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彩遊記

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ogawa desing 島津家仙巌園ポスター記録

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by ogawakeiichi | 2006-12-21 16:58 | 只記録

桂林生活サイト記事・桂林是我的第二故乡

桂林是我的第二故乡
2002年6月26日 作者:王卫红 李晖 吴林佳

  ———记“国家友谊奖”获得者小川景一先生

  1989年至今,市科技局一共引进了27名为我市科教事业提供无偿援助的日本协力队员,其中有一名获得了“国家友谊奖”殊荣,受到了朱基总理的接见。“国家友谊奖”由国家外国专家局颁发,用来奖励为我国做出杰出贡献的外国专家。这位获奖者也是目前唯一获此荣誉的日本协力队员。他就是小川景一先生。
  小川景一是日本一名资深设计师,在平面设计方面有着深厚的造诣。1997年至1999年,小川景一以日本协力队员的身份,担任桂林旅游高等专科学校美术系的老师,在旅专师生们心中留下了美好而难忘的印象。
  今年5月,听说小川又回到阔别两年的旅专上课,在一个阳光灿烂的日子,我们前去拜访了他。

  “小川老师敬业、善教!”
  见到小川时,他正在为学生上电脑设计课。身着黑色T恤、灰白休闲裤,脚踏白色运动鞋的小川,神采奕奕。当我听说小川今年已经45岁,是全日本年纪最大的协力队员时,不由吃了一惊:他看上去比实际年龄年轻多了。
  不便打扰小川上课,我们先请几位师生谈谈对小川老师的印象。他们一致夸奖道:“小川老师敬业、善教!”
  在旅专师生心目中,小川老师是一个地地道道的日本式“工作狂”。他们回忆说,初到桂林时,小川的汉语只够应付简单的日常对话,为了克服语言障碍,小川拼命学习汉语,请来了家教,并时时向师生学习,在宿舍的墙上、窗上、床头贴满了写着汉字的白花花的卡片,裤袋里也塞满了这类卡片,一有空就拿出背读翻阅。功夫不负有心人,不到半年,小川已经能操一口比较流利的普通话和师生们交流了。
  把一些难以理解的专业词汇准确、通俗地传授给学生,是小川经常碰到的难题。为了顺利上好每一节课,小川特别重视备课,教案写得周到而详尽。晚上常常备课到深夜,早上不到6点起床,再备一次课,7点50分准时到教室,从不迟到。小川上课爱提一个沉甸甸的大包,里边全是上课用的专业书籍和资料,还有一本厚厚的日汉大辞典,以备随时查阅疑难问题。一次,好奇的学生拿他的包去过秤,哇,足足有7.5公斤。
  小川的学生说,小川老师上课,注重开发学生的潜力,有新意,我们喜欢听。他们最津津乐道的是小川的CI(企业形象)设计课在课堂上,小川采用了极具现代感并结合社会实际的模拟教学法,让学生自由组合成几个小组,将课桌拼在一起,象征性地组成不同的设计公司,然后进行CI设计竞赛。投标、设计、评比,学生们紧张得犹如亲临激烈竞争的市场,一堂课下来,学生们连称有瘾,收获大。在小川指导下,旅专不少学生的广告招贴、标志设计中标获奖。有的获庆祝自治区40周年大庆会标设计奖,有的获全区大学生艺术节二等奖,有的设计被全国旅游工艺品展和全国第十三届荷花节采用及中标。不少学生一毕业就被用人单位要走。旅专的老师们赞叹,小川为广西、为桂林培养了不少设计人才哪。
  1998年底,业绩出色的小川获得了广西外专局颁发的“金绣球友谊奖”。1999年国庆前夕,小川又喜获国家外专局颁发的“国家友谊奖”,并应邀赴京参加了国庆庆典活动,荣幸地与朱基总理合影留念。

