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彩遊記

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<   2009年 04月 ( 19 )   > この月の画像一覧

老子

f0084105_11275174.jpg中国の思想を丸呑みしようと思い立って、5年が過ぎた。ひさしぶりに一番好きな、老荘思想のなかの『老子』を読み返しているのだが、これってかなり危険思想じゃないのかな?と、思うようになってきた。もちろん、ぼくにとってそれはそれでカッコイイのだが・・

老子の思想をごくごくシンプルに言うと、「人間にとって、真に主体的な生き方というものが、はたして存在するのか?存在するとなれば、それはいかにして可能なのか?」人為を廃し自然であることが道に通ずるとし。このような態度を無為自然といい、老子はこれを処世から統治まで全てに適用すべきだと考えた。

老子といえば、タオイズムだ。タオイズムといえば仙人。
自然法則に従った思想だから,ナチュラルなガイア的嚆矢の思考なのだが、
よくよく見ると負の力を溜め込み、ある瞬間に一気に相転移させる強力な生存術である。余談だが建築家・隈研吾の言う、『負ける建築』もどうやら、老子的だ。

老子第36章 将欲歙之には、『ものをゆるめようと思う時には、しばらく反対にこれを張る。弱くしようと思う時には、しばらく反対にこれを強くする。廃れさせようとする時には、しばらく反対にこれを興させる。これを奪おう思う時には、しばらく反対にこれを与える。』とある。

このことを『明』をぼかすと言う。知覚に基づく判断は『知』と呼ばれるが、道を認識する能力は、一般的な知と区別して、『明』と呼ばれた。

人間の知覚は、現象の表面をとらえることができるだけである。対立する事物の一面を知ることができるだけである。したがって、知覚による判断に固執する限り、道を認識することは不可能である。『知』の限界を悟ることこそ、真の認識への第一歩と考えられた。

まず、やりたい意識のベクトルに反動をつけてやる。これが自然の摂理だと説く。この摂理があるからこそ、柔よく剛を制すことができる。水から飛び出せば魚は死に、武力を誇示すると国は滅びる。奪わんと欲すれば、しばらくこれに与える。

酷薄と思わせるまでに冷徹な一節だ。しかし、冷たくみえるそのものが、自然の法則なのである。

自然の法則は、人間を介することによってのみ、意味を持つ。
用い方によってはこれほど危険な思想はない。
しかしそれがまた、老子の魅力なんだよなぁ。

天地が生まれる以前に、すでにあるモノが存在した。
そのモノは、混沌として形容しがたく、感覚で捉えることはできない。
他に依存せぬ独立の存在で、その働きは時間空間を超越して止むことがない。老子はこれを『天地の母』と考え、ナズケテ『道』と呼ぶ。

『老子』は逆説を多用し、非体系的で随所に矛盾や飛躍が見られるため難解な部分も少なくないが、その深遠な思想は現代に至るまで影響を保ち続けている。

謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-04-29 11:30 | アジア史&思想

ユビキタス

携帯電話の人口普及率は80%を越えた。この数字は嬰児から、高齢者も含めた数字だから、現在,日本での普及率はほぼ100%と言っても過言ではない。現在「ケータイ」は音楽、動画、カメラ、財布機能等、あらゆる情報交換・収集・享受機能を備えたモバイル情報メディアとして、擬似身体の一部として利用されている。

マーケティングの経験則では、モノの普及速度は世帯普及率が10%を超えると急速にアップする。固定電話は世帯普及率が10%を超えるのに75年。FAXは19年、パソコンは13年。携帯電話も15年もかかったのだが、インターネットはわずか5年しかかからなかった。その後の携帯電話における急激な普及率アップは携帯電話に『インターネット』、『メール』の機能を組み込んだのが大きな要因だ。

近年、「ユビキタス」という言葉の頻出度が高まっている。元来ユビキタスとは、近代ラテン語に登場する神学、とくにキリスト教の概念で「イエス・キリストが、時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」をさす。ごくごくシンプルに言えば『神はあまねく存在する』といういことで、もともとは「同時にどこにでも存在する」というより、「何時でもどこでも存在する」という意味である。

一方、現在の意味のユビキタスを最初に概念化したのは、1988年に「生活環境のあらゆる場所に情報通信環境が埋め込まれ、利用者がそれを意識せずに利用できる状態」をユビキタスコンピューティング(略してUbiComp)と定義したゼロックス研究所だ。

ゼロックス研究所は、家電製品・衣類・住居・施設・道路など、ありとあらゆる場所に情報通信技術が存在する状態こそが「第3世代の利用形態」だと予想した。

インターネット環境やモバイル環境が急速に充実した2000年頃からは、『ユビキタス』というこの語が「実現可能な概念」として再注目されることになり、現在に至る。

具体的にそれはどういうことかというとコンピューターの利用形態を3世代に分けて、
1.【メーンフレーム】/1台の大型コンピューターを多人数が使う
2.【パソコン】/1台のコンピューターを一人が使う
3.【ユビキタスコンピューティング】/一人を多数のコンピューターが取り巻く
と説明した。

ユビキタスとは、それが何であるかを意識させず、しかも「いつでも、どこでも、だれでも」が恩恵を受けることができるインタフェース、環境、技術だ。 国産OS「TRON」の開発者として知られる、東京大学教授『坂村健』もまた、1980年代初頭に同様の概念を提唱していた。

■坂村は、ユビキタス情報社会を
================
●「集中」から「分散」へ
大型コンピューターからワークステーション、パーソナル・コンピューターへ

●「PC」から「非PC」へ
PCから携帯電話、ディジタル・カメラへと手段が広がる

●ネットワークに接続されていることが大切
携帯電話自体の容量よりも、ネットワークに接続され、高機能のサーバーがあることが大切。
===
と言う。

これからの時代、携帯電話、ディジタル・カメラだけでなく、あらゆる家電製品のみならず、家具、壁、あるいは道路などがコンピューターが内臓されていく。

今、東京では『東京ユビキタス計画・銀座』というプロジェクトが進んでいる。これは、銀座地区の道路、建物、地下鉄の通路などにコンピューターが埋め込まれ、歩行者はナビを使って、地下街を迷わずに歩いたり、今日1日歩いた道筋を確認できていくというものなのだ。

たとえばだが、さらには、コーヒーカップに定期的に何らかの電波が当たり、カップに電波が当たると,カップ内の情報はすべてデジタル化され,情報がインターネット接続機器に信号として渡される。信号を受けとった機器はそれをイベントとしてCPUを回転させ,カップ内のコーヒーの温度などを計算し,適切な温度まで温められるエネルギーを供給する命令信号をカップに送る。ようになっていく。

