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彩遊記

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中華のナショナリズム



新儒学は、自己愛から家族愛、郷土愛をグングン広げて国家愛から大一統への道を説く。出発点である自己愛は、天性の如く一般の中国人なら誰もがもっている。なかには自己愛だけで生きているようなヤツも大勢。。。いやほとんどが自己愛のカタマリだ。

自己愛→家族愛→宗族愛→郷土愛まで、中国人の愛は比較的強い絆で繋がっている。しかし、郷土愛→国家愛との界には、愛の抽象度を隔てる「高い、高い壁」が存在する。

古代中国農耕社会において、国という概念は希薄だった。一族の神を祭る拠り依の周囲に一族の集団が、ポツンポツンと住んでいた。大海のような大陸で、拠り所としていたのが「社稷の壇」を中心とした農本主義、血統主義、系図主義である。それは現在も根強く郷土愛のミームとして残っている。

家族愛・宗族愛は、自然発生的に生まれた相互扶助の関係だ。家族愛・宗族愛と国家愛の間のに「高い、高い壁」が存在するのは、国家と直接は利害関係のない民であることが起因する。国民の80パーセントである農民はそれに近いと思われる。だからこそ、国家はバラバラの砂のような民に向け、愛国教育という仕掛けが必要だった。農村へ行くといまでも壁にかかれた文革の名残のスローガンや一人っ子政策スローガンを見ることができる。抽象度の違う郷土愛と国家愛との隙間を埋めるものとして、愛国教育が必要になってきたわけだ。

中国で賄賂が多い理由として、日頃、無関係な国家とどうしても関係をつくらなければならないとき賄賂があるという考え方がある。日頃、関係な無かったものに対し礼を尽くすということでもある。

国家愛のナショナリズムを喚起する方法は副教材や国語に出典される物語、マスメディアと色々だ。

皇軍(日本)対解放軍(共産党)をテーマにしたテレビドラマから、反日仕立てのコメディーに至るまで様々なかたちであわられる。とくに江沢民時代は、毎日どこかのチャンネルで見ることができた。
しかしこれを反日というのかは議論の余地がある。この点で中国人と幾度も論戦した。

中国人曰く、反日として限定した存在は無く、歴史的事実を忘れないための愛国教育だという。

反日を愛国に置き換えるロジックにしか見えないのだが、日本による対華二十一カ条の失敗と、その後の長城を越えての暴走さえなければ・・それに加え、地上戦というリアルな敵対状況の経験記憶は、しっかりと次の世代に語り継がれている。

中国では、これらが中国人の日常の風景として存在する。

ビデオ屋のおねえさんに、最近おもしろいビデオない?と尋ねた。僕が日本人だと知りながら、まったく悪気なくこれは面白いよ!と抗日モノをと勧めてくれたりする。、テレビで放映される、日本軍と共産軍の闘いも、彼らにとって玉と善玉の戦いとして愉しむいわば、デストロイヤー対ジャイアント馬場の試合のような見方らしい。だから即、日本人このヤロ~と攻撃の対象になる訳ではない。

しかし、こうしてメディアを通じナショナリズムのアンカーは無意識のうちに大衆に埋め込まれていく。

ナショナリズムは《公定ナショナリズム》と《大衆ナショナリズム》に分けられる。

《公定ナショナリズム》バラバラに発散する大衆を、公のもとへ収束させる。その収束に愛国教育を使用する。

《大衆ナショナリズム》は大衆から沸き起こる感情的な愛国心のことである。責任のない大衆がモンスターとなり暴走する危険性も秘めている。ナショナリズムの世界では、より過激な見解が正しいものとなるので、扱い方はやっかいだ。中国政府は、最近でもカルフールへの反仏デモで大衆のナショナリズムの扱いに四苦八苦したようだ。

05年の反日デモは日本の常任理事国入りを阻止したい中国が《公定ナショナリズム》でのトリガーを引き、《大衆ナショナリズム》に植込んだ愛国のアンカーを刺激して反日デモは起きたと見てよい。

当時、ぼくの住むエリアで反日デモ発生と報道され日本からのメディアの電話取材が煩かった。

じつはそのとき《公定ナショナリズム》側の公安が《大衆ナショナリズム》から我々を守ってくれた? 茶番劇だ。

でもそこにいた公安警察官が《公定ナショナリズム》の仕掛けなど知る由もない。上からの指令で来ただけだ。

当時の反日デモは結果的に《日本・大衆ナショナリズム》を刺激し。小泉元首相はそれに乗っかり今後は《日本・公定ナショナリズム》の靖国カードを使っていく。大衆の空気は徐々に嫌中へとなっていく・・。その後は、ブッシュと仲良しこよしだ・・、これも茶番か?

