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彩遊記

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カテゴリ:南日本新聞コラム( 75 )

南日本新聞「彩遊記」最終回

オリンピックも宴たけなわ。鍛錬を積んだ選手の健康体が眩しい。なかには病を乗り越えメダルを勝ち取った選手もいて、共振する郷愁が胸に去来する。

わたしは17歳のとき、原因がはっきりしないネフローゼ症候群という難病にかかり入院した。ずいぶん前のことだが、鮮明に記憶にのこっている。

不意に襲いかかった病には投薬も効果がなく、症状はジリジリと不気味に進行していき、発病3ヵ月後には顔がパンパンに浮腫んでからだも全く動けなくなった。 

朝、目が覚めてもまぶたを開くことができない。なにぶん真っ暗闇で脱出不能の森に迷い込んだような精神状態だったことを思い出す。

当時はこれといった薬もなく、食事療法と絶対安静が一番と言われ、塩気の無い味気ない食事を食べ、浮腫んだ顔とからだでベッドに横たわり天井を見つめる生活が1年続く。

高校生活も留年になり上下関係の厳しい剣道部の後輩たちと同級生になってしまった。しかし、はじめはぎこちなかった関係も、現在も付き合う大切な友人へとなっていく。

「運動は再発の可能性があります」と主治医に剣道を止められ、ひょんなことから美術部へと入ることになる。そのことが今の仕事へと繋がっていく。

しかし、爆弾を抱えたような壊れやすいからだに注意しながら過ごしたはずなのに、2年後、恐れていた病が再発。わたしにも家族にも半端じゃない喪失感が襲ってきた。心身共に苦しみ疲れ、不治の病の恐怖から、ついに我が人生終わりかなとも思った。

しかし、幸運にもこのときばかりは薬が効いた。思いがけない早期回復。

世の中は、何が起こるかわからない。複雑で混沌としたカオスの状態。今日がだめでも、明日はわからないことを知る。

振り返れば、楽しいはずの十代後半は病との闘いだった。

大病、会社の倒産、監獄にぶち込まれる経験をすると大人物になるという。

私は残念ながら、大人物にはなれなかったが、大病以来、身体と精神に関しては人一倍の触手が動く。

完治後は、インドを彷徨し、呼吸法や禅をかじった。

完治の確認と身体の可能性を知りたくで、フルトライアスロンにチャレンジしてみた。

激動の中国では水墨画、太極拳をやりながら10年を過ごした。

思いがけない不条理な出来事が降りかかったとしても、恐れることはない。

不意打ちの事態にあい、その渦中にあっては身動きできない状態であっても、その人の抱く思いの強さのベクトルと、彼方からやってくる偶然との出会いによって未来が構成されているのではと思うようになってきた。

思春期を襲った難病の体験は、わたしの人生観や価値観に大きな影響を与えたことは間違いない。

「よせてはかえし」「かわるがわる」で、人生のポジとネガはいつもひっくり返っていく途上にいる。
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by ogawakeiichi | 2012-08-06 05:28 | 南日本新聞コラム