人や状況によって変化していくダイミックな機構を有し、モノや環境に溶け込んでいくユビキタスコンテンツは、衣食住遊の領域において、コンテンツ同士がネットワークでつながり、ユーザエクスペリエンスの蓄積や連動を可能とさせるコンテンツだ。

このような領域におけるインタラクションデザインに対して、従来のデザイン理論のみでは不十分であり、ユビキタスコンテンツとして、新たなデザイン理論を構築する必要に迫られてきている。まあ、おいらにそちらへの指向性はないが、それはそれとして記録しておく。
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by ogawakeiichi | 2009-04-28 17:19 | 情報とデザイン

九州とデザイン

グラフィックデザインとか○○デザインとかなぜ区別したがるのか、本来は全を見渡せないとデザインなどできうるはずはない。荒っぽく言えばそれは表層の部分であり、深度を求める本物のデザインと呼ぶには躊躇が伴う。

何時のころからか分業化が進み、デザインが分節化されてきたわけだが、どうやらバウハウスがドイツからアメリカに移り、資本主義とガッリチ結びついた頃の遺産だろう。

カタチを「スタイリング」するデザインではなく、デザインとは、歴史において人間が蓄えた環境やモノづくりの智慧に触れていくこと。そこを今、問い直していかねばならない。

これからの時代、役割としてのデザイナーは終わり、デザインが世界をリードするものになっていく。たとえば、ここに、大地から木が育っているとしよう。これまでその木の『実』が利を生むためのデザインを考えていた。

だが、木や土壌の水準を決めるのは、「場当たり的欲望からのデザイン」であり、そのマーケティングは、大衆の欲望水準を探る作業だ。ここでのマーケティング法とは、腹に詰めるだけつめるための方法を考えることが主体である。その因果に従えば、腹に詰め込めば、詰め込むだけ腹は大きくなり、身体として歪がでてくる。そんな悪循環、悪の連鎖を生み出していた。

果実の生る木の品質、土の品質のベストな状態が保てないことには、良い実がなることはない。さらに身体との関係を共振させることを主体にしなければ逸品は生まれない。すなわちそれらをモーラできる鳥の目と虫の目の両方を備えたデザイン、全く関係ないことを結ぶデザイン。そんな行為がこれからのデザインだ。

さて、日本をよくよく見渡してみるとモノづくりの資源は、日本独自の「美意識」には独自の特徴がある。それは、茶の湯とか古美術の世界だけではない、コミュニケーションの原型にも現れている。古来日本は、「八百万の神」と言われるほど、山や田、里や海、あらゆるところに「フロートする神」の存在があると考えられてきた。草の葉も神がおり、米粒ひとつには、七人の神がいる、といった具合だ。自然を畏怖し、敬い、結びついて、どこにでも神がいた。

そこに、神を呼び入れる四本の柱で囲われた、「代(しろ)」という空っぽの場所をつくった。それに屋をかけ、社(やしろ)とした。

空(ウツロ)中に、客神を招く願いとともに、あっちと、こっちを結び、大衆が祭りの場として集まるコミュニケーションのアーキタイプ『神社』というシステムが出来上がっていった。

世界地図を90度回転させると、ユーラシア大陸の一番下に日本がある。世界中の文化を受け止める場所。ある情報文化はある母型をもち、母型の上に発達する。つねに事態は移動からはじまり、着せ替え、乗りかえ、重ね着と姿を変えていく。ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立てると、日本の位置は様々なルートから多様な情報を受け入れ、混沌を引き受け、バランスをとりながら一気に融合させる相等にハイブリッドな、全ての玉を受け入れる最下端の受け皿である。

彼方からの「記憶の遺伝」を留める九州は、ざわめく時代のキザハシを捉えそれに対処するカマエを無意識に体得する場である。「日本デザインの依り代構造」の最先端なのだ。
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by ogawakeiichi | 2009-04-27 14:27 | アジア史&思想

鹿児島情報資料・改造社

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山本実彦・あっと九州より
山本実彦は、明治十八年(一八八五年)鹿児島県薩摩郡川内(現在の川内市)に住む山本庄之助、千代の四男一女の長男として生まれた。家は数代前から集落を取り締まる地位にあったが、明治維新後は傾き、破産状態だった。
人一倍向学心が強かった実彦だが家計は苦しく、ようやく進学した中学も3年の時に退学。実彦の能力を高く評価していた校長に惜しまれながらも、代用教員として沖縄に渡る。十六歳だった。実彦は本土の小学校教員の給与が十円の時代に、沖縄の代用教員を務めながら三年間で百円もの貯金をした。徴兵検査のため鹿児島に戻った実彦は、貯金を父母に渡して上京する。大学を卒業後の明治四十一年(一九〇八年)、やまと新聞に入社。明治四十三年(一九一〇年)特派員として一年余りロンドンに赴任した。

帰国後、実彦は東京毎日新聞の経営を引き受け社長に就任する一方、東京市会議員選挙に出馬して当選し、政界への第一歩を踏み出している。東京毎日新聞の経営にあたったのは4年間だった。その間にシーメンス収賄事件が起きた。時の総理は山本権兵衛。実彦の郷里の先輩だった。

「その関係のせいで筆鋒が鈍り、信念を持った記事が書けなかった」と彼は後に振り返っている。ジャーナリズムに身を挺するには政治家と関係を持ってはならない。彼は東京毎日新聞を売却する。

大正六年(※一説に大正四年)山本は衆議院総選挙に鹿児島から立候補したが、選挙運動中に事実上の台湾の主権者・林本源一族に絡む収賄事件「台湾事件」に巻き込まれ、台湾総督府に検挙、護送されてしまう。結局半年後に無罪釈放となるのだが、その間に選挙は終わっていた。傷心の彼はシベリア旅行に出かける。途中鉱山利権について関心を持つ久原鉱業という会社の幹部から調査を依頼され、実彦は旅行の後、約六万円の謝礼を手にする。


■「改造」出版

大正七年(一九一八年)、南品川浅間台に居を構えた実彦は、再度の代議士出馬を考えていた。しかし、次期選挙まで遊んでいるわけにはいかない。東京毎日新聞時代の友人や知人が集まり、彼のジャーナリストとしての才能を生かし、雑誌を創刊しようということで話がまとまる。

当時は雑誌主宰者の個人的思想を強く打ち出した雑誌が多かったが、読者数には限界があった。加えて、山本は学者でも思想家でもない、一人のジャーナリストである。政治、経済、社会、文芸、科学などに関する評論や随筆、創作などを総合的に掲載する「総合雑誌」にしようということになった。雑誌名は斬新な「改造」に決まったが、創刊メンバーは皆それぞれ新聞社に在籍し、雑誌出版に関しては素人だった。それでも、大正八年(一九一九年)四月三日、雑誌「改造」の創刊号が市場に出た。初回出版部数は二万部。その六割以上が返品された。二号、三号も売れなかった。実彦は廃刊を決めた。

