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彩遊記

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カテゴリ:南日本新聞コラム( 75 )

竹の反撃

北京の郊外、万里の長城を望む場所に、十二人のアジアの建築家によってデザインされた別荘型のホテルが山中に点在している。

いま中国のデザイン界では日本・香港・韓国・タイ・シンガポール・中国を代表する建築デザイナーが設計したこの隠れ家リゾートが注目を浴びている。以前、吉永小百合が出ている液晶テレビのCMに使われていた場所でもある。あの「竹の家」をデザインしたのが建築家・隈研吾だ。

上海や北京の街中にそびえたつ、西洋を意識しすぎて、ギラギラで奇抜なデザインの建築が多いなか、隈研吾がそのホテルに選んだテーマは「竹」だった。「竹」はいっけん安っぽく見える素材である。値段的な話でいうと中国などでは、ほとんどタダに近い。納屋とか小屋とか海水浴場の海の家とかのイメージだ。

アジアの人々の生活の全域に深く浸透する「竹」は、日本では数寄屋や茶室建築の材料として使われているが、中国では建築を組むための足場として使われるだけである。「竹の家」の計画段階では「中国でこれ、ホントに受けるかな?」と誰もが心配した。ところが、完成してみると、すごい人気のある建物になっていた。

単純にピカピカなものを求めているわけではない、成金趣味にはうんざりだという次の世代のリーダーたちがすでに現われている。素朴な自然素材を用いることで、記憶に残る「アジアのおもかげ」を引っ張りだしたのかも知れない。

もともと「竹」は中国において、仙人や賢者がひっそりと暮らす場所のシンボルであり、水墨画では必ず「竹」の描き方をマスターさせられ、漢詩にも多く詠まれている。「竹の家」にはそんなアジア観が滲み出ているのだろう。

建築家・隈研吾が「竹」をつかって工場再生する計画を進める熊本の醤油屋さんがある。その熊本に「竹のプロジェクト」がある。発起人はNHK朝ドラのモデルにもなった福井県小浜の若狭塗の老舗の箸屋さん。折れたバットを箸に再生産したり、「お箸知育教室」を誕生させたり、北京に店舗をつくったりとユニークで行動的な社長だ。九州の竹の魅力にとりつかれたらしい。

またプロジェクトの建築科出身のメンバーは、竹の流通過程で最もたいへんな管理と伐採を「竹伐採で汗をかいてダイエット、終われば大宴会」という、新鮮なアイデアで若い力を結集した。竹の生産者と、それを加工する人たち、さらにデザインする人たちが一体となったシステムをつくりあげた。

「竹」はアジア各地に自生しているが、その中でも特に品質のよい竹の産地が九州なのだ。竹の有効活用と産業化を九州から発信、さらには来年五月に開催される中国・上海万博で、「九州の竹」をデザインの力でかたちに変えて世界へデビューさせる計画だ。箸から建築にアジアの素材として見直された「竹」の反撃がこれからはじまる。
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by ogawakeiichi | 2009-05-03 17:30 | 南日本新聞コラム

イチロー、牛ぁ!

賞味期限もまもなく切れようとする話題だが、「ワールド・ベースボール・クラシック」で日本が優勝したときのことだ。

中国の学校の同僚から「日本の野球は、牛!」と国際電話がかかってきた。実は「すごい!」を中国語で「牛(ニュウ)」と言う。「すごい」というよりニュアンス的には「すげぇ~」という感じに近い。今年の牛年(うしどし)にかけていたのかもしれないが、「牛!、牛!」を連発して優勝を称えてくれた。  普段、メールのやり取りはするものの、わざわざ電話をかけてよこすことはない。

話の内容も、野球がメインではなかったはずなのに、いつのまにか話題はそちらのほうに向かっていた。中国では野球のことを「棒球」という。近年プロリーグが発足したとはいえ、そう馴染みのあるものではない。日本におけるスポーツの浸透レベルで言えば、例えばラクロスとかセパタクローに近いのかもしれない。中国で人気があるスポーツといえば、都会ではサッカーとバトミントン、田舎ではバスケットと卓球だ。また、どちらかといえば「見るスポーツ」はサッカーとバスケットボール、「するスポーツ」は卓球とバドミントンだろう。