“桂林是我的第二故乡”
  下课了,小川微笑着朝我们走来,一副斯文有礼的模样。
  我们笑问小川,时隔两年,汉语是否生疏了。他点点头说:“还可以吧。不懂说我就写,我的学生很聪明,他们会猜出来。”我问小川:“会讲桂林话吗?”他调皮地眨眨眼,一本正经地对我说:“你客哪凯?”我们禁不住大笑起来,小川也笑了,他的笑容带着一丝孩童般的纯真。没想到,小川这么幽默有趣。
  小川在日本有一家生意不错的广告公司,家里有妻子和3个孩子。我们问小川为何丢下生意、离开家人到中国当协力队员,小川说:“我喜欢中国!”“为什么喜欢?”小川沉吟了一会,“我以前来中国旅游过,不知怎么,当时我觉得自己很久以前是个中国人,觉得这里很熟悉很亲切,舍不得离开。”“那你喜欢桂林吗?”小川重重点头:“很喜欢!早就听说桂林的山水很有名,到了桂林,发现她比我想象的还要漂亮!”“家人反对你来中国吗?”小川说:“我太太说,只要我高兴她就高兴,孩子也大了,她可以照顾过来。”我们都恭喜小川有一个贤惠的夫人。
  小川说桂林不仅有令人陶醉的风景,在旅专教学,又可接触中国古老的艺术,比如他近年迷上的中国画,还可以与师生们尽情探讨自己喜爱的工艺设计,表达自己的设计理念,这样的环境,在日本是感受不到的。而且,这里还有与旅专师生们那份沉甸甸的深厚情谊。两年前结束协力队员任务后回国时,眼望送行的师生,小川忍不住伤神泪下,不能自已。回国后,常常打电话、发传真过来,问候同事和学生的近况。桂林,成了小川深深眷念的地方。
  这次回来,小川是以旅专名誉教授的身份在旅专执教,为期两个月。小川说,太短了,他正在申请成为明年来桂林的第一批“年长”协力队员。同去的市科技局的同志告诉他希望很大,小川连连点头称好,又露出孩子般的纯真笑容说:“我太高兴了。”
  小川说,他的家乡在鹿儿岛,那也是个风景如画的城市,他回到桂林,就像是回到了鹿儿岛,回到了自己的家乡。他认真地对我们说:“桂林就是我的第二故乡。”

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by ogawakeiichi | 2006-12-21 16:19 | NEW桂林

中華人民共和国安徽省・合肥商業銀行シンボル優秀賞

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             中華人民共和国安徽省・合肥商業銀行シンボル優秀賞
                     优秀奖-许孝伟 小川景一 李育洲
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by ogawakeiichi | 2006-12-21 16:10 | 中国デザイン

私的記憶整理・帝国主義1《日本の戦争》

f0084105_19162988.gifいつかまとめてみようと思っていた日本近代史。《帝国主義1》

1.時代は幕末から明治へと入った。外務大臣、副島種臣は、明治5年、日本とおなじように鎖国政策をとっていた韓国に対し国交をひらかせるきっかけづくりで軍艦春日を韓国に派遣した。韓国側はこれを恫喝だといい拒否した。
そりゃそうだ。なんで開国を迫ったのだろう?鹿児島を舞台とした西南戦争のおこる5年前だ。明治維新を成し遂げたエネルギーの勢いが、ちょっこら海外で試してみたくなったのか。

2.明治6年には“東莱府使”が日本人を夷テキと罵り、日本人とかかわった韓国人は極刑に処すべしと掲示。当然、日本側は激怒。西郷が征韓論を主張する。

以前の日本はこんなことで戦争の切つ掛けになるぐらい熱かったんだ。1969年ホンジェラス対エルサルバドルはサッカーの試合から戦争をおっぱじめた。


3.征韓論はおさまったにみえたが、日本は韓国に無関心ではおられなかった。明治8年江華島沖で軍艦“雲楊”が韓国の江華島守備隊と交戦。これが江華島事件である。この“威嚇”外交は成功し韓国は開国。日朝修好条約の締結となった。

ここから日本のアジア進出?侵略?が始まっていく訳だ。ただこういう動きは日本だけじゃない。そういう時代だった。
帝国主義ということばを使ったのはイギリス保守党のベンジャミン。ディズレリー。植民地を無責任な使い捨て、事業者のエゴで食い散らかすのではなく、国家で責任をもって、計画的、戦略的に経営せよということであった。ところがいまでは悪の権化的言葉になった。しかし当初は輝かし目標、国家スローガンとして各国が進んでいた。人はみえない未来に向かってあるく。国家も同じだ。日清戦争という国家がはじめて外国と交戦した戦争はいったいどこへ向かっていたのか、やはり世界の帝国主義の潮流にのっていたということなのか。(田原総一郎)