グローバル資本とアジアの面影

7月1日は農暦では「半夏生」という。農家にとってはこの日までに農作業を終えなければならない日とされた。

大陸から伝わった農暦・二十四節気は、春分、秋分、夏至など季節を表す言葉として用いられ、農事や神事などの決め事に使われた。

中国大陸では、正月の元宵節、先祖の墓を掃除する清明節も、建国記念日の国慶節も「農暦」で行事の日が決まる。

中国ではその日に家族や友人と食事をするのが慣わしだ。わたしの暮らした桂林でも、中国人の同僚や、水墨画の師匠に誘われ、食事をご馳走になった。

現在、日本に住んでいるわたしたちの食べ物の多くは海外からの輸入に頼っている。そのためか、農作業の目安であった「農暦」も「二十四節気」もいまでは影が薄い。

歴史を振り返れば、明治の初め、西洋に習い太陽暦を採用した。

文明開化の掛け声とともに産業革命からモノづくりが始まった。

次に、つくったものを売る時代から、消費者の満足を満たすモノをつくる時代へと移り変わっていく。

しかし、1990年代初め、右肩上がりでバブルといわれた景気が崩壊。

その頃からアメリカから「グローバル資本主義」の波が本格的にやってきた。

「グローバル資本主義」を、ごくごく簡単にいえば、国境を取り払い、人やモノや情報を自由競争させることだ。

そのため消費者にとっては安くて便利なものが手にはいるようになる。

しかしそれとは裏腹に、企業ではコストダウンやリストラの嵐が吹き荒れた。

百円ショップがはじめて現れたのもこの頃だ。

ディスカウントの店や量販店が出現し、いかに安く売るかの価格競争がはじまっていく。

勝ち組・負け組という言葉が飛びかうようになっていく。

当時、中国の陶芸を担う歴史に名高い「景徳鎮」を訪れたことがある。

人件費の安い工場では日本からの依頼で某有名産地の印が押された湯のみ茶碗を大量につくっていた。
現在、世界中に金融のネットワークや商品・流通のネットワークが網の目の世に張りめぐらされている。

社会主義や共産主義の看板を掲げているロシアや中国も例外ではない。

わたしたちが飲むコーヒーも、衣類も、その材料は、グローバルな自由競争の名の下に労働賃金の安い途上国でつくられている。

自由競争と言いながらいったいなにが自由なのか、これはこれですばらしい自由思想かもしれあいが、お金がなければ自由なんてありませんと言っているようでもある。

加えて世界は、高度なネット情報社会になった。便利で自由なったのとは裏腹に、あらゆるものが登録され管理されていく。位置も身元もばれていく。

窓を伝わる雨粒を眺めながら古き良きアジアの浪漫と、四季の移り変わりで分を知る生活していた人々に思いを馳せてみると、なにやら胸に詰まるものがこみ上げてきた。
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by ogawakeiichi | 2012-07-01 10:29 | 南日本新聞コラム

旅で多様な価値を知る

縁あって二十代前半に訪れた海外の街や風景を描いたスケッチブックを取り出した。

ベイズリー文様のインド更紗を貼りつけた手作りの表紙は、一緒に旅をした連れ合いがつくってくれたものだ。

表紙を広げると、紅茶色に変質した紙に描かれたインドやネパールの煤けた景色がある。

人物は風景の隅っこに描かれ、主役は景色、脇役は家々で、そこに人々が溶けこむように描かれているものが多い。

そのなかでも珍しく街の雑踏を描いたものがあった。

インドの中心部ベナレスの街だ。まだ、海外用のガイドブックのなかった時代だ。唯一頼りになったのが、「アジアを歩く」という本だった。

ここに書かれた一節にガツン!とやられた。
「激烈なる大地に対抗するために生まれた、激烈なる宗教の聖地といえば、激烈なることは当然であろう」。この言葉に惹かれてこの街を訪ねることになる。

はじめての場所は、いつも新鮮な刺激をもたらしてくれる。とくに異国はインスピレーションの宝庫である。

わたしの旅へのきっかけも、興味の対象もひょんなことに始まり、ひょんなことで変化してきた。

高校二年の冬、体調を崩し診察してみると難病に冒されていた。

病状は悪化するばかりで一時は生きるのさえ辛かった。

特効薬はなく、治療法といえば、絶対安静だけ。 

ある日のこと、動けないからだで、病室の天井を見ていると、天井のシミや凹凸が風景にかわり、時間とともに刻々と変化していった。

冷静に考えれば、わたしの脳が、太陽光線によって変わる天井を、都合よく風景のイメージに変えていただけのことだろう。

生命への希望がそうさせたのかもしれない。

入院は一年以上続き、結局留年することになる。多感な一七歳の出来事だった。

はじめて旅に出たのは、上野駅から青森を経由して青函連絡船に乗って行った北海道だ。病室で見た幻覚が北海道に近かったような気がしたからだ。

以後、まだ見ぬ風景を求める旅がはじまった。日本を巡り、アジアを巡った。

興味の対象は風景から次第に、生活や文化や人間へと移っていく。

わたしたちとは違う価値の思考や生活文化に興味が湧いた。

中国の民のなかで十年を暮らしてみた。自分たちのいる場所が中心ではない。世界に中心などなく、世界は多様で多彩なことが腑に落ちた。

海外での生活を契機に「日本とはなにか」を考えるようになった。帰国後は、日本やアジアの歴史を振り返った。

その最中のことだ。震災と原発事故が母国・日本を襲った

私たちは今、どのような文明を選ぶのかの正念場にいる。

自分の身体を使って、日本とアジアを歩き、暮らした記憶から「母国・日本」をそろそろわたし自身の方法で、きちんと語る時期が来たのではとも思っている。
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by ogawakeiichi | 2012-06-02 13:43 | 南日本新聞コラム