野球がなかなか普及しない理由の一つに、大陸のグランドはセメントで固められているケースが多く、野球には不向きな環境であることも影響している。そんなことから北京オリンピックの競技種目とはいえ、野球がメディアに登場することはめったになく、知名度も極めて低い。

ところが、である、ぼくが行き来する桂林の学校には、日体大で野球を学んで帰国した中国人と、高校野球を経験した日本語の教師がコーチとして指導する野球チームがあるのだ。校内の掲示板には、どこから仕入れてきたのか、イチローや清原など日本人プロ野球選手の切り抜きを使った部員募集のポスターが貼られている。コーチの姿が見えないある日のこと。「バットでフライを上げてくれませんか」と頼んできた。「そんなねぇ、日本人だからといって、だれでも野球がうまいわけじゃないんだから・・・」と言うものの、下手でもいいですからと、たてまつられた。まぁ、ホントに下手だとわかったらしく、その後、声は掛からなかったのだが・・・。

じつは、中国において草の根で野球を普及しているのは、日本企業の駐在員や青年海外協力隊の人たちが多い。赴任先に草野球チームを立ち上げ野球大会を行ったり、少年野球チームを立ち上げたりしている。
電話してきた同僚も、野球チームが身近にあるのが影響したのか、やたらと野球に詳しくなっていた。最後の話題はやはり、イチローのことだ。

「禅僧のようでクールなイチローも、スランプから、心が折れそうになることもあるんだ」という話に始まり、なんといっても二人が一致して「イチロー、牛!」と驚嘆しあったことは、延長十回二死二、三塁の土壇場、九人の打者の中で、九分の一の確立を引き寄せ、そこでヒットを打った『イチローの執念』のことだった。
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by ogawakeiichi | 2009-04-05 05:17 | 南日本新聞コラム

かたち

f0084105_5153974.jpgあるきっかけから東アジアの「かたち」を調べることになった。ぼくにとって、十年ちかく彷徨している東アジアにかかわれることは、やぶさかではない。古代九州の「かたち」を調べ、東アジアの源流へさかのぼってゆくことになる。
 
まずは神社やお寺の建築、祭りの道具、それらに見られるデザインや図像を集め、分類し、共通のモノ・コトを見つけ出し、物語に織り込んでいく。
 
アジアの「かたち」を追った先輩にぼくの大好きな杉浦康平さんがいる。杉浦さんは「かたち」を「かた」と「ち」にわけた。古代から日本人は自然に潜む霊的な力、目にみえない生命力の働きを「ち」と名づけ、「かた」に「ち」が吹き込まれ、「いのち」あふれる「かたち」が誕生するとみた。
 
東アジアと古代九州には、なんらかの関係の「ムスビ目」がある。九州という名称は明治以前に九国があったことに由来する。九州という漢字は、中国語では古代このかた中国そのものを示す別名でもある。この偶然さえも、なんとなく因縁的だ。
 
東アジアと古代九州の「ムスビ目」を探しに、気になっていた大分の宇佐八幡に行く。鹿児島神宮や、新田八幡、荒田八幡など「八幡さま」を奉る総本宮が宇佐八幡である。調べてみると、宇佐八幡には「秦(はた)氏」が深くかかわっている。

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by ogawakeiichi | 2009-03-02 05:09 | 南日本新聞コラム

大変事

ちょっと前までは、ありえないと思っていたことが次々起こる。
黒人の大統領が誕生したり、石油の価格が跳ね上がったり急落したり。

これまで信用を落とすまいとあの手この手で踏ん張ってきた社長さんたちから「たいへんだ」の声が聞こえ、まさか、まさかのトヨタやソニーまでもが「たいへんだ、たいへんだ」と言い出した。

