには「調心(心を整える)」ことにある。

●息を吐くことに意識を集中。口から、細く長く息を吐き出し、同時に、体や心から不必要なものを吐き出すようにイメージ。息を吸う時間の倍かけて、息を吐き出すのがポイント。心身共にリラックスできる方法。最適なのは、朝起きて太陽を浴びながらと、夜寝る前。1日2回以上、1分でも5分でも、リラックスできたと感じる長さで続ける。


•食…食事療法(玄米菜食など)
東洋医学では食が体をつくる。重要視するのは排泄。便秘の解消につながる食事が基本。
●玄米や胚芽米、麦など(精白されていない穀物)を主食とし、緑黄色野菜や豆類・キノコ類・海草を中心として、味噌・しょうゆ・納豆などの発酵食品を組み合わせた食事内容で。体質を改善するのに向いているたんぱく質は、納豆、大豆、豆腐、魚やシジミなどの貝類から摂る。「一物全体(丸ごと食べる)」と「旬の物を食べる」ことも重要


●体…ビワの葉温灸、スワイショウ(中国式体操)、マッサージ、気功東洋的な運動、「動」的な養生の目的は、毛細血管や静脈からスムースに心臓に戻すこと、多くの二酸化炭素を吐き出すことです。つまり「環流と排泄」を重視。

「静」的なものとしては、皮膚やツボを通して体に刺激を与えること。「ビワの葉」を組み合わせることで、血液浄化作用、鎮痛作用の効果。
太極拳
気功
ヨガ
西式健康法
操体法 など

鍼灸(ツボ刺激)
指圧
あんま
温泉浴、足浴 など

●心…瞑想など
自然治癒力を発揮するためには、潜在意識(無意識)という土を豊かにすることが重要。「療養の樹」が花咲き、実をつけるためには、豊かな土に心という根をしっかり張ることが必要。潜在意識から得た栄養が、心を通って、体・食・息という幹を太くする。そうしてはじめて、「治療」の結果が出る。

自分自身の体と心、魂の存在や、それらの相互作用のしくみを理解するために行う。外部からの邪魔を受けない空間を用意し、静かに座って、浄化をイメージし、吐く息の長い呼吸をして心を落ち着ける。1日1~2回、1回あたり15~20分が適当。歩きながら行う「ウォーキングメディテーション」もあり。
ほかにも…
カウンセリング
アートセラピー(陶芸など)
笑いセラピー
自律訓練法
祈り
サイコセラピー
カラーセラピー
ミュージックセラピー
座禅
内観
写経
書道、華道、茶道、香道 など
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by ogawakeiichi | 2012-08-21 13:01 | 身体性

身体感覚

f0084105_4552569.jpgあるスポーツの緩やかなチームのトレーニングに参加した。

とはいっても桜島マグマ駅伝準優勝のメンバーを中心とするトライアスロンのグループなのだが、ワタシの場合、そんなレベルにろうという思いはない。

というより、年齢的に身体がついていけないのだ。ただ、マラソンを少なくとも4時間切りを久々にしたくなり、以前のトライアスロン師匠の門を叩くことにした。

なぜ再びトレーニングを再開したかといえば、駅伝を走ってみて体力の衰えの痛感だ。以来、筋トレを開始して半年が経過、身体はすこぶる調子がいい。

しかし長距離のマラソンとなると、師匠につくことはとても重要である。

なぜなら、そこには師の記憶にある様々な場面や様々なタイプの人間を想定した方法が満載しているからだ。

自分の身体を流れていく時間に合わせ改造していくための指導者がいるということは心強い。

齋藤孝は、著書『身体感覚を取り戻す』のなかで、とくに、立つ・歩く・座る。こうしたことは、日常的な行為の姿勢の大切さを説く。

しかし、きちんとした姿勢で長時間すわったり、あるいは立ち続けたりすることは、それほど容易ではない。

我が師匠はまず背筋をみて身体の歪みを指摘、次にランの手の振り方についてのクセを的確に指摘した。これは自己トレでは到底気がつかない。

自然体と言う言葉を聞いたことがあると思うが、自然体とはしっかりと地に足がついており、その大地との繋がりの感覚が腰と肚につながっている。上半身の無駄な力は抜けていて、状況の瞬時の変化に柔軟に対応できる構えになっている。