五感通してモノづくり

ある寄り合いでアヤシイ小川さんとアヤシイを枕詞に付けられ紹介された。ある会合でミニ講演をした際も、ナゾの男と枕詞をつけられた。

一般的には肩書きのない名刺を使っていたのだが、世間はなかなか許してくれない。

肩書きのないのは、ヤクザか政治家みたいですねとよく言われる。

大学講師の肩書きは、世間には受けがいいのだが、非常勤なので、この肩書も本人的には座りが悪い。

ときに世間受けするデザイナーの肩書きをつけているものの、もっぱら、コンセプトと方法論に終始して、実在するかたちが残らない仕事が多いので、これでもない気がする。

「ここはデザインする必要などないですよ」などと、ビジネスにはならない言葉を口走り、経理担当に怒られることもある。

デザインとは、カタチあるもの、たとえば印刷物の図案を書くグラフィックデザイナー。建物の設計をする建築デザイナーなどを身近に思い浮かべる人が多いだろうが、どちらかというと、私のほうは、土地を流れる時間と背景を感じ取り、そこにモノや仕組みを繋いでいくための企画書づくりや、一緒に仕事をしてくれる仲間に向けて、仕様書を書くことが多い。

デザイナーというより、郷土やアジアの歴史を読み漁り、フィールドワークにあけくれる裏方稼業だ。

昨日は、アジアからの旅行客の増加にともない、食事の不安を取り除き、トラブルのないように、中国語や韓国語を母国語とする留学生とともに、老舗・黒豚料理の店に陣取り、鹿児島黒豚の歴史を紐解きながら、日本語で書かれた品目を、中・韓・英語へと訳していった。

私たちにも、経験があると思うが、注文した品物が、目の前に並び、イメージしたものと違ったときの食い物の恨みは恐ろしい。アジアから鹿児島を訪れた客に、‘鹿児島ブランドとは何か’が伝わるよう、品々をひとつひとつ吟味しながら海外からの旅行者になりきって、しっくりこないところは、インタビューしながら訳していく根気とチームワークのいる地道な作業であった。

モノやシステムをつくっていくうえで私が大切にしているひとつに、インタビューを含む「観察」がある。

大学での授業の関係から文化人類学を専門とする先生方と同席する機会が増え気づいたことがある。文化人類学と、私の物事へのアプローチに共通しているものがある。

‘わたしとあなた’‘企業とお客様’など二項対立の姿勢に分類するのではなく、世界を‘主と客’に分けないで、五感を通して感じ取ったことから、モノや仕組みをつくり、試しながら修正していく方法である。

偶然にこの「彩遊記」の前、ユーモアの利いた「日中往来」を連載されていた陳耀さんも同席された。聞けば彼も文化人類学を専攻していたという。

ときに日本と中国の、見立ての違いはあるものの気持ちのよい時間が流れていった。
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by ogawakeiichi | 2012-05-06 16:48 | 南日本新聞コラム