これに反対したのが、東京毎日新聞の横関愛造と秋田忠義だった。「四号だけ自分たちに編集を任せてください」。編集方針を変え、社会思想を中心にしたものにしたいと訴えた。実彦はこれを了解する。

四号は「労働問題・社会主義」号とした。当時の雑誌は治安警察法や出版法で厳しく拘束されており、かなり思い切った内容だった。そのため、事前に内務省警保局にお伺いを立てたり、役人が敬意を払う帝大教授に絞って執筆を依頼するなどの配慮もあった。その間実彦は一度も編集部に顔を出さなかったという。下手をすれば、自分の政治生命すら失うことになるかもしれない。それでも、任せると言ったからには任せきるのが実彦だった。こうして出版された四号は、発売二日で三万部が売り切れた。その後二年間、「改造」はほとんど売り切れの状態が続いた。世は社会主義運動の啓蒙期だったが、一方で政府の締め付けは厳しく、発禁と背中合わせの状況だった。編集部の内状は決して楽ではなかった。

このころ、「改造」はキリスト教の牧師、賀川豊彦の自叙伝風小説「再生」(後に「死線を越えて」と改題)を掲載。貧民窟での伝導活動を経て、社会問題に関心を持つようになったという賀川の作品は、それまでの文学とは異質で、編集会議でも不評だったが、実彦は掲載を決めた。連載開始後も、他誌の編集者や作家からの評価は散々だった。しかし、読者からは次号の掲載が待ち切れず問い合わせが相次ぐ。「死線を越えて」は、インテリ層でなく、一般大衆の強い支持を得たのである。

実彦は、連載を四回で中止し、単行本として出版することにした。改造社の処女出版である。相変わらず高名な作家からの評価は低く、社内にも反対の声はあったが、発売に踏み切ると予想以上の売れ行きで、最初の年は二十万部、一年後には八十万部、最終的に百万部が売れた。

大正十年正月号からは志賀直哉の「暗夜行路」を連載。「改造」創作欄の評価は上がり、武者小路実篤、里見 、谷崎潤一郎、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、室生犀星などの作品も掲載される。当時の「改造」は、一度作品が掲載されるだけで作家として認められるほど権威ある雑誌になっていた。


■円本で出版界に衝撃

日本全土に大きな打撃を与えたのが大正十二年(一九二三年)の関東大震災だった。「改造」に関していえば無名の紡績工、細井和喜蔵の「女工哀史」が三回の連載のあと単行本になり、「死線を越えて」以来の好調な売れ行きだった。が、発禁もあり、経営状態は楽とはいえなかった。この危機を救ったのが円本の「現代日本文学全集」だった。当時一冊十円の本を、円本は一円で販売した。これは、一社員が、「震災で本が焼失したが、一般読者には高価で買えない。安い全集が出版できないか」と言ったのを実彦が早速実行したのだ。日本出版界を揺るがすほど画期的な企画だった。第一回配本は大正十五年(一九二六年)十一月。これが、売れに売れた。当時経営難にあえいでいた他社も相次いで円本を出版、それぞれ危機を脱した。円本の出現は出版界の革命と言っても過言ではなかった。
 
無名の林芙美子に目をつけ原稿を依頼したのも「改造」だった。そのころの林芙美子は着る着物さえ売り尽くし、赤い水着を着ていた。そこに訪れた編集者を前に赤面したというエピソードが残る。また、青森の教員だった石坂洋次郎の「若い人」も出版、たちまちベストセラーになり、作家石坂が誕生した。火野葦平の「麦と兵隊」は百二十万部売れた。「改造」が、そして円本が出版界に残した足跡は計り知れない。

■アインシュタインを日本に

「死線を越えて」で経済的にうるおった実彦は、バートランド・ラッセルを日本に招いた。ラッセルは第一次世界大戦に反対して投獄されたイギリスの哲学者で日本政府が来日を許可するか危ぶまれたが実現。ラッセルは学者や思想家との懇談会に出席、慶応義塾大学のホールで講演もした。会場には警官も多数来ていたが、数理哲学や新実在論哲学などの予備知識がないと理解できないような内容だったので、どこまでが危険思想か理解できず、講演中止を免れたのではないかといわれている。

このラッセルが「ニュートンにも相対立する偉人」と評したアインシュタインを大正十一年(一九二二年)に日本に招いたのも実彦だった。しかし、相対性理論が理解できる者は日本にはほとんどいない。それでも、日本の科学界に刺激を与えることができればと、改造社は旅費滞在費から謝礼までの一切を負担した。アインシュタインは東京、仙台、京都、福岡で講演。どの会場も立錐の余地もないほどの盛況だった。日本の物理学界に与えた影響も大きかった。当時まだ京都の中学生だった湯川秀樹もこの講演がきっかけで、物理学への道を決めたという。

「改造」には、ラッセル、アインシュタインをはじめ、サンガー夫人、バルビュース、ゴルキー、ロマン・ローランなど世界的に著名な人々の論文が掲載された。なじみのない海外の文化や思想に触れることができるのも「改造」の大きな特色だった。

「改造」は、日本の思想界や文学界に大きな業績を残しながらも、取り囲む環境は悪化する一方だった。時局雑誌として内容は戦勝祈願するものが増え、ついに国家の言論統制のもとに昭和十九年(一九四四年)六月号で廃刊する。戦後復刊するが、昭和二十七年(一九五二年)七月一日に実彦が死去した後の昭和三十年に終焉を迎えた。

実彦の魂は、故郷川内市の泰平寺に眠っている。改造社が大きな成功を収め、出版人として名声を得た後も、実彦は代議士として、郷里の川内川の改修工事にこだわった。彼の生家は川内川沿いに立ち、洪水のたびに浸水して、父や母を苦しめた。それが頭から離れなかったのだろう。父や母のため、郷土のため、何かしたい。時代を先取りし、世界を見据える一方で、彼の心はいつも郷里とつながっていたのかもしれない。
 
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by ogawakeiichi | 2009-04-23 08:24 | 鹿児島情報史

鹿児島情報資料・天狗煙草

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明治の煙草王

明治30年代、日本一の目抜き通り銀座に真っ赤に塗った店。
「勿驚(おどろくなかれ)税金三百万円」「国益の親玉 東洋煙草大王」と書かれた大看板。自らも真っ赤な衣服に身を包み、したり顔の店主。この男こそ、銀座の名物天狗とも呼ばれ、世間を騒がした明治のたばこ王、岩谷松平(いわやまつへい)(1849-1920)です。

