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彩遊記

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カテゴリ:南日本新聞コラム( 75 )

雪舟の一番弟子

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↑keiichi ogawa painting


薩摩半島の海岸線や海側に近い、地名や史跡をじっくり観察してみると、これまで気にも止めなかったモノやコトに、歴史のロマンを感じることがある。

薩摩川内には「唐浜」という海水浴場があり、川内川にかかる太平橋の下には「唐渡口(ととんぐち)」と呼ばれる場所がある。

この地名に、ググッと近づき想像力を全開させ寄り添ってみると、7世紀、中国大陸にあった唐王朝からロマンが飛来し、東シナ海を舞台に想像以上の人や物の往来があった気がしてくる。

当時は国境の概念などなく、多様で多国籍な人々が船を操り、東シナ海を跋扈していたのではないだろうか。そんな気がする。

唐芋(からいも)の原産地はメキシコやペルーなど中南米だが、唐芋という名前から想像すると、太平洋の彼方から中国大陸経由で、鹿児島へと伝わって来たのだろう。その唐芋が、加工され鹿児島の特産品であるイモ焼酎が誕生している。

ボンタンは、中国人「謝文旦」が阿久根に伝えたと言われている。

串木野には、約二千二百年前、秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の薬草を求めて数千人の大船団を率いて渡ってきたという「徐福」の伝承がある。

たどりついたとされる冠岳には、多くの薬草が自生し、「徐福」がその冠をこの山に納めたことから『冠岳』と呼ばれるようになったという。

地名や史跡は知ってはいても、そこに脈々と流れる歴史的背景は素通りしてしまいがちだ。しかし、一旦気づきが始まると、歴史に遊び、ロマンを飛翔させたくなってくる。

日本の水墨画の歴史を調べていたときのこと、「えっ!」と驚いたことがある。

日本の水墨画のトップランナーといえば雪舟だ。雪舟はご存知の通り、幼い頃、絵ばかり描いて、経を読もうとしないので、仏堂の柱にしばりつけられ、それでも床に落ちた涙でねずみを描いたという有名な故事がある。

その雪舟の最初の弟子に、「秋月等観」と呼ばれる薩摩の人物がいたことは知られていない。
薩摩川内市の中心から少し離れた場所に高城町がある。

いまでこそ京セラの工場があり、交通量も多いのだが、半世紀前、祖父の自転車の後ろに乗って、本家のある高城町へ連れて行ってもらった頃は、田園の向こうに見える小高い丘に点々と農家の連なる小さな集落だった。

そこに、雪舟の直系、それも筆頭弟子に近い人物が存在していたのだ。

そのうえ数百年前、当時の中国である“明”にまで渡った日本人水墨画家となると、これはもう、やぶさかではない。

ぼくの祖父も水墨画を描きながら庭師を営み、戦中、中国へと渡っている。

なんと秋月等観と祖父とぼくの三人は、高城集落・中国生活・水墨画つながりでもあるのだ。きっと雪舟直系一番弟子・水墨画家『秋月等観』のDNAは祖父を経てぼくにまで来ているにちがいない!?……(妄想)。
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by ogawakeiichi | 2010-06-05 07:46 | 南日本新聞コラム

???

先月下旬、鹿児島市日中友好協会総会の席で小一時間、話す機会を与えられた。

会場についてみれば、お歴々の大先輩、名前だけは知る中国通の日本人、中国人留学生、国際交流員の方々などなど、中国に詳しい人たちばかり。

その場へ来たことを後悔したが、もう後の祭りだ。

ぼくは『日本とアジアの見方~変化のまっただ中で暮らした中国十年~』とのタイトルで、語ることになる。

デザイナーの視点から、日本と中国を、二つの焦点をもった楕円に見立てて、生活、歴史、アジアの価値観、そしてブランドまで高速連射したものの、いわば、中国に関するプロを相手に冷や汗ものの講演でもあった。

そのときの話をかいつまみ、話たらなかったところを補いながら振り返ってみたい。

さて、アジアを語るときに、どうしてもはずせないことがある。

もともとアジアにはアジアの多様性が息づいていた。

アジア独自の多様な価値観に基づいた社会があった。

それぞれの国は、国内の社会秩序とアジアの国際秩序をつくっていた。
当時は農耕社会を基礎に、日本は武家社会、韓国はヤンバン階級、中国は官僚制度をつくっていた。

農耕社会の基本は、土地と水を共同で使い、共同体での経営である。
それに対し西洋は私的所有の概念で土地を分け、自由という競争社会をつくっていった。(今、中国さえも政治は社会主義だが、経済は競争社会だ)