古代人に芽生えた心

中国の最初の王朝は、「殷」である。殷は黄河の中流に興った古代都市で、またの名を「商」と呼ぶ。

この王朝が「周」に滅ぼされ、国を追われた人々が、生活の糧を求めて各地で貿易や流通を担うようになった。後にそれらの仕事を「商業」と呼ぶ。

この「商殷」の時代に現在の漢字のルーツである甲骨文字が生まれた。

甲骨文字は亀の甲羅や、牛の骨に占う内容を刻み、それを火で炙り、骨のひび割れパターンから吉凶を占った。  

神秘的な言い方をすれば、神との交信に使われた。

能楽師であり、古代中国にめっぽう詳しく漢和辞典までつくった安田登さんの話を聞く機会があった。

安田さんは「身体感覚で論語を読み直す」という本を書いた。テーマを丸呑みする感覚で時代に入り込み読み解いていく。

彼によると、「心」という漢字は孔子が活躍する500年前まではこの世に存在しなかったという。

「心」が出現したのは王朝が「商殷」から「周」へと変わる、今から約3000年前だという。

それより以前の甲骨文字や金文には「心」という字が存在しない。

現在日常生活で使う常用漢字は、約2000文字。「商殷」の時代に存在した漢字は、現在使われている数の倍以上もある。

それなのに古代中国では「心」や、思・惑・悔・慕など「心を示す部首」をもつ字が、ほとんどないのだ。

では「心」のない時代、人間はどうやって思考したり、判断したりしていたのだろうか?
答えは、な、なんと…「神」が命じたように生きるのである。

「神々の沈黙」を書いた心理学者で考古学者のジュリアン・ジェインズは、統合失調症の人の心の状態を徹底的に観察した。

その結果たどり着いたのが、古代人は「心」のないまま、神の命に従っていたのではという仮説であった。

古代の人の心の中は二つに分かれていて、一つは命令を下す「神」とよばれる部分。もう一つはそれに従う「人間」と呼ばれる部分があり、それらを意識することなく生活していた。

ところが、商業や交易が発達し、自然の環境が大きく変わるにつれて、いつのまにか、神に占う必要がなくなった。神々との交流が少なくなった。それに伴い古代人の脳のなかに「心」が芽生えていった。

ジュリアン・ジェインズによると、「心」が生まれたのは3000年前だという。

これは偶然にも古代中国で「心」という文字が出現した頃と一致する。

デザインの現場において、対象を徹底的に観察し、自分の身体が対象と同化する感覚までなったとき、これまで思いもつかなかった新しい発想が生まれることがある。

古代人の「心」の真偽はさておき、安田さんも、ジュリアン・ジェインズも、観察と古代に入り込む身体感覚からのアプローチには、理屈では計り知れない何かを感じるのである。
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by ogawakeiichi | 2012-03-04 18:35 | 南日本新聞コラム

徐福伝説と里山と冠嶽

f0084105_1649362.jpgいちき串木野市にある冠嶽を散策した。

西岳の山頂からは東シナ海、薄っすらと開門岳、桜島が望め、眼下には、深緑色の奥山から里山へと連なる日本の風景が見渡せた。

山岳信仰のある冠嶽は嶽と里山をめぐる「おへんろみち」があり、山中にはお寺や神社、神様を祀る小さな祠が点在する。

祠のなかには両手でクサリを掴み、足元に全神経を集中させて登らなければならない岩場もあり、やんちゃな頃の冒険心が甦る。

ふもとの徐福の里にはチャイナモード満載の家屋と庭園の「冠嶽園」がある。

ある日の昼下がり、コスプレモードの女の子たちが中国風の建築をバックにミニ撮影会をやっていた。

冠嶽は、徐福が秦の始皇帝の命を受け多くの子供と技術者を伴って、不老長寿の薬草を求めてやってきたところといわれ、真言宗・鎮国寺への登り口には日本一の大きさを誇る徐福の像が故郷をしのぶがごとく、東シナ海を向いて建てられている。

徐福渡来の物語は、佐賀県武雄市や和歌山県新宮市などが有名だ。伝承は日本だけではなく韓国にもある。

様々な場所に伝承が残っているのは、徐福の集団が移動しながら分散していったのかもしれない。

さて、徐福とはいったい何者だろう。なぜ、いちき串木野市周辺に徐福伝承があるのだろうか?

ひょんなことから、この謎を求めて、徐福を追うことになった。

なにしろ徐福が来たのは2200年以上も前のことで、まったく手がかりがない。

フィールドに出て、観察してうわさを聞いて資料に当たり直感からイメージをつくり、デザインを立ち上げていく方法で、2200年前にやってきたであろう徐福の気持ちになってみることにした。

徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)に生きた方士だ。

方士とは、仙人のことで、様々な術の使い手だ。術を現代のことばに置き換えれば、さしずめ東洋のサイエンティスト。

徐福集団は食物や酒、鉱物、漢方の知識はもちろん、当時の学問である陰陽五行や風水学の使い手でもあったはず。

陰陽五行や風水学は、世界を構成する要素の循環と、大地の氣の流れから土地の吉凶禍福を決める古代中国思想。平たく言えば、現在の環境学や地政学、地質学といったところだろうか。