現在の鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)に生まれた岩谷は、明治10(1877)年の西南戦争で家屋を焼かれたことを契機に上京し、銀座3丁目(現松屋銀座付近)で薩摩の特産品を販売し始めました。また岩谷は、当時外国からもたらされていた紙巻たばこに、いち早く目をつけ、その製造に取りかかります。そして明治17(1884)年頃、「天狗たばこ」を発売しました。まだまだキセルで吸う刻みたばこが全盛であった日本において、岩谷は、“大安売の大隊長”を名乗り、引札、看板、新聞広告など、ありとあらゆる広告手段を使って宣伝を行い、紙巻たばこを大いに広めました。

そして明治30年代、外国のたばこ会社の資本を背景に、日本のたばこ業界を席巻しようとした村井吉兵衛の「株式会社村井兄弟商会」が登場すると、岩谷は「国益の親玉」として村井に対決を挑みます。たばこが専売になる明治37(1904)年まで続いた販売競争は、「明治たばこ宣伝合戦」と称されるほど激しく、明治以降の宣伝広告のあり方、さらには印刷技術の発展に大きな影響を与えました。

岩谷松平(いわやまつへい)は、嘉永2(1849)年に薩摩に生まれました。その4年後にはペリーが来航し、以後、日本は幕末、明治維新と激動の時代を迎えることになります。そんな時代の荒波の中、岩谷の人生も大きく動いていきました。

明治2(1869)年、藩の御用商人を勤めたこともある岩谷本家の家督を継ぎ、養蚕業などにも手を延ばした岩谷でしたが、明治10(1877)年に起こった西南戦争の戦火により、家屋を焼失。それを契機に上京し、明治11(1878)年には銀座3丁目に「薩摩屋」の屋号で店を構え、薩摩絣(さつまかすり)や鰹節、そして国分のたばこなど、薩摩の特産品を販売し始めました。

時あたかも文明開化の時代、さまざまな文物とともに欧米からもたらされた紙巻たばこが、東京などの都市を中心に広まりつつある頃でした。

岩谷が店舗を構えた銀座煉瓦街が象徴するように、明治初期は文明開化の名の下に、欧米からもたらされる制度、知識、文物が積極的に取り入れられていきました。その風潮の中で、都市部の人々の目を引いたものの一つが、紙巻たばこです。

当時、「細刻みたばこをキセルで吸う」という喫煙が主流であった日本では、外国からもたらされたキセルを必要としない紙巻たばこの簡便さと、それを包むパッケージの美しさは、ハイカラ志向の人々を引きつけました。国内でも、一説によれば、明治2(1869)年には、土田安五郎が紙巻たばこの製造を試みたとされています。また、明治6(1873)年に開催されたオーストリアのウィーン万国博覧会に参加した竹内毅と石川治平は、紙巻たばこ製造機を買い入れ、その機械で製造した紙巻たばこを明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会に出品。褒状を獲得しました。これを受け、明治10年代になると、都市を中心に紙巻たばこの製造に関する新聞記事が見られるようになります。

しかし、地方では、依然として細刻みたばこが好まれており、品質では外国製品より劣っていた国産紙巻たばこは、苦戦を強いられていました。

岩谷松平を語る上で欠かせないのが、「赤」という色です。岩谷は、店舗も赤、馬車も赤、そして自ら着る服も赤にして、世間を騒がせました。

この「赤」を選んだ理由に関しては、岩谷本人が語ったとされる演説の逸話が残っています。明治16(1883)年、岩谷を中心として、商人社会改革を目的に、日本商人共進会が設立。岩谷は東京・芝の紅葉館で行われたその発会式で、「日本の商人は、欧米に比べればまだまだ赤子であるとして、その戒めのために赤子を示す“赤服”を着ている」と述べました。その後、この演説は「岩谷の産衣演説」として世間に知られるようになりました。

自らのたばこの名につけた「天狗」。現在のところ、それがいつからで、またなぜその名を付けたかは不詳です。ただ、大正2(1913)年の「岩谷松平 人道株式会社 金写真」のチラシには、「猿田彦神(さるたひこのかみ)」の名を見ることができます。

猿田彦神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまのはら)から日向国(宮崎県)高千穂の峰に下った、いわゆる天孫降臨のときに、その道案内をつとめた神で、その鼻が非常に高く、恐ろしい顔つきをしていたとされています。

岩谷松平の出身地、薩摩川内市にある新田神社は瓊瓊杵尊が葬られた場所として知られ、そこには古くから真っ赤な猿田彦神の面があります。この他、南九州地方各地には、天狗にまつわるさまざまな伝説が残っており、こうしたところから、「天狗」の名を付けたのではないかと考えられています。

「花は霧島 煙草は国分」と歌われるように、たばこは薩摩の特産品の一つとして江戸時代から知られており、岩谷松平も、伝統的な国分の刻みたばこなどを「薩摩煙草」として販売していました。

一方、岩谷は外国からもたらされた紙巻たばこにもいち早く目をつけ、弟・右衛(うえ)らをアメリカに派遣し、製造技術を学ばせるなどして、自身でも本格的な製造に着手。そして明治17(1884)年頃に、口付紙巻たばこ「天狗たばこ」を発売しました。まだまだキセルで吸う刻みたばこが全盛であった当時の日本において、岩谷は、“大安売の大隊長”を名乗って、赤服に身を包み引札、看板、新聞広告など、ありとあらゆる広告手段を使って宣伝を行い、紙巻たばこの普及に努めました。

そして明治20年代になると、第3回内国勧業博覧会で岩谷商会が出品した紙巻たばこが有功賞三等を獲得。さらに、宮内庁から日清戦争での恩賜のたばこの製造委託を受けるなど、紙巻たばこ「天狗たばこ」とともに、「天狗の岩谷」の名は、明治の世に広まっていきました。

「天狗の岩谷」の名が世間に広まりつつあった明治24(1891)年、京都で新しい紙巻たばこが発売されました。村井吉兵衛製造による両切紙巻たばこ「サンライス」です。その後村井は、「輸入葉たばこ」を使って「ヒーロー」を発売し、さらにアメリカのたばこ会社と資本提携をして「株式会社村井兄弟商会」を設立するなど、順調に事業を拡大していきます。これに対し、“国益の親玉”を自称する岩谷松平は、「国産葉たばこ」を強調するなどして村井に対抗しました。

「東vs西」「赤vs白」「口付vs両切」「和vs洋」など、それぞれが対抗するように行われた宣伝は、当時考えられるありとあらゆる広告媒体を通じて繰り広げられ、明治以降の宣伝広告のあり方に大きな影響を与えていきます。特に村井が、明治34(1901)年、東京に本社を移転すると、その宣伝の応酬は激しさを増し、「明治たばこ宣伝合戦」と称されました。