話は変わるが、ぼくの中国での生活は右も左も、まったくわからないところにはじまった。
エスノグラフィーと呼ばれる民俗学の対話の方法で、周囲とコミュニケーションをとっていった。

大勢の仲間とコミュニケーションが成立してくる頃には、顔は似ているのに異なる文化や政治体制、歴史認識の違い、生活習慣などなどに、モヤモヤとした違和感をもちはじめていた。

言葉にできない、モヤモヤは、コミュ二ケーションの深まりとともに、次第に「分る」「判る」「解る」となった。

つまり、違いを、違いとしての「理解」がはじまる。

それが極まり「好き」になっていく。

じつは商品をブランドとして認識していくのも、ちょっとの仕掛けがあるものの、この過程と、とてもよく似ている。

現在、中国に進出した、日系のコンビニは、日本式の管理方法で、急成長している。一番の売れ筋は、「おでん」だという。 日本に留学した中国人が、その味と手軽さを覚えて帰国し、友人や家族にそれを伝えて広がった。

また、中国から日本へ高度医療を受けに、また温泉で保養にくる日がやってきた。  

なかでも九州は、中国には少ない温泉と美しい海岸線と火山をもち、美味しいたべものもある。 

いよいよ日本の花鳥風月が、九州が、鹿児島がブランドとしてアジア全域に広がる時が来ている。

とりとめもなく、そんなことを語った。
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by ogawakeiichi | 2010-04-30 11:21 | 南日本新聞コラム

台湾からのチャット


4月4日 南日本新聞日曜朝刊掲載

いきなり、「チャラン~」という、メールの到着音とともに、中国語で『いま、台湾に住んでいます』と、チャットがはいる。(※パソコンを使ってリアルタイムでのメッセージのやりとり)。

ときどき中国での教え子からチャットがはいるのだが、そのすべてが大陸の中華人民共和国からだ。

大陸ではない台湾からのチャットに、「知らないヤツが、まちがってアクセスしたのだろう」と、放ったらかしにしていると、「中国語を忘れたの?」「なんで居留守を使うの?」「わたしを忘れたの?」・・などなど、リアルタイムでの書き込みは終わらない。

中国での教え子は、ざっと数えても数百人。 そのうえ、李さん、とか、王さん、などなど同姓も多く、よっぽどの悪童か、どっぷりと一緒の時間を過ごしたゼミの学生以外は、顔と名前がすぐには一致しない。

おまけに、中国語の会話には問題ないのだが、チャットは大の苦手なのだ。中国語のメールは、まあまあなのだが、チャットは、会話のスピードにあわせての高速打ちが大の苦手。

中国語を文字打ちするにはピンインとよばれる発音記号を使うのだが、舌をまく、まかないなどの標準中国語の微妙な違いを正確に憶えてないため、打ち間違いの連打連打で、チャットにならないのだ。

台湾からのチャットの相手は、仕事場である学校ちかくにあった水墨画材屋の娘だった。中国に赴任早々、水墨画の師匠にはじめて連れていってもらったときは、まだ小学生だったのに・・。縁あって、なんと政治体制の違う台湾へ嫁いだのだという。
中国でデザインの教鞭をとっていた九十年代後半、台湾と中国の間には険悪なムードが漂っていた。

現在大陸には政治体制が違うといっても、多くの台湾からビジネスマンや留学生が暮らし、いまでは直行便が飛ぶ。

さて、その台湾で台湾映画として観客動員数が歴代第一位になった『海角七号』という映画があるのだが、先々月、日本でも公開された。

映画は、日本統治時代と現代を背景にした日本と台湾のラブストーリーだ。劇中の『君を捨てたのではなく、なくなく君を手放した』という日本語教師のセリフが、日台関係のノスタルジーかと話題になった。

政治体制の違う中国大陸での公開は、なにかと批判的な見方もあり、一時はお蔵入りか?との情報も流れていたが、昨今の中台関係の改善により、公開にこぎつけた。

大陸から台湾に嫁入りした彼女にチャットで、台湾では「海角七号、見た?が、挨拶の代わりにまでなったというけど・・」と、聞いてみると、そうだという。中国本土では映画より先に、庶民の間ではとっくに海賊版ノーカットデジタルが出まわっていたという
大陸だの、台湾だのという時代ではないということなのだろうか・・。