世界のリーダーを振りかざしていたアメリカも、どうも負けが込んだ博徒のようだ。にっちもさっちもいかないのか、それとも「たいへん」の言葉とは裏腹に人の心理を大きく誘導する心理作戦なのかはうかがい知れない。しかし、ありえないと思っていたことが、ありえる時代になったことだけは確かなようだ

たまたまぼくは、長期の中国生活で、毎日どこかで遭遇する腑に落ちないことや、突然のモノ・コトの変更で鍛えられ「たいへん」に対する勘がある。怪しいモノには勘が働き、なるべく「たいへん」になるのを避けてきた。

でもそれだけじゃ、つまらない。ときには、装いよろしいちょっと怪しいモノ・コトの世界に飛び込んでみた。いい経験にはなるのだが、まあ、そのほとんどに利が絡み、それを仕切る裏の大親分にとっては、おいしい話が多かった。

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by ogawakeiichi | 2009-01-30 04:52 | 南日本新聞コラム

気韻生動

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スポーツをするのに格好の時期になった。
もう十年以上前の話だ。中国大陸ではじめて生活することになり、これだけは是非マスターしておきたいと思ったことがある。それは、太極拳をマスターすること。

大陸では朝の公園や、学校の片隅で太極拳をやる光景は日常的だ。そこでは、いくつかの自然発生的にできた遠慮がちな小グループから、白の太極拳服をまとう、はつらつとしたグループまで様々だ。どのグループも一番前に置かれた、大きなラジカセから流れる大音響のゆったりした曲と、一歩前にいるリーダーらしき人物のカタにあわせ、ゆっくりした動作をおこなっている。 
公園を見渡すと、大きな樹木の下では、ちょっと膝を曲げた姿勢で、樹に腕をまわし、手のひらをとおして樹木の生命力にあずかるような瞑想ポーズをとる人もいる。中高年の人が多い。動きがスローなので若者に人気のあるスポーツじゃなさそうだが、じつは遅速混合いろいろなスタイルがある。ぼくが習得に励んだのは、もっともポピュラーな二十四式、中国では体育の授業でもこれをやる。

さてこの太極拳の師匠のことだが、水墨画の師匠でもある。ぼくにとっては、水墨画の師匠が太極拳も教えてくれたと言ったほうが腑に落ちる。まあ、そんなことはどうでもよい。彼が言うには太極拳も水墨画も『気』がポイントだという。

太極拳の習い始めは、壁を向いて、膝をほんの少し曲げて立つことからはじまった。どうやら『気』をつくる基礎運動だったのだが、初めの頃はさっぱりわからない。

水墨画もそうだ。水墨の書き方、見方にとって重要なものに『気韻生動』(きいんせいどう)がある。『気韻生動』とは、自然の気がいきいきと画面から溢れていることを言うのだが、これも、初めの頃はなんのことだかさっぱりわからない。もちろん、わかったような気分になる時もあるが、それが本物の『気韻生動』なのかがわからない。

そうこうしているうちに、師匠は目の前の作品に対して「『気韻生動』があるや、なしや。」と、聞いてくる。初めは自分の感覚に頼って、当てずっぽうで答える。そうこうするうちに師匠の答えと同じになっていく。まるで臨済禅の公案のようだ。数年経つと、ほとんど外れなくなる。まあ、師匠の趣向に合わす答えが出せるようになっただけのことだろうが、弟子への秘伝の伝授だ。

同じ師匠に習ったせいなのか、太極拳、水墨画ともに、奥深い部分には同じ何かがあるように感じてきた。それを『気』と呼ぶのだろうが、それにしても曖昧で、見立てによってはあやしい世界だ。水墨を描く構えと覚悟、太極拳の身体性から考えてみると、これにはどうも、「呼吸」と人間の重心にある「丹田」に秘密があるようだ。それをしっかりした言葉にできなく、もどかしいのだが、見えない世界もそれはそれで、いいような気がする。