武道・芸道においては、その人の立ち方を見ただけで力量をある程度推し量ることができるとも言われている。中学、高校時代剣道をやっていた頃、構えを見ただけで勝負はついた。

自然体の中心をなすのは腰と肚である。かつての日本人は腰と肚に対して意識を払っていた。

自然体は、なんとなく立っているのではなく、強靭な足腰によって支えられているのだ。
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by ogawakeiichi | 2012-05-25 16:37 | 身体性

自己の身体性について

昨年、鹿児島トライアスロンクラブだった当時の師匠の引いたトリガーで、再び、自分自身の身体を見直すことになった。 

現在、スサラという名のスポーツNPOを立ち上げ自分の理論を駆使しながら、アマチュアでありながらも、ホンマもんを創ろうとしている師匠だ。

ここ最近、デザインついて、フィールドワークや観察力、網羅力など身体性の重要さを解きながら、ついつい自分自身の個(身体)については抜け落ちていた。

昨年、11月、お祭り程度のレースとはいえ、師匠の気楽に出てみればというトリガーで、たった2キロとはいえ20年ぶりのレース参加。バテバテだった。

それ以降、再び筋トレとジョギングを再開し4ヶ月を過ぎた。
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桜島マグマ駅伝に参加。タイムは思ったように伸びなかったのだが、自分的には、なんかいい感触。。

ここで宣言、目標は来年年明けの菜の花マラソン3時間50分だ!。

まあ、宣言しとけば、言霊力・・
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by ogawakeiichi | 2012-04-10 11:35 | 身体性

芸術と抽象と身体性

f0084105_662387.jpg土方巽をはじめてみたのは、全共闘の熱気さめやらぬ、法政大学の大学祭でのことだった。全身白塗りの身体でシンセサイザーの音に乗り踊る姿は、恐ろしく衝撃的で見てはいけないものを見たような気分であった。

舞踏家、土方巽は舞踏譜というものを記述していた。舞踏譜とは、舞踏を踊るための譜面である。彼の舞踏は即興ではなく、すべて譜面に基づいて踊られていた。しかし、その舞踏譜というものは、たいてい絵や詩が書かれたものだった。その絵は彼が書いたものではなく他人が描いたものだ。その絵に詩がつけられ、さらに絵と絵が詩によって結びつけられていたりする。土方巽は、それを見て舞踏という身体表現をしていたのだ。

絵というものはすでに抽象度の高いもので、言語というものは比較的抽象度の低い表現方法であり、詩は通常の言語表現に比べれは比較的抽象度が高い表現形態である。このような抽象度の高い存在と抽象度の高い存在とを結びつけ、的確に理解するにはこれ以上に高い抽象度でモノやコトに対処する能力が必要である。

抽象度を上げない限り、それを譜面としてみることができない、単なる絵と絵、絵と詩としてしか見ることが出来ない。

つまり、土方巽という舞踏家は相当に高い抽象空間で身体表現を描いていたことになる。高い抽象度で舞踏譜を読み取ったあとで、身体表現という物理世界に落とし込めなければ実際に踊ることはできない。

抽象度をぐっと上げたあとで、もう一度、低い抽象度まで舞い戻り身体で表現しているわけだ。

舞踏家は皮膚の表面に白塗りをしている。これは、この白く塗ったところが自分の皮膚だということを強調するためだ。そのことで、皮膚の動きがクローズアップされる。白く塗った皮膚の動きだけで、抽象化された空間のすべてを表現するための増幅装置徒とも言える。

絵画表現も同様である。例えば、風景画を描くときでも一度抽象度を高めて自然を捉え、その捉えたものを今度は絵筆を使って身体で表現する。絵画の芸術性はどこにあるかと問われれば、絵画そのものにあるのではなく、絵を描いている身体の動きにあるのではないかと思われる。すなわち身体の軌跡が絵なのだ。