ちなみに、この映画の主役級は、郷土奄美の唄者「中孝介」氏であったことを付け加えておく。
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by ogawakeiichi | 2010-04-04 05:20 | 南日本新聞コラム

「共生」と「共創」

中国人観光客到来の時代が本格的にやってきた。三月下旬の大型船来鹿に備え、ぼくの周囲もなにかと慌ただしくなってきた。

じつは、大陸からの観光客は一昨年あたりから、韓国、福岡、長崎や鹿児島を結ぶ東シナ海クルーズで、いくどとなくやって来てはいたのだが、一般にはそれほど注目されてこなかった。

しかし、時代が極まったせいなのか、メディアの影響なのか、なにかと大陸から来る富裕層の買い物ぶりや、長崎の受け入れぶりが報道されるにつれ、ぼくの周囲でも、鹿児島へやってくる観光客のことが話題にのぼりはじめた。

そのためぼくも、長年にわたる大陸での教員の経験から、生活習慣の違いや、中国について話す機会を与えられることが増えてきた。

ぼくの中国での生活環境は、周囲はすべて中国人。勤務先は旅行系の大学だった。
観光開発と、観光ポスターと工芸を学ぶ学生に、ブランドやデザインについての講義をしていた。

振り返れば、さして上手くもない中国語で、よくも十年もの長期にわたりやってきたものだ。ちょっとしたコツがあるのだが、それはそのうち書こうと思う。

さてさて、不思議なことに日本と中国の間を幾度となく往来していると、到着した飛行機を降りた瞬間、その国のモードに、パチッとチャンネルが入れかわるようになる。生活習慣バイリンガルといったところだ。

中国に到着すれば、中国のスイッチがはいり、無意識に声も大きく、動作も大きくなっている。

ぺちゃくちゃと大声でしゃべりながら、冗談を言い合いながら大勢で食べる食事は、ときに笑いが止まらない。

買い物では店員と、時にバトルをやりながら商品をしつこいくらいに確認し、箱から取り出し、開封し、確認してから購入する。ちいさな丁々発止も、それはそれで買い物の楽しみでもある。しかし時間に追われると、なかなかこれもできない。

なんの予備知識もない、日本人から見ると、声の大きさや、喜怒哀楽の振る舞いが無作法にもみえるのだが、大陸では極々普通のことである。

その反対に日本に到着すると、うまく表現できないが、声にも動作にも、日本人の余白みたいなものがでてくる。

ぼくのなかでは「混沌とおもしろさの中国」そして「余白と静けさの日本」といったところだ。

日本と中国を行き来して暮らす間、元首相の靖国参拝や、餃子に農薬が混入した事件のときは、なぜか日中の両方から苦言をいわれ、最近では、東アジアの時代の予感を受けてか、「先見の明があったのだね。」ともいわれる。

ぼくはなんにも変わらないのだが・・・。

どちらにしろ、日本人は儒教の考えが染み込んだ中国人の思考回路を、中国人は西洋型教育と詫び・寂びからなる日本文化の独自性を理解して、「共生」そして「共創」してほしいものである。 

本来、東アジアにある多様性の価値観をもって。
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by ogawakeiichi | 2010-03-05 17:28 | 南日本新聞コラム

東アジアは、まもなく早春



f0084105_1554889.jpg三寒四温が移ろう季となり、梅のつぼみもほころびはじめた。
 
久々に見るピンクの群のまぶしさが、寒さで縮んだ身体に、「ハッ」と春の気配をとどけてくれる。

昔から日本では、この梅に、松と竹を加え、「松竹梅」として、めでたいものとされてきた。じつはこの「松竹梅」だが、日本だけでなく、韓国にも、中国にもあり、東アジアの国々を、一つに結ぶ吉祥の品である。
 