こうした宣伝合戦の結果、大量に作られることになった紙巻たばこのパッケージは、印刷技術の発展にも寄与していくことになります。

村井吉兵衛(1864-1926)は、京都のたばこ商の家に生まれました。東京での岩谷商会・千葉商店の盛況ぶりを視察し、紙巻たばこの流行の機運を感じた村井は、アメリカ人技師の指導を受けながら紙巻たばこの製造に着手。明治24(1891)年に「サンライス」を発売しました。翌25(1892)年には、東京・日本橋区室町2丁目に支店を出し、岩谷の天狗たばこ、千葉の牡丹たばこなどと本格的な競争が始まりました。

「サンライス」が順調に売り上げを伸ばしていく中、村井は自らアメリカに渡り、葉たばこの栽培から紙巻たばこの製造、さらには販売や宣伝方法まで調査を実施。ここでアメリカ葉の輸入ルートを作った村井は、帰国後、アメリカ葉を使ったたばこの製造を開始します。そして、明治27(1894)年3月に発売されたのが、両切紙巻たばこ「ヒーロー」です。

「ヒーロー」はそれまでの日本のたばこにはない新しい味に加え、音楽隊などの洋風宣伝が功を奏し、瞬く間に売り上げを伸ばしていきました。その成功を受け、同年5月さらなる事業拡大を目指し、実兄で村井本家を継いでいた弥三郎と組んで、「合名合資会社村井兄弟商会」を設立。そしてこの年の8月、日清戦争勃発を受け、紙巻たばこの需用が急速に高まる中、その市場を巡って、岩谷商会と村井兄弟商会の販売競争が激化していきました。

明治30年代、激しい「たばこ宣伝合戦」が繰り広げられる一方、村井兄弟商会の背後にいたアメリカン・タバコ会社の世界進出をもくろむ動きと、大蔵省によるたばこ製造専売制施行に向けた動きが次第に表面化していきます。

村井、千葉などの多くのたばこ商が、製造専売に反対をする中、"国益の親玉"を自称する岩谷松平は政府と連係を保ちつつ、専売制施行に賛成の動きを見せました。そして、明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発すると、戦費調達という国家的命題の前に、反対運動も沈静化を余儀なくされ、同年4月「煙草専売法」(法律第14号)が公布、7月に施行されました。

専売制施行後、岩谷は現在の渋谷区猿楽町一帯に約13000坪の広大な敷地を購入し、豪壮な屋敷を構えます。そこで、「豚天狗」を名乗って養豚業などを行いながら、多くの家族とともに晩年を過ごし、大正9(1920)年3月10日、渋谷邸にて波乱に満ちた人生を閉じました。


■たばこと塩の博物館。特別展・企画展アーカイブ >
明治のたばこ王 岩谷松平よりすべて引用
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by ogawakeiichi | 2009-04-23 07:06 | 鹿児島情報史

稜威(イツ)

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博多の櫛田神社の山門に『稜威』という文字が掲げられている。そのすぐ近く大正のおもかげを残す旅館『鹿島本館』で九博での独演会を終えた翌日、松岡はこの『稜威(イツ)』について淡々と語り始めた。しかし、出入りを繰りかえしサティーの定まらないぼくの意識は、この『イツ』に翠点があわず、浮遊するのみ。ガツンと腑に落ちることもなく、だだ「『稜威』(イツ)とは本来の日本の背後に潜む、凄いエネルギーのことらしいと言うだけが頭に残る。

黒澤明は、そのわからない正体を映画で描きたいと思った。中国明朝の遺臣、朱舜水はこの『イツ』を後醍醐天皇の南朝にある不可視な何かを水戸光圀へ示唆をした。この不可視ななにモノかが『稜威(イツ)』であり、その正体は途轍もないものらしい。

はたして『稜威』とはなんなのか。松岡の「千夜千冊」では「稜威」はだいたい以下のように紹介している。

イツとは「稜威」、この言葉がわかる日本人は専門家をのぞけばほとんどいないのではないか。あえて民族学用語をあてはめればマナにあたるかもしれないが、マナとはだいぶんちがう。

日本の教育の本道は感染教育・学習とし、だからこそ、門人がいて門弟ができた。だからこそ師弟が生まれ、入門という儀式があった。赤染衛門は、そういう感染教育なら女性こそが得意ですと言ったわけである。

山本健吉は、このような感染可能な「やまとだましひ」をさぐりながら、その背景に「イツ」という観念が動いていたのではないか。感染可能「やまとだましい」の背景に「イツ」という観念があったと推理した。

稜威は折口信夫なら外来魂ともいうことになる。古代文学史では天皇霊に稜威をつかうこともある。折口か柳田かは忘れたが、琉球語では稜威は「すでる」にあたると読んだことがある。山本健吉自身は「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「別種の生を得ること」とか「生きる力の根源になる。威霊を身につけること」というふうに稜威を説明している。
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▲旅館「鹿島本館」
松岡は言う。「触れるなかれ、なお近寄れ。これが日本である。これはまた、ぼくの信条である。また、これが稜威の意味である。」 


限りなく近くに寄って、そこに限りの余程を残していくこと、これが和歌から能芸におよび造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものである。

そこには稜威が仕込まれている。その稜威からなんらかの生活の再生が連打されていく。たとえば刀の研師(とぎし)たちはその刀が再生しうることを知っている。その再生への確信を、日本刀ばかりではなくて、どこまで日本文化のさまざまな現象に広げられるのか。屏風絵や俳句や内露地の飛石に認めることができるのか。

そこが主体ニッポンのアーティストに問われている。
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by ogawakeiichi | 2009-04-21 09:03 | 日本史&思想