もう少し突っ込んで言えば、作者が身体をつかって表現しようとしている高い抽象空間を『観る』ということになる。

芸術とはすべてが身体表現だ。ところが一般の人が芸術作品をみると、その作品そのものが独立した存在としてみてしまう。しかし、本来は作者の身体的軌跡を作品に合わせ聴き、そして見るのが芸術なのである。←おもいっきり言い切り御免。
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by ogawakeiichi | 2011-05-10 06:16 | 身体性

意識の編集

モチベーションとかテンションとかいわれているものの正体は、脳内物質の仕業なのだが、その脳内物質のスイッチを押すには技がいる。

しかし、その技をくりだす前に、技を使う対象や対象周辺を網羅する必要がある。

常日頃から立ち向かう対象をつねに総ざらいして総力をあげ大量のものを頭の中を一旦通過しなければならない。

準備する質と大量の情報を浴びて新しい未知の世界へ向かう構えをとっていく。

身体をそこに晒し、大量にモノやコトを通過させていく。これは、量が質に変わる相転移させるためでもある。

相転移するぎりぎりのところが既知と未知の境界である。

「コツ」とか「ツボ」とか、「腑に落ちる」とかは、ここの通過をどれだけやったかで訪れる。

自分の「わかる」と「かわる」を発見したければ、まずは質と量の単位を変えることである。

そこへ向かうレース感覚をつねに修得しながら向かっていく。

ハチャメチャになる寸前に落とし所(ゴール)を複数に増やし、つぎに余分なモノを引いていく。

その引き方はその日の周囲の空気感とか、前後の配置とかさまざまな調子で選択して、最後のところで準備をやめその場に望む。本番5分前の意識や感情が重要だ。


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by ogawakeiichi | 2011-02-23 06:06 | 身体性

イキの仕業 2

いまこうやってパソコンのキーボードを打ち込む指の力(エネルギー)はどこから来ているのだろうか。いつ、どこに始まりがあり、それはどこへ消滅していくのだろうか。

この力とエネルギー、つまり運動の問題は深く尽きぬ謎に包まれている。

中国に古来からつたわる体操に、ごく簡単なリラックス法がある。それは、通常の自然体で立ち、両足は本の数センチひらいて並行にし、両手は自然に垂らす。次にゆっくり息を吸いつつ背伸びをする。少しそのままのポーズでいて、ふっと息を吐きながら体中の力を抜きつつ、腰をストンと床に落とす。

踵がストンと床に落ちた軽い打撃波が全身に伝わるかどうかで、その人がリラックスしているかがわかる。腰で止まる人、首まで止まる者、色々である。

それがうまくゆくと衝撃波は全身すっと頭頂までぬけていく。それは心地よい快感でもある。

古来から、各気脈、経絡をゆさぶり、身体を調える方法として用いられてきた。スポーツ選手がスタート前に肩の力を抜き、軽くジャンプしながら全身の筋肉を緩めている姿は、競技会などでよくみる姿である。

こういうスムーズな関係ーすなわち、流れが滞ることを『力み』という。

『力み』は、閉鎖系に陥り、エネルギーが滞った状態でもある。開放がない。もっといえば、全身、あるいは、その身体が置かれている環境との有機的な関係が失われている。

動きは波として伝播していく。ひとつの筋肉はうねってそれを次へつたえて沈むとまた次が隆起する。すなわち筋肉は波なのである。

もうひとつ、見逃せないのが呼吸である。呼吸こそ私たちの運動の原点である。複式にせよ、胸式にせよ、これもどこからともなく動きがはじまる筋肉の運動の原象である。

吸気は求心的に自己の内へ向かい、外界を受け入れつつ、それを内部で統合してゆき、呼気は一定の方向を以て外へ働きかけていく。そしてこの呼吸作用の律動の今、ひとつの局面は、それが通常の意図的は運動と異なって、意識的でもあり、無意識的でもあるということだ。