一切謝謝
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by ogawakeiichi | 2008-12-08 11:17 | 南日本新聞コラム

為替レート

アメリカ発のサブプライムに端を発し、円と株価が振り回されている。
株はやらないから、イマイチ臨場感がないのだが、円高、円安に関しては、長い間、気に留めている。

格別、関わりたいわけでもないが、海外生活や長期の海外旅行をしていると、手持ちの日本円やドルを、現地通貨と交換する。そのとき気になるのが「為替レート」だ。

はじめて海を越えたのは、いまから三十年前のこと。世界を自由に見てみたかったぼくは、手っ取り早く渡航資金をつくるため信州長野のダム工事現場で働いた。危険と隣り合わせのヤバイ仕事だったが、日当だけは良かった。

そこで稼いだ旅の資金を、盗まれないよう腹に巻き、気に入った場所をスケッチしながら、陸路でヨーロッパを目指す旅に出た。旅行期間は一年間。今で言う、バックパッカーのはしり。堅気の仕事にも就かない、スケッチ一本の覚悟の旅だ。

まずは鹿児島から船で沖縄へ南下。沖縄で乗り継いだ船は石垣島を経由し、まだ薄っすらと朝モヤのかかる台湾北部の港、基隆(キールン)へはいっていく。

甲板から見える街並みは明らかに日本と違っていた。接岸する船体のかすかな震動とともに、初めて足を踏み入れる外地に対する不安、やっと手にした資金と時間、そしていよいよはじまる旅への期待で、なぜか鳥肌が立っていた。

フリー旅行のガイドブックなんてない時代だ。行った先で情報を仕入れ、その情報をもとに、宿屋や、次の行き先を決めていた。

やっと稼いだ虎の子の日本円を現地通貨へ変えるとき、ほんの少しでもレートのよい場所や日を狙う。銀行や両替商の前を通るたび、店頭に表示してある為替レートに眼を留めていた。

今でも円価格の動向が妙に気になるのは、当時の体験からきているのだろう。

話は遡るが、高校二年の冬のこと。ぼくは当時の厚生省指定の難病とやらにかかり、絶対安静の入院生活を余儀なくされた。結局入院は一年近く続き、高校は留年。はやくも人生の一般ルートから大きく外れることになる。  

青春の真っ盛り、十七歳での長期入院は自暴自棄の日々だった。

そんな入院生活のある日のこと。天井のシミを何気に、じ~っと見ていると、そのシミがふっとカタチに見えはじめ、さらに、上空から見下ろす山々や森や街にみえてきた。空を飛ぶ鳥になったような気分だった。

単調な入院生活に、自分の脳が妄想を生み出したのかもしれない。

このちょっと奇妙な体験は、自暴自棄の当時の僕に、病を全快させ、世界を見てみたいと強く思わせるようになっていた。

腹巻に資金を抱いて、為替レートを気にしながらの最初の旅のきっかけはこんな理由だ。
さて、陸路でヨーロッパを目指したこの旅だが、旧ソビエト連邦の、アフガニスタン軍事侵攻であえなく断念。インドで往生することになる。

いま思えば、サブプライム問題同様、ここでも大国のエゴに振り回されていた。
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by ogawakeiichi | 2008-11-04 19:07 | 南日本新聞コラム

漢字閑話

中国大陸を歩くと、日本にはない見慣れない漢字に出会う。
今の中国、すなわち中華人民共和国の成立後にできた字だ。
それまで画数の多かった五百十七を選んで筆画を簡単にした
「簡体字」と呼ばれる漢字だ。

中国での暮しが長期になると、はじめは不慣れな「簡体字」だが、
知らず知らずのうちに身近なものになっていく。
そのうち、気づかないまま日本への手紙や文書にまで書いてしまうから厄介だ。
この「簡体字」だが、カタチからなんとなく意味を想像できる。