もとの由来は中国の古典「論語」だが、そのなかでは「松竹梅」を「歳寒三友」とよび、三人の友にたとえた。
 
冬の寒さに耐えながらも、凛(りん)として成長する「松竹梅」のイメージは、格好の水墨画の題材にもなり、東アジアの多くの画家たちがこれを描いた。
 
ぼくが中国で暮らしはじめて水墨の師匠に弟子入りしたとき、まず、最初に与えられた課題が「松竹梅」のマスターだった。なんどもなんども、身体が覚えこむまで描かされた。
 
さて、師匠に師事している弟子たちのあいだでは、先に入門した者が、後から入門してきた者を「師弟」「師妹」と呼ぶ。
 
ぼくが師事した徒弟集団は、年齢に関係なく、兄弟子たちは時に師匠になりかわり「師弟」「師妹」に絵画指導のほか、私生活にもなにかと世話をやいてくれていた。
 
先月、その兄弟子のひとりが、日本交流訪問の一員として日本へやってきた。来日の強行スケジュールの合間をぬい水墨の「師弟」であるぼくを訪ね、鹿児島まで来てくれた。

しかし限られた時間は数時間。外は小雨だ。
 
新幹線でついた彼を、とっさに駅の屋上にある観覧車へ誘い込む。
 
霞(かすみ)をぬって正面にみえる桜島と錦江湾の美しさに、兄弟子は「好・好(ハオ・ハオ)」を連発していた。
 
しかし錦江湾を、大きな河と勘違いしたのはさすがに大陸的だ。
 
老舗の黒豚しゃぶしゃぶの味に感激して夕方には市内をあとにした。


もちろん多くの留学生やビジネスマンが日中を往来している時代だが、気がつけば、中国でごく普通に、一緒に暮らした兄弟子までもが、鹿児島を訪ねてくるときが来たのだ。
 
日本を中心に世界地図を時計回りに九〇度回転させれば、日本は太平洋を背に一番下にあるパチンコ台の受け皿にも見えてくる。あたかもさまざまなルートから落ちてきた玉が、最後の受け皿である日本に流れ込むようにも見えてくる。

かつて日本人は大陸へ学びにでかけ、また大陸からもさまざまな人やモノがやってきた

貪欲(どんよく)に生命の危険をかえりみず、先人たちが追い求めた東アジアだが、しかし、宦官(かんがん)の制度や、纏足(てんそく)の慣習は海をわたってこなかった。

日本は大陸から文化が流れ込むとき、しっかりと自分のものさしをもっていたのだろう。

今回の兄弟子の鹿児島訪問を機に、われわれのすぐとなりにひろがる、東シナ海と東アジアの伝統と文化の意味をもう一度味わいなおし、再び心に浮かべてみるときが来ている。そんな気がする。
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by ogawakeiichi | 2010-02-05 15:54 | 南日本新聞コラム

平山郁夫

f0084105_1529223.gif中国の美術家の多くが、平山郁夫の名を知る。元東京芸術大学学長、日本画家の平山画伯がお亡くなりになった。中国においてトップレベルの画家を数多く輩出している清華大学の名誉顧問でもあった。

山水画で名高い桂林に住むぼくの水墨画の師匠は、スケッチに訪れた彼と一緒に撮った色あせた写真を誇らしげに見せてくれた。ぼくは中国建国五十周年行事のさい、天安門でお目にかかることになったのだが、緊張のあまり、なんにもしゃべれなかった。

思えば、アジアに惹かれるきっかけは、平山画伯が描いたオリエンタルな表情をした仏像のスケッチ画からはじまる。 さらっとしながらも、揺らぎのある墨線で描かれた輪郭。その輪郭線から、わずかにはみ出る淡いにじみの色彩に強く惹きつけられた。

一九七〇代後半、テレビでは「シルクロード」が放映され、アジアをテーマにした喜多郎や、ゴダイゴの曲が流れていた。ぼくはその時代の影響と、仏教伝来を描く彼の日本画に感化され、スケッチブックを片手に、沖縄経由で台湾航路の船に乗り込んだ。その後は、香港、タイ、バングラディシュ、インドへと旅を続けた。アジアの旅は時を経て、インドからチベットへ、インド哲学から仏教をかじり、中国へとたどりつく。

後になって気づいたことだが、たずねた年を前後して平山画伯と偶然にも同じ場所で風景を描いたスケッチが二枚ある。一枚はインドで描いた仏陀が悟りをひらいたという菩提樹。もう一枚は、チベットで描いたラマ教寺院と背後に見える独特の稜線の風景だ。

「平山画伯と対象物を探す眼力は同じだ!」と、自画自賛してみたくもなるが、スケッチに最適な腰を下ろす場所や、対象をかっこよく描く角度は、おおかた似てくるものである。とは言っても、インドやチベットでは、風景のあるその場所にたどりつくまでがたいへんな道のりだった。ぼくは気力、体力ともに十分な年齢ではあったが、彼の絵画にかけるモチベーションには驚かされる。