いまでは、反中の同調圧力さえ存在してきた。

しかし、日本よ、これでいいのか。

中国大衆に深度のある愛国心は存在するのか。

中国の政権に真の国家愛は存在するのか。

国際金融資本をバックにした米英のインテリジェンス戦略は断然うまい。
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by ogawakeiichi | 2008-05-08 14:38 | アジア史&思想

中華と周縁

f0084105_2381077.jpg古い話だが、いまから二十五年前、ぼくはチベット亡命政府のある北インドの街、『ダラムサラ』にいた。

山の斜面にある寺院のような極彩色の図書館の二階では、世界中から来た画学生が仏教画を学んでいた。

ある日、難民として世界に散らばっているチベット人が集まり、国民体育大会なるものが開かれた。そこには国土の無い政府があった。

小じんまりした街を歩くと、チベット仏教の独特のお経、鐘や太鼓やラッパの音がどこからともなく響いてくる。

街角でスケッチを始めても刺すような視線を感じるインドと違い、インドに居ながら街の喧騒から逃れられる、ほっとできる場所でもあった。

いまから十年前のことになる。こんどは亡命政府の故郷であるチベットの省都『ラサ』にいた。
この町は富士山とほぼ同じ三千七百メートルの高さにある。ダライ・ラマが亡命前に住んでいた

「ポタラ宮殿」への階段では、高山病からくる頭痛でなんどもなんども座りこんだ。
やっとの思いでたどり着いた宮殿の屋上で、スケッチブックを取り出した。屋上から見る“聖地・ラサ”は、ここはチベットなのか?と思わせるほど、中国化していた

十三階のポタラ宮殿は部屋数が千室以上、公開されていない部屋も多数あるという。チベット高原・ラサの街のどこからで、も見える巨大戦艦のような建物だった。

中国のネット新聞、人民中国によると「・・人口の五パーセントに満たない官僚・貴族・上層寺院が、ほぼ全ての土地・草原・山林と大部分の家畜を所有し、人口の九十五パーセント以上を占める農奴や奴隷に対して非常に残酷な統治を行っていた。・・」と書いている。

ぼくの中国の友人は、「チベット族は兄弟だ。ダライ・ラマ一派から奴隷にされていたチベット族を、共産党の人民解放軍が救い出した」と言う。長野での中国人留学生へのインタビューでも「チベット族は兄弟」と言っていた

傲慢にも受け取りかねない、こう言い切る根源を知りたくなった。

中国の人々の思想の深層を古代から流れているものに、高校の頃、漢文で習った『孔子』の儒学がある。

儒学の流れは、「自分を磨き、家族を大事にして、国を治め、世界を平定する『朱子学』」という思想になる。

「弟よりも兄を、兄よりも父親を、父親よりも国王をというふうに、つねに年上の人を重んじ、目上の人を重んじなさい」という教えでもある。

古き時代の日本的家族の郷愁を感じさせる。江戸時代、日本は中国をモデルにして国のしくみをつくってきた。とくに孔子の考えを発展させた『朱子学』をヒントにしていた。そのせいかもしれない。

『朱子学』は、自己愛から家族愛、郷土愛、そして国家愛から大統一へと向かっていく。軽度の場合は笑いあえるが、極めつけの愛は、みぐるしい暴力沙汰とも背中あわせだ。

チベットの問題は『朱子学的な“愛”で迫る中華と、中華に対する、周縁チベットの反発』そんな気がする。
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by ogawakeiichi | 2008-05-02 23:13 | 南日本新聞コラム

桂林の客家

f0084105_232973.jpg 華南の桂林から、おんぼろバスに揺られ、さらに三輪オートバイで尻と背中に衝撃を受けながら約一時間。同僚の中国人美術教師とよくスケッチに通った村がある。

 村の周囲を水路が流れ、そこではアヒルが泳ぎ、村人たちは、野菜を洗い、洗濯をし、子供たちが水と戯れる大陸的な風景がそのまま残っている。

 また、この村には水滸伝にでも出てきそうな、アウトローたちが出入りした砦(とりで)の雰囲気を醸し出す城門がある。もちろんスケッチには絶好のモチーフだ。

 異民族の侵入を防ぐために城門をもち、城壁でグルリと囲み、碁盤のような都市づくりを残す街は北京や南京、西安といった代表的な都市をはじめ、それほどめずらしいことではない。

 中国語では「街」のことを「城市」と呼ぶ。「街」そのものが「城」ということだ。

 漢字の「国」は、字画をみてもらえばわかるが、「玉」のまわりを、城壁を示す「クニガマエ」が囲む。すなわち古代中国は城壁の内側が城(街)であり、国だった。
 
 しかし小さな村に城門があるのはそう多くはない。そのうえ、スケッチに行った村は、最近まで、部外者が侵入できないよう城門を閉めていたという。
 ちょっと謎めいてきた。スケッチをよそに、その謎解きにはまった。

 村の中を歩く。村人同士の会話は、まったく聞き取れない。南方系の中国語も、十年近く住むとなんとなく分かるものだが、まったく分からない。一緒にいった中国人の同僚さえ聞き取れない。よくよく聞いてみると「客家」(ハッカ)と呼ばれる人々が住む村だった。