徐福の古代サイエンティスト集団は、冠嶽から川が流れ、里山が嶽を囲むという風水の理想的な姿を海から眺め、土地のもつパワーと、そこでとれる良質の幸の恵みを感じとったのかもしれない。

徐福の船団が着いたとされる照島の神社には、よくよく調べてみると、秦の始皇帝とのつながりを示すかのような「秦氏の氏神」と、徐福を暗示するかのような、医薬・穀物・お酒の神も、他の神様に混じり祀られていた。

徐福ロマンにとり憑かれ、ほぼ一年。最近では海岸から仰ぐ冠嶽が、なんとピラミッドパワーを放つ山にもみえてきたのである。(笑)
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by ogawakeiichi | 2012-02-04 16:49 | 南日本新聞コラム

弥勒菩薩

はじめて韓国・ソウルを訪れたとき、私の眼に焼き付いたものがあった。  

国立中央博物館にある弥勒菩薩像だ。

特別展示室には、淡い光の中、片足を曲げてもう一方の足の上にのせた半跏の姿勢で、手の指を頬に当てて考えを巡らす思惟のポーズをとった半跏思惟(はんかしい)と呼ばれる姿があった。

選びぬかれた気品漂うこの大韓民国・国宝を、美大生とおぼしき二人の女性が、とり憑かれたかのように、じっと見つめていた。   

静粛が漂う薄らあかりのなか「アルカイク・スマイル」とよばれている表情の美に魅了されていたのかもしれない。

ひるがえって、京都にある最古の寺院、広隆寺には、ソウルにある弥勒菩薩とほとんどおなじ姿をした日本の国宝第一号でもある弥勒菩薩像がある。

奈良時代、朝鮮半島から海峡を越えてきた仏師が日本でつくったものなのか、もしくは、韓国から持ち込まれたものなのかはわからない。

弥勒菩薩は、仏陀入滅後、56億7千万年後、人々を救うため末法の世に降りてくると言われている。

一方、朝鮮半島にあった新羅の、イケメン軍団「花郎(ファラン)」は、弥勒を信仰することで、弥勒の住む世界へ往生できると信じていた。

弥勒菩薩は様々に表情を変え、沖縄ではミルク神とよばれ、中国では布袋様にもなった。

その起源をたどれば、古代インドの「マイトレーヤ」。そのまた先には、中央アジアにはじまった「ミトラ神」だという説までたどり着く。

ミトラ、マイトレーヤ、ミロク。なんとなく発音が似ている。

アジアの地図を九〇度時計回りにすると、日本は一番下に位置するパチンコ台の受け皿のようだ。    

古来よりユーラシア大陸の文物はシルクロードから、東シナ海を渡って、私たちの住む日本列島に流れ込んだ。

在来の神様と、海を越えてやってきた神様が融合してきた。

身近な例では、薩摩半島の南西に位置する野間岳の山頂には、かって中国生まれの「娘媽(ろうま)神」よばれる航海の神様と、在来の日本の神様が祀られていた。

大陸を出た船は、まず野間岳を目指してきたという。きっと、野間岳のノマは「娘媽(ろうま)」からきたのかも知れない。

日本は明治維新以降、西洋文明を享受して物質文明を謳歌してきた。

しかしそれは3.11の大震災以来、どうも、行き詰まりを見せている。
現在、日本もアジアも世界までもが歴史的な転換点にさしかかっている。

悠久の歴史という時間のなかで醸造されてきた日本の感受性を取り戻すべく、私たちはアジアの

深層を流れてきた何かから学び直してもいいのかも知れない。

弥勒菩薩や娘媽などの神様が共有した東シナ海の道、千年を越えて携えてきた時の流れに、この国の未来へのヒントかあるのではないかと、そんな気がする。

野間岳の山頂にのぼってみると、神様たちの面影はなかったが、東シナ海を航行する大小多くの船が眼下にみえた。
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by ogawakeiichi | 2011-12-03 21:49 | 南日本新聞コラム

「黄興」

中国の都市には必ずといっていいほど、中心街には「中山路」という大通りがある。この名称は「中国革命の父」と呼ばれる孫文の別名、孫中山に由来する。彼は20世紀初頭、それまで中国を支配していた清王朝の衰退を憂い、辛亥革命を起こし、新たな国家の建設に立ち上がった人物だ。 
                                        