さて、日本史をひも解いてみると、日本は政治や経済などの律令制度、芸術や仏教文化を東アジアから吸収してきた。現在、中国には十万を越える日本人が暮らしているが、多くの日本人は、文化も歴史も日本が誇るべきことも、なかなか語れない。日中の間においては、とかく金銭がらみの利害関係だけが取りざたされる。

そんななか平山画伯は留学生の受け入れ、敦煌壁画の保護活動など、東アジアとの文化交流に並々ならぬ力を注いだ。きっとスケッチをしていくなかで、東アジアに日本文化の源流をみつけ、それとともに、日本や東アジアの文化の危機を純粋に感じていたのではなかろうか。世間のすべての人間が彼を評価しているわけではないことも知ってはいるが、平山画伯は日本と東アジアを文化という側面から支え続けた日本人であったと思う。
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by ogawakeiichi | 2009-12-05 06:50 | 南日本新聞コラム

中医

中国の病院には、日本では聞き慣れない「中医科」がある。「中医」とは中国医学のこと。

西洋医学は薬を服用してなおす内科的な治療と、悪い部分を取り除く外科的な治療があるのに対し、中国医学では、針やお灸、気功、マッサージ、調合した生薬などを用いながら総合的に治療をする。

中国で生活していたある日のこと、ぼくは原因不明の頭痛が続き、訪ねた病院の内科では、診察ののち、中医科へまわされて数日間首筋へマッサージを受けた。

またあるときは、しゃっくりが終日止まらず、一般の病院から中国医学の総合病院を紹介され、顔とアタマに針を打たれ、背中へお灸をすえられた。

西洋医学のような即効性はなかったようだが、原因不明のしゃっくりも頭痛も、いつのまにかよくなっていた。
西洋医学では、まずは「どこが悪いのか」を探り、エコーなどの機材を駆使して診断をおこない、悪い部分を手術や、薬で治療していくのに対し、中国医学では、悪い部分をカラダ全体の一部としてとらえ、バランスをとりながらカラダを調和させることを目標に治療していく。つまりカラダのあらゆる部分はお互いに影響しあっていると考える。

ザクッと言えば、悪い部分を集中的に治療していく即効性のある西洋医学に対し、全体のバランスをみながら時間の経過とともに部分をなおしていくのが中国医学だ。

企画やデザインの仕事をしていると、即効性のある西洋医学的なやりかたと、ときに中国医学的な見方の組み合わせが必要になってくる。 

デザインは悪くないのに売れない場合、よくよくみると、売る商品そのものや、売り方や見せ方を含む全体のバランスが悪かったりする。また、その反対にモノはいいのに、デザインが悪いこともある。
つまり全体と部分の両方を同時に見ていく必要があるわけだ。

また、売れるモノをつくるのか、売れつづけるモノをつくるのかの違いもそうだ。
売れつづけるモノをつくるとは、ブランドをつくるということ。たとえば、瞬間的に売れることを求めるのなら、価格を下げたり、それなりのプランをたてて、キャンペーンをやり、試しに買ってもらったりと、一時的に売り上げを伸ばすことができると思う。

ただ、そこで買ってもらったものが、その後も買い続けてもらえるかというと、それは?だ。 

買った理由が、話題性や価格の安さだとすれば、そのモノの評価ではなく、話題性や価格の魅力によるからだ。

地域のブランドづくりということが言われて久しいが、ブランドをつくるには、デザインとキャンペーンの重要性はもちろんのこと、その価値がわかる人に喜んで買ってもらえるような、その喜びを、まわりの人に伝えたくなるようなしくみや環境をつくることも重要になってくる。

西洋医学と中国医学のように、まったく違う発想を組み合わせていくことが必要だと思う。



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by ogawakeiichi | 2009-10-31 08:43 | 南日本新聞コラム

シンクロ

中国最大のデザインイベント見学のため滞在していた北京は、摂氏四十度をゆうに越え、お日様がこわれたような暑さだ。この暑さから逃れるように日本へ帰ると、今度はお日様が隠れる天体ショーが待っていた。