私たちは息を統御できるが、わたしたちも息に統御されているのだ。


参考:身体気流学・坪井繁幸
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by ogawakeiichi | 2011-02-15 06:57 | 身体性

ロルフィング

高田馬場ビッグボックス前の地下に位置する居酒屋で、その夜は、身体性についての話が縦横斜めと交差していった。

話は視線の視点から、ボディワークへと進んでいったのだがロルフィングをおしえてくれたのは、身体の揺れが止まらないままロルフィングのエクササイズを終わらせ駆けつけてくれた同期の桜だ。

ロルフィングとは緊張してしまっている筋肉を緩め、また逆に緩みすぎている筋肉は活性化させることで、専門的には「筋肉のトーナス(緊張度)を適正化」すると呼ぶ。

ロルフィングでは身体をゆるませるために二つの方法をもちいる。ひとつは手法によって結合繊維にはたらきかける方法。

もうひとつは脳神経システムに働きかける方法だ。

脳神経システムから緩ませる方法は、「脳をだます」「脳に意識させる」「ゆっくりした動きで命令を出す」「触れる」「筋膜ネットワークをつかう」である。

「脳をだます」とはある支えを作ること。自分はこんな姿勢をとっているんだよという情報を脳に、手すりや道筋をつけてあげ、おしえてあげることである。

振り返れば、ぼくが、トライアスロンをやっていたころ、あのバカ長い距離や時間をクリヤーするために、やっていたのもこの方法に近い。

これはいま鹿児島トライアスロン界の大御所、江夏理氏から口伝されたものである。

たとえば、スイムの場合はゴールまで続くチューブ管のなかを、リラックスして重力に逆らわず手のひらで水の固まりをひとかき掴んで、その瞬間だけ力を込めて、後ろ絵と押しやる。ひとかきごとにつかんで、後ろへと押しやる。その動作を繰り返す。

マラソンは、自分の左右にゴールまで張ってある2本のロープを掴んで、リラックスした身体を一歩、一歩と前に引っ張るイメージで腕をもって前進させる方法である。

上記は、脳をイメージでだますテクニックだが、ティッシュを奥歯で噛み前屈をすると通常より比較的曲がりやすいのも、神経系統をつかった高度な脳だましのテクニックだ。

身体を緩ますとき、緩んでいいよ、さらに、緩んでいいよと、唱え、利き手の人差し指をゆっくりうごかすとカクッとさらに屈折していく。

これは「静かなゆっくりした動き」にリラックスした状態をつくる神経である副交感神経が反応して、固まろうとするからだに対して「ゆるんでいいんだよ」と命令をだすからだと考えられる。



謝謝大家!
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by ogawakeiichi | 2009-09-17 09:55 | 身体性

芸術と抽象と身体性 (大元)

f0084105_759537.jpg土方巽をはじめてみたのは、全共闘の熱気さめやらぬ、法政大学の大学祭でのことだった。全身白塗りの身体でシンセサイザーの音に乗り、踊る姿は、恐ろしく衝撃的で見てはいけないものを見たような気分であった。

舞踏家、土方巽は舞踏譜というものを記述していた。舞踏譜とは、舞踏を踊るための譜面である。彼の舞踏は即興ではなく、すべて譜面に基づいて踊られていた。しかし、その舞踏譜というものは、たいてい絵や詩が書かれたものだった。その絵は彼が書いたものではなく他人が描いたものだ。その絵に詩がつけられ、さらに絵と絵が詩によって結びつけられていたりする。土方巽は、それを見て舞踏という身体表現をしていたのだ。

絵というものはすでに抽象度の高いもので、言語というものは比較的抽象度の低い表現方法であり、詩は通常の言語表現に比べれは比較的抽象度が高い表現形態である。このような抽象度の高い存在と抽象度の高い存在とを結びつけ的確に理解するにはこれ以上に高い抽象度でモノやコトに対処する能力が必要である。