鹿児島情報の歴史1

江戸時代

1772       ◆中国船が倉津に漂着。船長・謝文旦がお礼に、朱楽、
          白楽(ボンタン)を贈る

1801 享和 1   ◎百姓・町人に対する名字・帯刀の許可禁止
         ◆白糖製造人を大島に派遣して白糖を試製させる

1802 〃 2    ◎蝦夷奉行(のちの函館奉行)を創設

1803 〃 3    ◎アメリカ船、長崎にきたり通商を求む

1804 文化 1   ◎ロシア使節、長崎にきたり貿易を求む

1805 〃 2    ◎百姓の武芸稽古禁止
         ◆斉宜、藩政改革の方針を示す

1806 〃 3    ◎江戸芝の大火
         ◆鹿児島市田上川をつけかえて新川とする

1807 〃 4    ◎函館奉行廃止 西蝦夷地を幕府直轄とする          

1808 〃 5    ◎間宮林蔵、樺太を探検
       
1809 〃 6    ◎江戸伊勢町に米会所設立
         ◆沖永良部・与論島旱魃

1810 〃 7    ◎大坂の富商人14名に御用金賦課
         ◆伊能忠敬の領内測量着手

1812 〃 9    ◎ロシア船、高田屋嘉兵衛を国後沖合で捕らえる

 
1816 〃 13   ◎百姓の衣服、次第に贅沢となる美濃・伊勢など
         ◆徳之島母間村、百姓一揆 琉球飢饉、餓死者1563人

1817 〃 14   ◎イギリス船、浦賀に来航

1818 文政 1   ◎伊能忠敬死

1819 〃 2    ◎塙保己一「群書類従」完成
         ◆倹約年限を明年以後5年間年限延長 大島稀有の大風

1821 〃 4    ◎諸国、風水害 蝦夷地を松前氏に返還

1822 〃 5    ◎小田原藩主大久保忠真、二宮尊徳を登用
        ◆鹿児島下町大火

1823 〃 6    ◎オランダ医師、シーボルト、長崎に着任

1824 〃 7    ◎イギリス船員、常陸に上陸  関東・奥羽水害
       
1825 〃 8    ◎異国船打払令
         ◆阿久根郷士、宇治におもむき製茶法を伝習す

1826 〃 9    ◆豪・斉彬らシーボルトと会談 喜界島甘藷不作

1827 〃 10   ◎頼山陽「日本外史」を定信に呈する
        ◆藩債500万両に及び、側用人調所広郷に財政改革を命じる

1828 〃 11   ◎シーボルト事件

1829 〃 12   ◎江戸大火(巳丑の大火)
        ◆桐野太兵衛、大隈・桜島・頴娃・指宿で製糖を始める

1830 天保 1  ◎伊勢お蔭参り流行
        ◆重豪・斉彬、調所広郷に朱印の書を付し、10年間に  
         50万両貯蓄・古証文回収などを命ずる
 
1831 〃 2   ◎防長一揆

1832 〃 3   ◎天保二朱金鋳造
        ◎イギリス船、次々と那覇に漂着

1833 〃 4   ◎天保の飢饉(→1839)
        ◆雨害で大島凶作

1834 〃 5   ◎水野忠那、老中となる
        ◆大島飢饉続き、救銀再び下付

1835 〃 6   ◎美濃百姓一揆 天保銭を鋳造
        ◆薩摩藩今和泉領主、島津忠剛長女一子(篤姫)生まれる

1836 〃 7   ◎甲斐・三河・陸奥の農民暴動
        ◆幕府へ謝恩として金10万両を納める


1837 〃 8   ◎大塩平八郎の乱 生田万の乱 モリソン号事件

1838 〃 9   ◎長州藩の村田清風、藩政改革に着手

1839 〃 10  ◎蛮社の獄…渡辺崋山・高野長英逮捕

1840 〃 11  ◎オランダ船入港し、アヘン戦争を報ず
          ◆財政改革ほぼ成功し、営繕用途500万両・藩庫金50万両貯蓄

1841 〃 12   ◎水野忠邦、改革に着手 株仲間の禁止
           ◆島津久風に洋式砲術を谷山塩屋で試験させる

1842 〃 13   ◎異国船薪水令を下す 棄捐令
           ◆曾木川疎水工事着手・翌年完成

1843 〃 14   ◎水野忠那老中失脚 阿部正弘、老中首座となる上地令 
           ◎イギリス艦八重山に来たり測量、宮古島にも来航

1844 弘化 1   ◎オランダ、国書を持つて開国を勧告
            ◎フランス艦那覇に来たり、通信・貿易・布教 求める

1845 〃 2   ◎開国を拒絶
          ◆新上橋架設

1846 〃 3   ◎アメリカ、通商を要求、拒絶
          ◆西田橋架設

1847 〃 4   ◎相模・安房・上総の沿岸防備を強化
          ◆高麗橋架設

1848 嘉永 1  ◆武之橋架設.

1849 〃 2   ◎アメリカ艦長崎 イギリス艦浦賀に来る
          ◆玉江橋架設

1850 〃 3   ◎天保山砲台完成

1851 〃 4   ◎十組問屋再興・株仲間の再興許可
          ◆常平倉を設置 島津斉彬薩摩藩主となる、製錬所を設ける

1853 〃 6   ◎アメリカの使節ペリー、浦賀来航 徳川家定十三代将軍となる
          ◆島津斉彬の養女篤姫、江戸薩摩藩邸に入る

1854 安政 1  ◎ペリー再来 日米・日英・日露和親条約
           ◆熔鉱炉竣工

1855 〃 2   ◎日仏・日蘭和親条約 安政の大地震…江戸大地震

1856 〃 3   ◎江戸築地に講武所を開設 篤姫家定の御台所となる

1857 〃 4   ◎初代アメリカ領事ハリスと下田条約締結
          ◆鹿児島市磯邸内にガス灯つく

1858 〃 5   ◎井伊直弼、大老に就任 安政の大獄 徳川家定
          ◆死去 篤姫、天璋院と号す 徳川家茂十四代将軍となる
          ◆幕府練習艦日本丸鹿児島に至る 島津斉彬急逝

1859 〃 6   ◎吉田松陰ら死刑
          ◆西郷隆盛大島に流される

1860 万延 1  ◎桜田門外の変・・・大老井伊直弼尊攘派に暗殺さる
           ◆桜田門外の変に有村冶左衛門参加

1861 文久 1  ◎毛利敬親公武合体を献議

1862 〃 2   ◎坂下門外の変・・・老中安藤信正尊攘派に暗殺さる 
          ◎和宮、徳川家茂と婚儀 
          ◆生麦事件

1863 〃 3   ◎薩英戦争
          ◆英国艦艇7隻鹿児島湾に来航

1864 元冶 1  ◎蛤御門の変 第一回長州征伐

1865 慶応 1  ◎第二回長州征伐

1866 〃 2    ◎薩長連合を約する 徳川家茂死去 慶喜が十五代将軍

1867 〃 3    ◎大政奉還 王政復古明治時代

====================================

1868 明治 1  ◎鳥羽伏見の戦 五箇条の御誓文 戊辰戦争
           ◆薩藩官軍の先鋒となり江戸へ 西郷・勝会談で江戸城接収

1869 〃 2   ◎版籍奉還 官制改革
          ◆藩内寺院を全廃

1870 〃 3   ◎平民に苗字を許す

1871 〃 4   ◎戸籍法改正 廃藩置県 金本位制
          ◆鹿児島県設置

1872 〃 5   ◎東京・横浜間に鉄道開通 徴兵制度公布
          ◆天皇鹿児島臨幸 士族の知行制廃止

1873 〃 6    征韓論 西郷ら参議を辞任
           ◆都城・美々津を廃止、鹿児島県に大隈国を併合 
           ◆第五国立銀行鹿児島支店開業