しかし、なかには全く違う意味のこともある。
たとえば、日本語の「洗濯機」は中国語では「洗衣机」となる。「機」が「机」になる。
およそ三千数百年前につくられた漢字は篆書、隷書、草書、行書、楷書などに変化してきた。
漢字の歴史から見れば、「簡体字」の登場は自然の流れだ。
なかには、国境を越え変化するものもある。

日本は「峠」や「辻」などのように国字とよばれる中国にない字を生み出した。
さらに略字や俗字、筆写体から「新字体」をつくっていった。
台湾や香港では「壽」や「國」などの複雑な旧字体をそのまま使う。
伝説によると漢字の起源は蒼頡(そうけつ)という名前の四つの瞳をもった男の話にはじまる。
彼の鋭い眼光は、鳥や獣の足跡を見て、それぞれの違いの中にも法則があることを発見する。

その自然の規律を応用してつくったのが漢字になったという伝説だ。
文字学の世界では、漢字を読み解くとき、
二千年前の後漢時代に書かれた「説文解字」という古典にしたがう解釈が一般的だ。

しかし、その解釈に対し、独自の解読を試み、漢字に遊んだ「白川静」という人がいる。
解読は、究極的にはその個人の解釈にすぎず、絶対に正しいと証明されるものではないが、
漢字解読に至るまでの白川静の「方法と覚悟」に底知れぬ魅力を感じる。

ぼくは水墨画を描くとき気分転換の意味も含め、甲骨文字にチャレンジするが、
そのとき白川さんの編集した本がすこぶる役に立つ。   
なにしろ白川さんの解読は、中国最古の漢字、
甲骨文字を介してその時代にいる気分にさせてくれるのだ。線の一本一本が神様との交感だ。

たとえば「文」という字の解読は、こうだ。
「もともと×(バツ)はまじないの印で、それが西洋では十字架になり、
東洋では、卍(まんじ)になった。この×(バツ)に屋根をつけたのが『文』になる」
白川さんの凄さは、漢字の成り立ちを解読するために、
日夜、甲骨文字をノートに写し、写し、ただただ身体で写しつづけ、
全身全霊を中国の古代に投げ入れて文字を体感したことだ。
まるで悟りを求める禅僧のようだ。
そのうえで漢字の字源を解き明かした。
文字学の歴史に巨大な痕跡を残し、一昨年の十月、九十六才で生涯を閉じた。
ぼくも、爪痕でいいからそんな痕跡を残していきたい。
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by ogawakeiichi | 2008-10-09 13:44 | 南日本新聞コラム

桂庵玄樹とは

f0084105_1335153.jpg北京オリンピックが終わった。2年後には上海での万国博覧会が控えている。このふたつの大イベントのシンボルマークは、漢字をモチーフに筆を使って表現している。現物を見れば、ああ・・・、と一目瞭然なのだが、北京オリンピックは“北京”の「京」の字、上海万博は“世界”の「世」の字を巧みにあやつり、マークに仕立てている。

もともと漢字の始まりは神様との交感の記号だとされる。その祈りの記号は進化して、人々のコミュニケーション手段の漢字になり、漢字を記録するための筆、墨、紙が開発された。それに伴走するかのように書道や水墨画へと発展していく。

さて、話は変って水墨画のことだが、日本に中国から水墨画が入ってきたのは鎌倉から室町時代にかけてだ。禅僧によって禅文化とともに、どどっとやってきた。その代表的な禅僧の一人に「雪舟」がいる。室町時代を生きた日本水墨画のトップランナーだ。

雪舟といえば、知名度もあり、有名なエピソードもある『幼い日の雪舟は、絵を描くことばかりで経を読もうとしなかった。そこで寺の住職は雪舟を柱にしばりつけた。泣き叫ぶ雪舟。夕方、覗いてみると、雪舟の足もとに大きなネズミ。かまれては大変と、住職は追い払おうとするが、ネズミは逃げようとしない、それは雪舟が流した涙で床に描いたネズミだった。』という話。知っている人のほうが多いと思う。