日食は古代以来、人々が忌み嫌う天変地異のはずだったのに、周囲のはしゃぎぶりとともに、それはそれでワクワクしてくる。

当日は雨になったり薄っすらと日差しが差したりするあいにくの空模様になる。きっと見たい気分と、見てはいけないものを、天がうまく采配してくれているのだと、半ば無理やり自分の気持ちを納得させる。

さてさて話は一転するが、人はそれぞれ生まれてから現在まで、ひとりひとりが通り過ぎてきた軌跡がある。

その中で一度出会ったモノやコトと、信じられないくらいの時間と距離を経て、あっと驚くような偶然で、再び出合うことがある。   

この日食に合わせたアートイベント「時の芸術祭」が開かれ、そのイベントのため、鹿児島出身の現代美術家・藤浩志氏らと食事にいったときのこと。彼らとともに日食イベントに来鹿した妙齢の女性とたまたま席を隣り合わせ、挨拶の視線を交わしたその瞬間。

「あっ!」「チベットで会った!」と、ぼくと彼女は同時に驚きの声を上げていた。

な、な、なんと、今から十年前の一九九九年。チベットの省都「ラサ」へと向かうオンボロバスでの出来事だ。チベット高原の天気は変わりやすく、バスの行く手にある橋は突然の豪雨による濁流のため落下していた。

そのため乗客は、浅瀬を探しながら膝まで浸かり歩いて河を渡ることとなる。その後もバスは災難に見舞われ、前方でがけ崩れ、さらに後方でもがけが崩れ、ついに身動きがとれなくなった。

結局、復旧工事が終わるまで雨の降りしきるなか、ヒマラヤの急斜面にへばりつくオンボロバスのなかに満員の乗客は一昼夜閉じ込められることになる。

このとき同じバスに乗り合わせ、ニコンのカメラでこの光景にシャッターを切るカメラマンらしき一人のうら若き女性がいた。満員のチベット人乗客のなか、彼女の毛色の違いは明らかで、声をかけてみると、なんと日本人。慶応の学生、竹久侑さんだった。とんでもない辺境での出会いであった。

ルートを同じくするチベットの旅は数日続き、一人で辺境に入り込みカメラを撮る彼女の振る舞いに、ただならぬ気配を感じながら別れたのだが、その後もその面影を、ふと気にはしていたのだが、縁起というものはときに『存在』という事実をガツンと突きつけてくる。十年後、やってくる偶然として、鹿児島の地で席を隣あわせることになろうとは・・・。

彼女は今、現代美術の殿堂、とある芸術館で、学芸員として日本の現代美術を牽引するトップランナーになっていた。やはりただ者ではなかったようだ。
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by ogawakeiichi | 2009-08-02 09:46 | 南日本新聞コラム

多国籍合宿

よくぞ集まった。先月中旬、「共生への挑戦」とのコンセプトのもと、大隅・高隈山麓に四百名を超える老若男女、三十以上の国の人々が集まった。

鹿児島大学留学生センターを中心に、県内各大学のサークルや国際交流関係機関、地域住民などが参加して行われた「多国籍合宿」のことだ。

四月末から、この催しのスタッフで、なにかとバタバタ動き回る弟子の姿を、遠めには見ていたのだが、そのうち「ワークショップをやってもらえないか」と、言い出してきた。

気がつけば、言葉で巧みに絡められ、このイベントに参加するはめになる。実のところ国際交流イベントは、中国でも日本でも、個々や組織が行う単発的な催しに、幾度となく参加してきたのだが、ここ数年なんとなく物足りない何かにさいなまれてきた。しかし今回終わってみると、帰宅した夜は、微妙な神経の高ぶりで眠れないのである。

とりたてて利害関係のない四百名が集まった二日間ではあったものの、限られた二日間だったからこそかも知れないが、インドネシアの民謡“ポチョ・ポチョ”を黒、白、黄の様々な国籍の笑顔が踊る姿は、“これが欺瞞のない平和か?”と思わすような光景がそこにはあった。

これまで「乾杯!」ではじまり、「友達!友達!」で終わる国際交流と、異文化からの客寄せパンダ的な催しに少々食傷気味だっただけに、それとは違う、ぎこちなさが残りながらも満身創痍で準備した気配の読み取れる、多彩なプログラムを仕込んだ学生主体の総合イベントに、終わってみれば、“ひょうたんから駒”。なにか得した気分だった。
 
根っからのグローバリズム(地球主義)や、社交が苦手なぼくにとって、“国際交流”って言葉の響きは、なにかしっくりとこないところがあるのだが、“多国籍合宿”という言葉の響きは、そこから生まれ出る新しい創発の暗示を感じる。

ところで、大方、誰もが平和が好きなはずなのに、なぜに争いが無くならないのか?