1874 〃 7   ◎佐賀の乱
          ◆台湾征討に鹿児島徴募兵多数出兵 私学校設立

1875 〃 8   ◎樺太・千島交換条約
          ◆旧藩札の処分完了

1876 〃 9   ◎廃刀令
          ◆大久保内務卿、大山県令に県政改革を迫り、県令応ぜず

1877 〃 10  ◆西南戦争(2月→9月) 和宮死去
          ◆城山陥落、西郷ら自刃

1878 〃 11  ◆大久保利通暗殺される 

1879 〃 12  ◎教育令制定 琉球藩を沖縄県とする
          ◆第百四十七国立銀行設立

1880 〃 13  ◎集会条例を公布
          ◆県会議員選挙 第一回県会

1881 〃 14  ◎自由党結成

1882 〃 15  ◎日本銀行条例布告
          ◆松原神社の境内にて軽業

1883 〃 16  ◎鹿鳴館落成 天璋院死去
          ◆鹿児島県立博物館考古資料館(国登録)

1884 〃 17  ◎群馬事件 秩父事件
       ◆岩谷松平「天狗たばこ」を発売

1885 〃 18  ◎内閣制度実施
       ◆県下8月以來コレラ大流行

1886 〃 19  ◎帝国大学令公布 小学校令公布
      ◆9月大暴風、未曾有の疱瘡流行

1887 〃 20  ◎保安条例公布

1888 〃 21  ◎市制・町村制公布

1889 〃 22  ◎大日本帝国憲法発布 東海道本線開通
      ◆鹿児島市制実施 町村制実施

1890 〃 23  ◎府県制・郡制公布 教育勅語発布
      ◎衆議院議員選挙実施 コレラ流行

1891 〃 24   ◎大津事件

1892 〃 25  ◎千島艦事件…軍艦千島、英船と衝突し沈没

1893 〃 26  ◎横川・軽井沢間にアブト式線路完成

1894 〃 27  ◎日清戦争(→1895)
       ◆翌年にかけて赤痢・疱瘡・コレラ流行

1895 〃 28  ◎下関条約 三国干渉

1896 〃 29  ◎日清通商航海条約

1897 〃 30  ◎金本位制実施
         ◆八代・鹿児島間鉄道施設工事起工

1898 〃 31  ◎民法公布

1899 〃 32  ◎改正条約実施、治外法権撤廃
        ◆大暴風、全壊家屋1万6000棟

1900 〃 33  ◎義和団の乱に出兵
       ◆県立農事試験場開場
   

1901 明治 34  ◎貴族院で増税案可決
       ◆鹿児島・国分(隼人)間鉄道開通 第七高等学校造士館設立         


1902 〃 35   ◎日英同盟締結 正岡子規死
       ◆県立高等女学校設立        


1903 〃 36   ◎平民社設立
       ◆鹿児島線(肥薩線)吉松まで開通

1904 〃 37   ◎日露戦争(→1905)

1905 〃 38   ◎日本海海戦 ポーツマス条約調印

1906 〃 39   ◎鉄道国有法公布

1907 〃 40   ◎日仏・日露条約成立
       ◆県立鹿児島病院設立

1908 〃 41   ◎日米協約
       ◆鹿児島高等農林学校設立

1909 〃 42   ◎東京両国に国技館開館
       ◆鹿児島線(肥薩線)門司(門司港)~鹿児島間全通

1910 〃 43   ◎日韓併合
 
1911 〃 44   ◎工場法公布

===================================
大正時代

1912 大正 1   ◎第一次護憲運動はじまる
        ◆県立図書館設立

1913 〃 2    ◎東北・北海道地方大凶作
        ◆劇場・鹿児島座(森永パチンコ付近)と、
        その前に活動写真常設館・メリー館(喜楽館)

1914 〃 3    ◎第一次世界大戦に参戦
        ◆桜島大爆発

1915 〃 4    ◎第一回全国中等学校優勝野球大会 自動車登録台数1244台
        ◆風水害

1916 〃 5    ◎大隈重信、襲撃される
        ◆風水害

1917 〃 6    ◎金輸出禁止
        ◆風水害
        ◆活動写真館・帝国館(今の鹿児島東宝)
        ◆鹿児島銀行別館イオニア式の柱、上部にはメダリオン


1918 〃 7    ◎シベリア出兵
        ◆鹿児島に千日通りができた

1919 〃 8    ◎ベルサイユ条約調印
       ◆4月山本実彦、雑誌「改造」の創刊
       ◆7月鹿児島港が開港
      
1920 〃 9   ◎国際連盟に正式加入 第一回メーデー開催

1921 〃 10   ◎ワシントン会議 日英同盟廃棄
       ◆風水害

1922 〃 11   ◎日本共産党結成
       ◆千日市場、天文館市場、山之口市場

1923 〃 12  ◎関東大震災
      ◆県立工業試験場開設

1924 〃 13  ◎第二次護憲運動 メートル法実施
       ◆5月第一回南国美術展

1925 〃 14  ◎治安維持法公布 
      ◆旧鹿児島県庁。一階はドリス式の柱を、二階はイオニア式の柱
      ネオルネッサンス様式。設計者は曽根達蔵
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by ogawakeiichi | 2009-04-17 10:38 | 鹿児島情報史

『景気』とか『経営』とか・・

『景気』とか『経営』とか、現在は経済用語と思われている言葉だが、元来、じつはこれって水墨画の用語なのだ。

中国の六朝時代に活躍した画家に、【謝赫(しゃ かく、Xie He、生没年不詳)】がいる。評論家でもあった彼は『古画品録』を著述したことで知られるが、この本のなかで「画の六法」というものを提唱し、そのなかで「経営位置」が語られている。

謝赫の「画の六法」とは以下の6つだ。
気韻生動 気と韻律、動勢と生命感ある絵画か
2随類賦彩 彩し描き続けた結果、精髄極めた絵画か
3骨法用筆 物の正確な形(骨法)は正確に取れている、技巧ある筆運びか
4応物象形 媒質の形状個性を、いかんなく象徴化し、応用できるか。
5経営位置 構図は正確で、意味のある位置取りか。
6伝移模写 模写力はあるか、そこに伝えたい事が内在しているか。

今日マネジメントをあらわす「経営」という言葉は、この山水のコンポジションをマネジメントする経営位置から派生したもので、「経営」は経済用語ではなかったのだ。経営とは面取りなのである。配置なのである。布置なのだ。〈松岡正剛『山水思想』〉