抽象度を上げない限り、それを譜面としてみることができない、単なる絵と絵、絵と詩としてしか見ることが出来ない。

つまり、土方巽という舞踏家は相当に高い抽象空間で身体表現を描いていたことになる。高い抽象度で舞踏譜を読み取ったあとで、身体表現という物理世界に落とし込めなければ実際に踊ることはできない。

抽象度をぐっと上げたあとで、もう一度、低い抽象度まで舞い戻り、身体で表現しているわけだ。

舞踏家は皮膚の表面に白塗りをしている。これは、この白く塗ったところが自分の皮膚だということを強調するためだ。そのことで、皮膚の動きがクローズアップされる。白く塗った皮膚の動きだけで、抽象化された空間のすべてを表現するための増幅装置徒とも言える。

絵画表現も同様である。例えば、風景画を描くときでも一度、抽象度を高めて自然を捉え、その捉えたものを今度は絵筆を使って身体で表現する。絵画の芸術性はどこにあるかと問われれば、絵画そのものにあるのではなく、絵を描いている身体の動きにあるのではないかと思われる。すなわち身体の軌跡が絵なのである。

もう少し突っ込んでいえば、作者が身体をつかって表現しようとしている、高い抽象空間をみるということになる。

芸術とはすべてが身体表現だ。ところが一般の人が芸術作品をみると、その作品そのものが独立した存在としてみてしまう。しかし、本来は作者の身体的軌跡を作品に合わせ聴き、そして見るのが芸術なのである。

きのうエクササイズした、一年生の諸君。無意識から手へと伝えたあの感覚と身体のリズムを忘れんでおいてね。
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by ogawakeiichi | 2009-06-18 08:00 | 身体性

ヴィパッサナー

我々の人生が苦しいものになってしまうのは、事実をありのままに見ないで、思い込みや自己中心的な妄想で編集した世界を心の中に作り出し、それに対して嫌悪や不安、欲望、執着などの反応を起こすからだ。と原始仏教では考えた。

妄想で世界を編集、構成する行為は、デザインやアートの世界においての大半はそうである。それに対し嫌悪や不安、欲望、執着などない作家を除き、デザイン行為が行為者にとって苦を伴うため、自己合理化のための言動を散見する(アドバタイズデザイン界は特に多い・・)

2500年前にブッダが、不安、欲望、執着から抜け出すときに使った方法は、サマーディ(三昧)という名の集中する行為に留まることではなく、真実相をあるがままに見る観察と智慧、『ヴィパッサナー』であった。

悟りを完成してから45年間、ヴィパッサナー瞑想は「一切の悲しみと苦悩と憂いを消滅させる唯一の道である」と、ブッダは説き続けた。

モノやコトを組み立てていく行為の段階において、対象と対峙し、そこからそれを越えていく『ヴィパッサナー』は有効である。観察からくる『気づき』、(正確に言えば、気づきを観察する)、それは、あたかも求めていた鍵穴に鍵がパコッと当てはまる感覚だ。

 『気づき』によって、次の動作が変化してくる。 ・情報処理の仕方や解釈 ・意思決定のプロセス・定番となっている反応パターン、などが根底から組み変わっていく。まさに、新しいアートを生み出していく力そのものでもある。

この純粋観察の瞑想は,現在の瞬間をとらえるサティ(Sati)の訓練を中心に、「気づき」→「観察」→「洞察」のプロセスを踏みながら、「智慧」が発現するシステムに心を組み替えていく。

仏教において瞑想(漢訳「止観」)は、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分けられる。前者が心を静めることを中心とし、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法であるのに対し、後者では観察することを中心とし、釈迦が新しく開拓ししそれによって悟りを開いた仏教独自の瞑想方法とされる。

「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(サティ、sati、梵smṛti、英語mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である。

この「気づき」に頭のカーソルを向けるもっとも容易な方法は、言葉によって確認(「ラベリング」)し、「実況中継」していくやりかたである。


 「今は、今のことに集中しなさい。 頭の中から妄想を排除して、今の瞬間をあるがままに受け取めなさい」

謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-04-14 21:04 | 身体性