東南アジアの学生は、「異なる遺伝子のせいじゃないのか」といい、中南米の研究者は、「前途ある若者の前で、遺伝子を理由にした科学的根拠に乏しい発言をするのはいかがなものか、平和は心によってつくっていくものだ」と反論する。心によって平和をつくっていくことは心情的によく理解できる。

また、平和という名の下に世界を善と悪の対立で分け、争いあっている現実と、悠久の歴史をみれば、科学的根拠に乏しいとされた東南アジアの学生の言いたいこともよくわかる。

二日目に行われた全体での総合討論は、揺さぶられたそれぞれの思いがゆらぎ、ゆらいでどこか収束へと向かってはいるのだか、結論など出ないし、結論を求めもしない。

どうにもならない違いのなかで、きっと「共生への挑戦」へと向かっていたのだろう。ひさしぶりに、いい映画を観たような、胸のあたりに余韻の残る催しだった。
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by ogawakeiichi | 2009-07-07 09:25 | 南日本新聞コラム

天安門事件20年

f0084105_1561886.jpgすぐる木曜日は天安門事件からちょうど20年。20年前のちょうどそのとき、ぼくは立ち上げたばかりのデザイン事務所で、なかなかはかどらない仕事を前に、深夜のラジオから流れる興奮して上ずった北京からの中継を聞いていた。
 
天安門事件をごくごく簡単にいえば、民主化の要求運動を始めた学生や知識人が、天安門広場を占拠。その後、中国政府の奥の院においても、指導者同士の権力闘争が起き、天安門に集まる学生たちに同情的な派閥が敗れ、人民解放軍が学生たちを武力鎮圧した事件である。

ネットを中心とした世界のメディアでは、戦車の前に立ちはだかる人、逃げ惑う人々の写真などで、流血の天安門事件を振り返る特集をしている。

中国では当時の事件に関する情報はまったくない。中国のサイトで検索してもヒットしない。
 
ぼくのある同僚は当時、北京工芸芸術学院(現・清華大学美術学院)で工芸デザインを学ぶ学生だったが、この天安門に集まって民主化要求運動をした一人だ。
 
天安門の当時の状況を聞きたがるぼくに、日ごろは日中関係のゴタゴタや、ちょっとやばい内容も、ジョークにくるめて容赦なく語ってくれるのに、このことだけは口数が少ない。

彼はいま、学校の幹部と学校母体のデザイン事務所の社長の地位についている。まぁ、今の地位がどうのこうのというわけでもなさそうだが、口数の少なさからすれば、そんなこんなで、彼も自己との葛藤(かっとう)でつらいのだということにしておこう。

当時、民主化運動を指揮していた主要な学生リーダーたちは、国外へ亡命したという。

しかし、武力鎮圧の中を逃げ回る一般の学生たちから離れ、誰がどういう方法でリーダーたちを逃がしたのだろう。残念ながらこの脱出ルートについては秘密のベールに包まれたままである(客家・高木桂三・講談社現代新書)。

さて、話は変わって、中国の暮らしが長かったせいか、日本でも中国でも「おまえ中国、好きなんだよな~」と、言われると、微妙に複雑な心境になる。

学生たちの日本アニメのコスプレショーににやけ、知り合ったばかりの中国人から抗日ドラマで仕入れた日本を延々と語られ、ムッとくる。

日本でも中国でも、何かと悪いところだけをあげつらう話を聞くと、これもまた微妙に複雑な心境になる。どちらもメディアの影響とそれを見る判断力に負う。

先の大戦で痛みを受けた方々には大変申し訳が立たないが、歴史認識にはじまる日本と中国との関係は、こじれた男女関係を思い浮かべてしまう。

一度は惹(ひ)かれあった仲なのに、過去のあやまちを、なにかと持ち出して責め続ける側と、また一方、なにかにつけ悪いところばかりをあげつらね、うんざりしているカップルの関係に似ている。

またときには、おたがいのそんな関係を、煽(あお)りたがるヤツがいると、それはもう厄介である。
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by ogawakeiichi | 2009-06-07 14:55 | 南日本新聞コラム