その知名度の高い雪舟だが、彼とともに同じ船に乗り、中国大陸に渡った人物がいる。その人物の名は「桂庵玄樹」大陸へ渡り、当時の皇帝に拝謁し七年間滞在。朱子学を学んだ。それから百十数年後、朱子学は江戸幕府で取り入れられ、花開くことになる。

桂庵玄樹は長州(山口)で生まれた。大陸で、朱子学を学んだのち帰国。しかし当時は、応仁の乱の最中だった。戦乱を避け、各地を歴遊。その後、島津氏の要請を受けて薩摩で朱子学を講義する。日本最初の朱子学の書籍が薩摩から発信された。彼の教えは薩南学派という流れになり、日本朱子学の大河へとなっていく。

「江戸に先んじて、朱子学は薩摩で流行した。当時の薩摩は日本における学問の最先端だった。桂庵がいたからこそ、薩摩の学術の基盤がつくられた。明治維新を成し遂げた偉人たちもそこから生ま
れた」と、九州大学大学院の東英寿教授は述べておられる。薩摩で発刊された『大学章句』は、朱子学が江戸より先に薩摩で花開くエンジンになったのだ。実はこの「桂庵玄樹」だが、鹿児島市伊敷の桂庵公園に墓がある。校区にあたる伊敷小学校では「けいあんぜんじのあとどころ・・・」と校歌にも歌われている。

七月半ば、桂庵公園で「桂庵玄樹没後五百年祭」が開催された。知事や市長、島津家の方々。夕方には大臣までもが駆けつけた。雪舟が乗った遣明船の副使でもあった桂庵玄樹。もっと知名度があってもいい存在だ。
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by ogawakeiichi | 2008-10-09 13:36 | 南日本新聞コラム

五輪と国家

f0084105_11411153.jpg八月八日八時八分。ラッキーナンバー『八』が連なるこの日時、北京オリンピックが開幕する。
中国の街々では、北京オリンピックのスローガン『一つの世界、一つの夢』がプリントされたTシャツを着た人で溢れている。

しかし、北京で暮す一般の人々、海外からの留学生、駐在員にとっては、ワクワク感より、テロに対する中国政府のピリピリ感で、夜の街では、うかつに酔っ払えないという。
国家が国旗をもって入場するオリンピックは、日頃、意識しない『自分の国』に思いを巡らす。

誰もが『自分の国』を応援する、にわかナショナリストになる。
とくに中国の場合は“愛国教育”の影響もあって、五星紅旗を振り回し、異常なほどに盛り上がる。

もともと国家というもの、力をもった親分が、「ここは俺様の縄張りだ!」と、支配する範囲を枠で囲うことにはじまった。

『国』という、字は、□(クニガマエ)の枠で囲まれている。はるか昔、その境界線は、河や、砂漠や、山の稜線であった。

次にその小さな枠同士が、消滅、拡大を繰り返し、次第に国としてのカタチをつくっていく。
そこに、経済システムが生まれ、外からの圧力に対抗するため軍事力が生まれ、義務教育、裁判制度、医療制度などが生まれてきた。国家が営業をやってきた。

オリンピックの開会式で入場行進する選手は、営業するどこかの『国』に属すことになる。

国境線を簡単に消したり引いたりするわけにはいかない。それが『国境』というものだ。
しかし、この国境の枠を超え、国籍を変えオリンピックを目指す選手もいる。巨大な人口をもつ中国は特に多い。『海外兵団』と呼ばれて非難、恐れられてもいる。

国家の看板を背負って戦う選手と、プチ愛国心で盛り上がる表舞台の裏には、選手としてではなく、選手や大会を支える『国』の枠を越えた人々もいる。

スポーツやデザインの世界では、指導コーチは、自国の人間とは限らない。

入場行進でプラカードを持つ中国人女性をはじめ、開会式のイベントに出演する中国人のコスチューム・デザインは、日本人の「石岡瑛子」。大陸での様々な軋轢を乗り越えデザインの真骨頂を見せてくれるはずだ。