 じゃあ、この「客家」ってなんだ。

 中国は全体の%を漢族が占め、残り8%を五十五の少数民族が構成する。「客家」は少数民族ではない、ちょっと不思議な漢族だ。

 「客家はその名が示すように中国南方の土着の人々ではない。本来、北方の漢人であったものが、歴史上、主に五回にわたって南下してきた人々である。南下の理由は戦乱、飢饉(ききん)、政治不安から逃れるためだ」(講談社新書・高木桂三著「客家」)という。

 その後、華南の山岳地帯にスケッチに行くたび、辺鄙(へんぴ)な場所には、ミヤオ族、ヤオ族など少数民族とともに独特の文化を持った「客家」の集落が、点在していることを知る。

 客家人は、その後、全世界へと散らばっていくのだか、この血のネットワークたるや表・裏社会とも、これがまた凄(すさ)まじい。

 ある日、桂林でテレビを見ていた。突然、聞いたことにない言語のニュースがはじまった。華南地方限定の「客家語ニュース」だったのだ。

 聴き慣れないニュースに耳を澄ますと、天安門の映像とともにペキン、ペキンと聞こえてくる。実は、この「ペキン」。日本人なら、なにげなく使っているが、本来、中国語も英語も「北京」を「ペキン」とは発音しない。「ベイジン」だ。

 じゃあ、なぜ日本語と客家語は同じ発音なのだ?…。あのスケッチ以来、気分はすっかり名探偵コナンになっている。
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by ogawakeiichi | 2008-05-02 23:03 | 南日本新聞コラム

朱舜水とは?

f0084105_22475837.jpg日本で始めて「ギョーザ」を食べたのは、どうやら水戸のご老公、黄門様(徳川光圀)。
「福包(ふくづつみ)」と呼ばれる「ギョーザ」を食べたという記録が残っているらしい。

いまから約三世紀ちょっと前のこと大陸からやって来た『朱舜水(しゅ・しゅんすい)』という学者に教わったという。

この『朱舜水』とはナニ者か?
『朱舜水』の研究は、日本ではまことに遅れているらしい。

ぼくは、ひょんなことから、中国語の文献探しの命を受け、それまで全く知らなかったこの人物の歴史に立ち向かう羽目になった。

きょうはその『朱舜水』と、その周辺のことを書いてみる。

ときの中国大陸は、明の末期。領内では流賊が立ち回り、領外からは異民族進入に脅かされ、ついに明は滅亡へと向かっていく。

『朱舜水』は明の復興を胸に、大陸沿岸、日本、ベトナムと東アジアの海を十数回の往来を経て方策を練るのだが、明の滅亡とともに九州・長崎へと亡命してくる。六十歳をもって日本へ帰化。

世界史がアジアを揺さぶり始めた時代だ。江戸の幕府は鎖国をもってそれに対処する。

『朱舜水』が日本へ亡命してきたのはちょうどその頃のことだ。

激動する東アジアの波濤を越えた大義の学者『朱舜水』亡命のうわさは江戸まで届く。
かねて学問に興味津津の黄門様は、『朱舜水』を招き入れ、彼が亡くなるまでの十七年の間、歴史という流れを語り合う。
水戸藩は日本の歴史における正当性の問題に立ち向い、それは歴史書『大日本史』となっていく。

振り返ってみれば、大陸からの亡命者『朱舜水』は、尊皇攘夷、水戸学から、明治維新へと連なる時代へのエンジンになっていた

上海から高速道路を南へ下ること約三時間、紹興酒で有名な『紹興』の街へ着く。その近くで『朱舜水』は生まれた。

数年前の夏のこと。骨董の中国家具を求めて、ギャラリーのオーナーと、この街をたまたま訪れた。郊外の薄暗い体育館のような広い倉庫には、中国全土から集められた年代物の家具が立ち並ぶ。  

長い歳月で傷んだ部分の修復を経て、アンティックな家具として、東シナ海への船出を待っていた。

この東シナ海をはじめて闊歩したのが「倭寇」という集団だ。
「倭寇」という名称は、中国と韓国の史料にでてくる言葉であるが、日本を拠点とする日本人とは限らない。

国籍など持たない違う場所の出身の者たちが国家でない東シナ海を舞台に連帯した無国籍のアウトローの集団だ。

国と国のフレームをまたぐアウトローの流れは日本人の母と中国人の父との間に生まれた『鄭成功』(近松の浄瑠璃・国性爺合戦モデル)や『朱舜水』にも繋がっていく。

最近、ぼくの頭の中は『朱舜水』をきっかけに、国と国との明と暗、光と闇。それに属さない国境を越えるアウトロー。おまけに冷凍ギョーザの問題が絡み合い、国家とはなんぞや?と、考え込む日々だ。
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by ogawakeiichi | 2008-05-02 22:50 | 南日本新聞コラム