中国では孫文というより孫中山という呼び名のほうが一般的だ。日本に亡命していた時期に、「中山」という日本の苗字が気に入り自分のことを孫中山と名乗ったらしい。孫文は多くの人を惹きつける魅力のある人物だった。革命や亡命の資金は熊本の士族である宮崎滔天、長崎の梅屋庄吉(日活の創始者)など九州にゆかりのある人々が援助していた。

今年はその孫文が辛亥革命を成し遂げて100周年にあたる。ジャッキー・チェンが孫文の同志「黄興」を演じる映画「1911」の映画も公開された。余談だが、「黄興」が孫文の片腕となって辛亥革命を成し遂げたのも、宮崎滔天がふたりの仲をとりもったからだ。歴史に「もしもはないが、九州人によるふたりの引き合わせがなければ辛亥革命は成功しなかったかもしれない。

先日開かれた「日中友好を語る鹿児島シンポジウム」のパネルディスカッションでは、作家の石川好氏の巧みな紡ぎで、県知事、鹿児島市長、JR九州社長、長沙副市長、北京・精華大学の先生らにより「黄興」のこと、東シナ海を巡る未来のことなどが語られた。

実は「黄興」は、ここ鹿児島と深い縁があった。「黄興」は鹿児島市の姉妹都市である湖南省長沙に生まれ、亡命期も含め5年半を日本で過ごす。一九〇九年には盟友である宮崎滔天とともに、鹿児島を訪れ、南洲墓地を参詣している。彼は「中国の西郷隆盛」を自認するほど、熱烈な西郷のファンだった。

鹿児島市日中友好協会の海江田順三郎は「鹿児島市と長沙市が友好都市を締結した後、たまたま黄興もまた、長沙の出身だということがわかった。きっと見えない縁で結ばれていたのでしょう」と話していた。シンポジウムのあと、眼前に桜島がどんと腰をおろす風光明媚な南洲墓地を訪ねてみた。

鳥居をくぐると、右手に鹿児島市と湖南省長沙市の友好都市締結25周年を記念して碑が建ち、黄興が西郷の墓前で詠んだ詩が陶板に焼かれていた。

東シナ海をとりまく交通のインフラの発展は、めざましい。鹿児島―上海の航空便は週4便。九州新幹線全線開通。福岡と釜山の間には高速艇が行き交い、釜山からソウルへは高速列車が2時間半で結ぶ。インフラも整備されたいま、明治の末期アジアを舞台に活躍した先人たちに学び、東シナ海を巡る沿海地域と歩調をあわせ、その経験を中央へ繋げていく時代が来たのかもしれない。朝のワイドショーでは相変わらすTPP参加の是非で揺れていた。
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by ogawakeiichi | 2011-11-10 12:39 | 南日本新聞コラム

遊牧の民

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鹿児島大学の集中講座で訪れた内モンゴルの草原はすばらしく空が高く、澄み渡っていた。

太陽の光はまぶしいが、肌に触れる大気はすがすがしい。草原のなかに突然あらわれたオレンジ色をした水面の塩湖と、その近くにある工場では、真っ白な塩が舞う中、顔つきだけでは漢族ともモンゴル族とも見分けのつかない人々が働いていた。

現在、モンゴルは2つの国に分かれている。第2次大戦のあと、一方はソビエトの影響下に入り現在はモンゴル国(外モンゴル)となり、もう一方は内モンゴルとよばれる中国の自治区となった。

どこまでも続く草原地帯が、国境の存在を忘れさせてくれるのか、外モンゴルと内モンゴルの関係は、朝鮮半島のように南と北が対峙する緊張関係ではなさそうだ。

古代よりユーラシアと呼ばれる地域では、農耕や狩猟に放牧が組み合わさり、そこを民が動いた。民が点として定住をはじめた都市と、面として動いた遊牧社会が構成されてきた。そこで活躍したのが、ノマドとよばれる遊牧民たちだ。

ノマドは夏と冬の居住地を変えながらたえず移動を繰りかえし、さまざまな土地で生活をはじめ、都市や国までもつくっていった。

もともと遊牧民の「遊」という字は、ぶらぶらと過ごすことではなく、動きまわることであり、出かけることだった。

甲骨文字を独自の方法できわめた白川静は、「遊」を、一族の守り神である旗をひるがえし、旅に出る姿だと読み解いた。

大陸の各地に分散する勢力を併合し中国の統一を完成させたのは、いうまでもなく秦の始皇帝だ。それまでは「東夷・南蛮・西戎・北狄」の遊牧系の諸国が、洛陽の盆地をめぐって攻防をくりかえしていた。