中国を代表する名アタッカーだった中華の英雄「郎平」は、中国での何不自由のない地位を捨て、アメリカ・ナショナルチームの監督として自国で開催する北京五輪へ乗り込む。

日本バドミントン界に旋風を巻き起こしている女子ペア、オグシオのコーチも中国人だ。

一方、中国に渡り、シンクロナイズドスイミング中国ナショナルチームを指導するのは日本人の「井村雅代」ヘッドコーチ。過去、日本のシンクロにメダルをもたらし続けたカリスマ指導者だ。

祖国に牙を剥くと形容されながらも、海を渡り、自分の理想の姿を追い求める指導者たち。オリンピックの試合終了の瞬間に、それぞれの夢をかけた「第二のドラマ」が完結する。
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by ogawakeiichi | 2008-08-07 11:41 | 南日本新聞コラム

数の宇宙観

f0084105_21525327.jpg五月十二日、中国・四川省で大地震が起こった。

いまから九年前のこと。まさにその震源地“汶川”から、チベット山地の東に広がる大草原地帯をとおり、シルクロードへ抜けたことがある。

勤務先である中国の美術学部の学生たちを引率していった“考察”という授業でのことだ。言葉の問題で、正確には、ぼくのほうが学生に引率されていたと言ったほうがイイ。

この授業、ひとつき近く、安宿を渡り歩き、人々の生活や風景を、スケッチ、映像、文章などで記録しながら移動していく。

三国時代の蜀の都だった“成都”からバスに乗りこむ。屋根にまで荷を満載したバスは、川沿いに迫る山塊の隙間のつづらおりの道を、上下にバウンドしながら進む。

当時、そのルートは、道路工事のため、いたるところで山を切り崩す作業の真っ最中。もうもうと砂煙を撒き散らし、急カーブを行きかうトラックとすれ違うスリリングな道だった。

バスの休憩地で、満々と水をたたえるダム湖の静寂を風景画で記録した。たぶん震源地“汶川”のあたりだったかも知れない。

この地域、地図を見れば一目瞭然だが、たくさんの山脈と渓谷が幾重にも連なる。渓谷の一筋、一筋に川が流れ、その流れは大河になりインド洋、南シナ海、東シナ海と、まったく違う方角へ分岐する。地理学的にも貴重な場所だ。

『プレートテクトニクス理論』なるものによると、遥か昔、南からやってきたインド大陸が、中国大陸にぶつかり、グイグイと食い込む力が現在も続き、気の遠くなる時間の流れの中で、溜まった力が地震を引き起こすという。

さて、毎朝チエックする中国のサイトで、四川地震の日付について興味ある記述を見つけた。数字に関する中国の宇宙観を垣間見ることができる。

『八』の数字は中国では古来より重要な意味を持つ。 日本でも「末広がり」といって『八』の字を喜ぶが、中国では、宇宙のすべては、陰と陽を「八卦」で組み合わせることによって生まれるとされてきた。さらに『八』の中国語の発音が、発展の「発」にちかく、繁栄も意味する。そんな訳で、『八』の字のつく、ナンバープレートや電話番号は、高値で取引されている。

この夏、開催される北京オリンピックは八年八月八日午後八時開催と、『八』の字がずらりと並ぶ。

こんな具合に中国人の『八』に対するこだわりは、半端ではない。

ところで、突然襲った四川の地震だが、中国のネットでは、こう続ける。
「地震発生の五月十二日の数字である五と一と二を足せば『八』になる。

さらに、オリンピック開催の八年八月八日の八・八・八の数字を掛けると地震発生日(512)になる。

さらに地震発生日からオリンピック開催まで、残り八十八日になる。」

「科学は、この偶然の一致をどう説明する?迷信は、ぼくらに何を伝えたい?そうだぼくらは、一致団結してこの困難を乗り切ろう!『八』の続く偶然は、 “太平の盛世”がやって来るってことなのさ!がんばろう。」と・・・。
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by ogawakeiichi | 2008-06-01 21:53 | 南日本新聞コラム