4.明治15年、韓国の兵士たちが、日本式の軍制改革に不満を爆発させ反乱をおこす(壬午事変)、つまりそのころには日本が韓国政府内に影響力をもっていた。韓国が開国して5年目のことだ。日本は軍事顧問まで派遣していたのである。壬午事変の反乱は兵士だけにとどまらず、貧民を巻き込んで、閔妃一族の邸宅を焼き払い重臣や軍事顧問の日本人将校を殺害した。そのころ韓国では大院君と、その息子、高宗・閔妃一族が反目しあっていた。
大院君×高宗・閔妃一族。大院君と高宗って親子だ。儒教の影響で親子関係に厳しい韓国でなんでこんなありさまだったんだろう?ぼくは、なかなか分かりにくい歴史の動きは、当時の権力闘争や利権争いを調べると大方理解できることに気がついた。要するに、欲が歴史を動かす。

5.当時の韓国は高宗・閔妃一族が権力を握っていた。しかし反乱軍の兵士は高宗・閔妃一族を倒し、大院君が政権を掌握。高宗・閔妃一族が頼りにしていた日本はといえば、日本公使館を襲撃され命からがら逃げ帰っていたのだった。それに対し清国は早々大量の兵をおくり反乱軍を鎮圧、高宗・閔妃一族による政府を復活させたのだった。
内が乱れると、それに乗じて外から油揚げをさらうような連中がいるってことだ。それとともに、内側にも外と提携して力をつけていこうとする連中もいる。内患外憂。

5.明治17年。親日派、金玉均は、駐朝鮮日本公使の竹添信一郎とともに日本で綿密なクーデター計画を練り、高宗・閔妃政府に対し、クーデターを起こした、これが甲申事変である。しかし、親日派のクーデターが起きれば、当然清が動く。ソウルに駐屯中の袁世凱率いる1500名が3時間で簡単に制圧。再び高宗・閔妃一族の政権が復活した。
金玉均は韓国では売国奴の代表らしいが、日本を利用したかっただけじゃないのかな。
それとも日本が利用したかったのか。どちらにしても利害は一致。


6.こうして韓国における親日勢力は一掃され、日本の対韓政策は足場をうしなうところまで追い詰められた。そしてここで、伊藤博文が登場する。伊藤が清国との和平交渉全権大使として天津にまででかけることとなる。天津での交渉相手は李鴻章。日本が仕掛けた甲申事変そのものは、失敗におわったが、天津交渉では以外にも望外の成果をえた
李鴻章の詰めの甘さが目立ちます。とくに交渉合意。《3項;将来韓国において何か変化があり、お互い、派兵するときは前もって通報する。》は、明治27年。全羅道にて新興宗教、東学党が乱を起こしたとき、日本が韓国に出兵する理由づけになった。いよいよ日本は日清戦争へと進んでいく。

8.明治27年。韓国の全羅道で、農民たちの反乱がおきる、これが東学党の乱である
そこで、高宗と閔妃一族は、東学党の乱が全国にひろまるのを恐れ、清国の袁世凱に反乱の出兵を要請。袁世凱はただちに出兵することにしたのだが、上記した天津条約にもとづいて、日本政府に出兵のことを通知してきた。

この時代、東アジアは混乱続きだ。一足先に明治維新を終わらせた日本が一番安定していたってことか。歴史に、Ifはないけれど幕末の「西郷―勝海舟」の会談で“江戸城明渡し”が決まってなければ、大混乱に乗じて欧米は幕府派と攘夷派にそれぞれの利権をねらい日本に上がりこんできていただろ。東学党とはキリスト教を西学とし、東に起こった学問である儒教、仏教、民間宗教などをあわせた新興宗教を東学と称した。それにしても、清朝末期の義和団や、最近のオーム真理教まで、宗教を隠れ蓑にした権力争いのパワーは侮れない。「戦争のアーキタイプは民族と宗教だ。」といった、知人の言葉がいまさらながら身にしみる。