そもそも風景とは「景気」の強いすぐれた場所のことをいう。景気とは、景色のもっているスピリットやエネルギーのこと、今日、経済社会で「ええ景気ですな」とか「えらい不景気でんな」といっているのは、もともとは風景のなかの景気のことだった。〈松岡正剛『花鳥風月の科学』〉

すなわち、現在の会社人は経営を経済的な活動と思いこみ、数字の追求にすり替わり、絵を描くという、コンポジションをマネジメントするということが置き去りにされてきた。

ここで、言う『絵を描く』とは、未来に向かっての可視化ということで、物語を描く力と言い換えてもよい。現象の本質を捉えてスケッチできるのか、描かれた形は万物の理に寄り添っているのか、そのシステムは正確にコントロールができるのか、描いた組織という絵は気が満ち溢れた動きができるか。ということが本来の『経営』の意味である。

絵が描けないということは、場や時空に対するシステム思考が観念的でモヤに包まれ行き先不明ということでもある。すなわち戦略も描けなければ、戦略に従う場と時空を遊する集合体もデザインできない。

現在、「景気」は経済活動において“儲かる、儲からない”の動向といった意味になっている。「経営」は“儲かる、儲からない“の二分論が最優先されてきた。

『経営』や『景気』の本来は、風景の中の強いすぐれた場所を求め、配置や面取りの力を高め未来に対するコンポジションをマネージメントする絵が描けなかったらどうにもならない。ということであった。“儲かる、儲からない“の絵の描けない刹那だけの観念経営じゃ、そりゃ、儲からない。
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by ogawakeiichi | 2009-04-16 10:57 | 日本史&思想

ヴィパッサナーとアフォーダンス

前日エントリーした『ヴィパッサナー瞑想』は、現在の瞬間をとらえるサティ(Sati)の訓練を中心に、「気づき」→「観察」→「洞察」のプロセスを踏みながら、「智慧」が発現するシステムに心を組み替えていく行為であったが、「ヴィバッサナー」とは、「気づき」の対象がこちら側に【アフォード】していることを察知することではないのかな、と、ふと思えてきた。

アフォーダンス(affordance)とは ウィキペディアでは『環境がそこに生活する有機体に対して与える(afford)「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソン(1904年 - 1979年)による造語だ。

『生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。 佐々木正人「アフォーダンス-新しい認知の理論」』

わかりすくいえば、モノ自体がニンゲンのためにあるのでなく、モノからニンゲンを見て与えている。つまりニンゲンの脳だけが情報を作るのではなくモノも 情報を持ち、作り出し、我々に与えて(アフォード)しているという見方である。

たとえば、ペンを取ろうとするとき、ペンケースのようにある程度厚みのあるものを取ろうとするときとは、手や指の形は異なってくる。ペンやぺーンケースに触れてから異なるのではなく、それらに触れる手前からすでに手や指はペンやペンケースの形にそって対象のアウトラインをなぞらったカマエをとっている。これをペンやペンケースそれぞれの形が、こちら側に手や指の形を「アフォード」するという。何か熱そうなものだとしたら、また、風船など柔らかいものをつかもうとしたら手は自然と手の形を「アフォード」しやわらかな形をつくる。

すなわち『ヴィパッサナー』とはペンやペンケースなど対象の発する『アフォーダンス』を「気づき」としてとらえることからはじまる。その後「観察」から「洞察」のプロセスを踏み、そしてそこに「智彗」を発現すれば『ヴィパッサナー』ということだ。

つまり、比較的新しいデザイン思考や方法理論としての「アフォーダンス」と瞑想法の「ヴィパッサナー」は、ともにスタートのプラットホームは、おなじであるということだ。

【ヴィパッサナーの言う「気づき】と【心理学の言う「アフォーダンス」】の、最大の違いといえば「アフォーダンス」が、情報が人間の内部にではなく人間の周囲にあると考えるのに対し、「ヴィパッサナー」が人間内部で立ち起こる「気づき」までを包括して、客観的に観察する主体の確立を瞑想によって目指している点であろう。

近年、ものづくりやデザインにおいて、手法や技術だけがクローズアップされている印象がある。手法や技術はもちろん大事だが、哲学がなきゃ、いくら手法だの技術だの習得したって、作るべきものの形は見えてきやしない。


謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-04-15 09:27 | アジア史&思想

ヴィパッサナー

我々の人生が苦しいものになってしまうのは、事実をありのままに見ないで、思い込みや自己中心的な妄想で編集した世界を心の中に作り出し、それに対して嫌悪や不安、欲望、執着などの反応を起こすからだ。と原始仏教では考えた。

妄想で世界を編集、構成する行為は、デザインやアートの世界においての大半はそうである。それに対し嫌悪や不安、欲望、執着などない作家を除き、デザイン行為が行為者にとって苦を伴うため、自己合理化のための言動を散見する(アドバタイズデザイン界は特に多い・・)

2500年前にブッダが、不安、欲望、執着から抜け出すときに使った方法は、サマーディ(三昧)という名の集中する行為に留まることではなく、真実相をあるがままに見る観察と智慧、『ヴィパッサナー』であった。

悟りを完成してから45年間、ヴィパッサナー瞑想は「一切の悲しみと苦悩と憂いを消滅させる唯一の道である」と、ブッダは説き続けた。

モノやコトを組み立てていく行為の段階において、対象と対峙し、そこからそれを越えていく『ヴィパッサナー』は有効である。観察からくる『気づき』、(正確に言えば、気づきを観察する)、それは、あたかも求めていた鍵穴に鍵がパコッと当てはまる感覚だ。

 『気づき』によって、次の動作が変化してくる。 ・情報処理の仕方や解釈 ・意思決定のプロセス・定番となっている反応パターン、などが根底から組み変わっていく。まさに、新しいアートを生み出していく力そのものでもある。

この純粋観察の瞑想は,現在の瞬間をとらえるサティ(Sati)の訓練を中心に、「気づき」→「観察」→「洞察」のプロセスを踏みながら、「智慧」が発現するシステムに心を組み替えていく。

仏教において瞑想(漢訳「止観」)は、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分けられる。前者が心を静めることを中心とし、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法であるのに対し、後者では観察することを中心とし、釈迦が新しく開拓ししそれによって悟りを開いた仏教独自の瞑想方法とされる。

「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(サティ、sati、梵smṛti、英語mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である。

この「気づき」に頭のカーソルを向けるもっとも容易な方法は、言葉によって確認(「ラベリング」)し、「実況中継」していくやりかたである。


 「今は、今のことに集中しなさい。 頭の中から妄想を排除して、今の瞬間をあるがままに受け取めなさい」

謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-04-14 21:04 | 身体性