勝ち抜いた始皇帝はまた万里の長城も築く。明の時代になると長城は、シルクロードの要衝、嘉峪関まで伸びた。当時の支配者はなにがなんでもわが領土を囲いたかったのだろう。以前この城壁の上に立ち周囲を眺めたことがあるのだが、南へ向かって土の盛り上がりが細い一筋の線になっていた。

この程度の土盛りだけで大丈夫なのかとガイドに尋ねてみると、「馬が越えない高さです」との答えが返ってきた。

集中講座では、「モンゴル族」の暮らしも垣間見たのだが、ちっちゃな女の子までが巧みに馬を乗りこなしていた。

中央アジアに転々と出現した遊牧の民のルーツをさかのぼってみると、ヨーロッパとアジアの間にあらわれた騎馬民族のスキタイにまでさかのぼる。

日本人は、ウラル・アルタイ語族の末裔らしいが、どうやらユーラシアの草原を走り回った遊牧の民が一枚絡んでいるのかもしれない。
 
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by ogawakeiichi | 2011-10-01 11:47 | 南日本新聞コラム

フェアトレードと内モンゴル

昨年から、鹿児島大学留学生センター小林研究室で「フェアトレード」の非常勤講師として、授業を手伝っている。

近頃、やっと「ソーシャルビジネス」とか、「フェアトレード」という言葉を聞くようになってはきたものの、まだまだ一般の人までは浸透していない。

「フェアトレード」をごくごく簡単に言うと、「人と地球にやさしい貿易の仕組み」のこと。

現在、世界の所得配分をピラミッドにしてみると、世界の人口約70億人のうち、ピラミッドの底辺には40億の人がいて、世界の人口の3分の2は、一日8ドル未満で暮らしている。

「フェアトレード」はそんな社会的・経済的に立場の弱い人々の問題や、環境などの問題を含め、新しい経済秩序の仕組みを創ろうとしている。

しかし、そこには、利権あり、ニセモノあり、また思想だけが先走り、現実とはかけ離れた絵に描いた餅ありと、なかなか一筋縄ではいかないのだ。

これを理系、人類学、デザインなど専門分野の違う、さまざまな国籍(コロンビア、パキスタン、バングラディシュ、日本)の先生たちが、学生と共に考えていこうとする多様で多彩な留学生センターならではの授業でもある。

ところで、デザイナーのわたしに、なにができるのか、当初は悶々としていたのだが、発想を変え、これをデザインだと思い、とらえてみることにした。

まず対象となるモノや仕組みを観察して、キーワードを探す。そこから商品をつくり、流通の仕組みを考え、人と人が繋がる仕組みまでを考える「デザイン思考」という方法で、学生たちと「フェアトレード」にアプローチしてみることにした

話は一転するのだが、内モンゴルにおいて、砂漠化を防止するため、また、地域住民の貧困対策のため、緑化事業をおこなっている日本人がいる。

しかし、継続には資金がいる。そこで、目をつけたのが、内モンゴルの岩塩。その販売と普及をとおし緑化事業の継続と貧困対策という「人と地球にやさしい貿易の仕組み」だった。

8月中旬、留学生センターの小林先生を筆頭にフェアトレード海外研修の一環として14名の学生たちとともに、内モンゴルの現場を訪ねることになる。

研修は、現地に赴き、岩塩採掘現場を訪ね、その日本人が住民や行政と地域の人々と協力関係を築いていった方法などを観察して、マスメディアだけからは伝わりにくい異文化を体験しながら、見て、触れて、現場や流通をからだで受けとめ、フェアトレードを考えるというものだ。

鹿児島から福岡、青島、北京寧夏回族自治区の銀川を経由して30時間あまり、最初の現場である360度の地平が見渡せる岩塩採掘現場にやっと到着した。

内モンゴルの空は天高く青く澄み渡り、まぶしいぐらいに真っ白な筋雲が、筆のような痕跡を残していた。

 
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by ogawakeiichi | 2011-09-03 14:52 | 南日本新聞コラム