9、そのころ日本では伊藤内閣が野党自由党に第一党を奪われ、命運もこれまでという状態に追い詰められていた。こうした状態を突破しようとすれば、無理にでも、外でことを起こすしかない。つまり外憂。そうなれば国内の対立など吹っ飛んで、誰もが愛国心、民族意識をかきたてられて国内は一丸になると思った。
自分の人気取りのため、国内の意思を愛国で一致させるってなんだか、低次元だ。それに踊らされる国民にも原因はあるが、愛国心って、言葉に出して言うようなものでもないと思う。愛妻家と同じ響きで背筋がむずがゆくなる。

10.外務大臣、陸奥宗光は「清国が出兵する以上、わが国も出兵するべきだ、さもないと韓国における両国のバランスがくずれてしまうと主張」」伊藤は出兵を決めた。
韓国では伊藤博文は韓国侵略の極悪人って聞いたのだが、強引に事を進めていたのは陸奥宗光だったのだ。
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by ogawakeiichi | 2006-12-13 13:51 | 歴史アブダクション

デザインメモ(未整理)

良いデザインは、ものごとの本質を
とらえ、しかしそれをむき出しにするのではなく、
美しいフォルムへと昇華させる。
すぐれたデザインの背後には、
必ずなにかが隠されている。
夜空をデザインしたのは誰なのだろう。
その向こうには、何が隠蔽されているのだろうか


アイデアを練り上げるとき、浦沢さんは
「レム睡眠」のような状態に入る。
「半眼」になり、夢とうつつの間を
彷徨っているうちに、一連のイメージのシークエンスとして、
ストーリーがばーっとあふれ出てくる
というのだ。

アイデアに行き詰まったとき、
しばらくソファに横になって眠り、
目覚めたとき、「あっ、できた」
ということがしばしばあったという
浦沢さん。

その方法論が、いつの間にか、
ある程度意識して遂行できるノウハウになって
いったのであろう。
茂木健一郎『クオリア日記』より


●デザイン的な頭のよさとは、いかに長期記憶に残せるかと、いかに揺さぶって記憶を組み合わせて表現としてだせるかの2点。

●頭のイメージを表現するのが、デザイナー、芸術家、評論家、思想家。
それらは、口をうごかしたり、手をうごかして表現する。口や手を動かす動作と頭のイメージの抽出を同時におこなう
同時性の訓練でそのコツをつかむことが大切だ。

●素敵なデザインを分析してみよう。隠されたなにかを発見できる

●デザインの基本は○□▽。これをつかって動物をかく。表情をつくる。

●自分のなまえの印鑑をつくろう

●自分のなまえのブランドロゴをつくろう。

●偶然を必然に変える。アルキメデス;風呂のお湯がこぼれる→比重の発見。ニュートン:りんごがおちる→万有引力の発見

●混沌から秩序を導く。分析→分類→長期記憶へ保存。

●資料収集→組み合わせ→ひっくりかえす→トレースしながらすこしづつ変化させる→色をかえる→→→オリジナル

●コンセプトの抽出;身近なことろからランダムに書き出す。

●意識のセンサーを研ぎ澄ます。①頭の中を動くカーソルを感じる。②自分の行動をトレースする。③有名人の行動をトレースする。

●行動→気づき→容認

●脳のなかではたくさんの情報が飛び交っている。二つの情報が出会うとき、すこしタイミングがずれただけで思いつくはず
だったアイデアも逃げてしまう。

●思考深度5を目指せ!集中力。まず1点に注視せよ。意識的に覚える訓練。反復。トレース。関連づけ。
分類。図表。図解。図版。

●日本を代表する事務所にはいれ、大きな仕事ができないと一生を棒にふる。

●デザインをからだで覚える。

●BIデザインを組み立てるには、まず身近なところからはじめる

●0.05秒で唸らせる。

●材料→下ごしらえ→調理→器えらび→もりつけ

●日本のデザイナーはことばを磨かない。デザイナーは言葉も磨け。

●たとえば、一個の火鉢や、コピーマシンをその空間に置いてみればよい。できの悪い空間は
たちまち火箸やコピーマシンを排除する。

●方法にひたむきなれ。方法の記憶を継続させろ。その方法の記憶を継続するには、民族や地域や業種や家族の中でどのように
記憶されてきたのか文脈を発見する。たいていはばらばらになっているから文脈として紡ぐ作業が要求される。
もうひとつはデザイナーは医師であってはならない。デザイナーとユーザーに共通する『仕方』というものを浮上させろ。

●主題を決める:たとえば『きまぐれさ』をもったペン

●本質的な機能を失わずに予知できないプラスアルファーをもったものがアイデア商品だ。

●キーワードをさがす。『きまぐれ』の本質を“動詞”“形容詞”であらわしてみる

●クエスチョンアナロジーの探索
『きまぐれ』-----動くもの→しゃくとりむし・くも・はえ
       ------びっくり→花火・チカン・噴水・地震

●クエスチョンバックグラウンドの探索
そこはどんな構造になっているのか・
なにがおこっているのか?

●クエスチョンコンセプションの創出
質より量
他人の尻馬に乗る
他人の意見を批判しない
自由奔放におこなう
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by ogawakeiichi | 2006-12-06 21:34 | 情報とデザイン

南日本新聞コラム・外国人教師

f0084105_12582844.jpgことしも年の瀬、師走にはいった。
といっても、こちらでは旧暦を使用するので、ちまたで言われる“先生も走りまわる忙しさ”には程遠い。(旧暦の年越しは来年二月十七日)。
ぼくの受け持つデザインクラスも旧正月の休み前まで、淡々と授業が続く。
毎年のことだが、ここ中国・桂林は、十一月の半ばをすぎると、それまで半袖で過ごせていたのが、降り続く雨で気温がグングンと下がりはじめる。半袖シャツからとつぜんコートへと衣替えすることになる。
教室の窓ガラスは、破れたままで寒風が吹き込むのだが、それでも学生たちは平気なようだ。
桂林の冬の到来を告げる雨が降り始めたころ、となりの湖南省でデザインの教壇にたつことになったJOCVの先生が授業を参観・実習したいと訪ねてきた。日本人が中国でデザインの授業をすすめるにはどんな方法でやっているのか見てみたいという。
ここ数年中国では、デザインの時代到来と、デザイン科を増設する学校が急増している。外人教師も語学以外、デザインや音楽、体育の分野でちらほらとみかけるようになってきた。外人教師が一応に苦戦するのが、専門用語の中国語だ。
ぼくの受け持つクラスはグラフィックデザイン三年二班・二十五名。平均年齢二十二歳。
湖南から来た日本人の先生は、このクラスで1週間ほど授業を参観・実習することになる。クラスに漂う雰囲気も、ちょっとした好奇心でにわかに騒がしくなる。 
さて、ぼくの授業だが、語学力の無さをカバーするため、毎日、教室にプロジェクターを持ち込んでスライドを見せながらすすめている。ちなみにある日の授業はこんな感じだ。
「さあ、いつもの観察力の訓練をはじめるよ!」(スライドを写す)
「これは北京オリンピックのマーク」(30秒マークを凝視したあと、スライドを消す。)
「さあ、記憶だけで、マークを模写してみよう!」「マークに潜む意味をみつけた人はすぐに描けるはずだよ。」
「このシンボルマークは中国・国内外から、二千人余りが参加したシンボルマーク競技会で決まった。じつはぼくも、参加した。二千倍の競争率だからねぇ。当然、落っこちたけどね。アハハ・・」
「どーだい、描けたかい?」(スライドを再び写す)
「審査会で決まったマークは、中国伝統の落款の技法で“舞い踊る人”をシンボル化しているね。」
「よく見ると巧みなテクニックを使い絵柄の中に、北京の《京》の字が潜んでいるよ」と、スライドを見せながら、こんな具合だ。
さて、湖南から参観にやってきた日本人の先生のことだが、ぼくの授業をみて自信がついたのか、研修の総仕上げとして、得意とする“似顔絵の描き方”を学生たちに伝授して桂林をあとにしていった。クラスにとっても、ぼくにとっても、ちょっと新鮮になれた1週間だった。
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by ogawakeiichi | 2006-12-02 13:00 | 南日本新聞コラム