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彩遊記

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松岡正剛



情熱大陸
編集者 松岡正剛
2010年7月4日(日),23:00〜23:30
毎日放送/TBS系列

情熱大陸

松丸本舗
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by ogawakeiichi | 2010-06-29 19:05 | 只記録

金と芸術

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これはかなりおもしろい。
↓ここより、すべてコピペ
金と芸術―なぜアーティストは貧乏なのか?
[著]ハンス・アビング
[掲載]2007年02月25日
[評者]柄谷行人(評論家)

■国家と資本が価値の「神話化」に寄与
 芸術への崇拝は、十九世紀西洋で、ブルジョア的な金権と経済合理性に対するロマン主義的反撥(はんぱつ)として生じた。芸術家は金のために仕事をするのではない、美的価値は市場価値とは異なるというような考えが、この時期に生まれたのである。しかし、「芸術の神話」が真に確立したのは、芸術家らが反抗しようとした、当のブルジョア自身が、そのような芸術を崇拝し、そのために奉仕することを高尚なことだと考えるようになったときである。

 さらに、国家も芸術を支援することで威信を示そうとするようになった。芸術を理解する文化的国家と見られたいのである。その結果、芸術は市場によってよりも、政府や企業・ブルジョアからの贈与によって成り立っている。それだけではない。贈与が、市場価値とは異なる美的価値を保証する仕組みになっている。たとえば、市場で売れなくても、公的な助成金を得たり、美術館によって買い上げられることが、かえって作品の美的価値、さらには市場価値をも高めるからである。

 以来、芸術は、それ自身ビジネスでありながら、同時にビジネス性を否定する、あいまいなものとして存在してきた。芸術の世界には、自由な競争が存在するかのように見えるが、けっしてそうではない。芸術における「贈与の経済」には、文化官僚や企業と結託した専門家集団の独占がつきまとう。芸術のためではなく、彼ら自身が存続するためにこそ、芸術への援助がなされるのである。経済学者であるとともにアーティストである著者は、本書で、そこに存する自己欺瞞(ぎまん)的な仕掛けを明快にあばきだした。

 二十世紀前半に、前衛芸術は「芸術の神話」を破壊しようとした。たとえば、「泉」と題して便器を出展したデュシャン。それは、いかなるものも芸術でありうるという主張である。しかし、ブルジョアは、そのような前衛芸術を高尚な芸術として仰ぐことによって、その破壊性を消してしまった。近年では、ポストモダンな芸術家は、商業的であることを肯定し、芸術の価値を市場価値と同じものと見なしている。だが、これも「芸術の神話」を壊すことにはならないだろう。芸術を神聖化するように働くシステムが存在するからである。

 その中でも最も大きいのは、政府による贈与である。オランダ人の著者は、オランダ政府が現代アートを強力に支援し、それによって美術界を変えてしまったことを指摘している。こうした援助には、貧しい芸術家を助けるなど、さまざまな理由づけがなされるが、著者によれば、明白なウソである。芸術家は概して貧しい。それは第一に、芸術家が必要以上の金を求めていないからであり、第二に、その志望者が多すぎるからだ。芸術家への助成を増やすと、もっと志望者が増えるだけである。では、なぜ芸術に贈与したがるのか。わが国は、わが社は、芸術に理解がある、というポーズを示したいからだ。芸術を神聖化するシステムは、国家と資本を神聖化するシステムにほかならないのである

    ◇

 Why are artists poor?—The exceptional economy of the arts.、山本和弘訳/Hans Abbing 46年オランダ生まれ。アムステルダム大で芸術経済学教授。
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by ogawakeiichi | 2010-06-27 14:26 | 只記録

真珠の川のネックレス

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原文はここ

香港と中国本土を海上で結ぶ壮大な建設プロジェクト。オランダのデザイナーグループのNL Architectsのアイデア。美しい。。それに実用性がうまく融合されている。

実は香港と中国大陸は左側通行と右側通行の違いという問題がある。いざ中国本土側へと渡った途端、急に右側通行へと変更されるので、ここを結ぶ橋には工夫が必要なのだ。

橋の愛称が真珠の川のネックレス、(Pearl River Necklace)という洒落た呼び名のとおり、美しいネックレスのようなねじれを利用して、橋を渡り終えると、いつの間にか右車線と左車線がクロスして入れ替わっているという構造。。。。。こちらのジャパンブランドもいよいよ可動を始めた。来月は香港だ。
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by ogawakeiichi | 2010-06-26 07:41 | 中国デザイン

イノベーション・その2

●イノベーションとは経済において頻繁に使われてきた言葉だ。その具体的内容は、◎新しい商品。◎新しい生産方法。◎原料の新しい供給源の獲得。◎新しい組織の実現。

●このうち新しい技術に関するのは製品開発だけである。とくに生産方法については科学的に新しい発見にもとづく必要は無い。ジョセフ・シュンペンターは、これを新結合と呼んだ。複雑系でいうところの創発だ。

●イノベーションとは、個人の才能やチャンスに依存するアート(技法)でありそれを生み出す法則などない(池田信夫)

●がりがりと、手描きの触知感覚でのアウトプットと、コミュニケーションを繋げたアート的イノベーションを試行錯誤していたのだが、多国籍合宿の分科会でワークショップとして試みてみた。

●まったく初対面の様々な国の人々が全体を見ながら個々が新しい軌跡を描いていくワークショップだ。

●他の人が先に描いた軌跡に、次の人が、新たな軌跡を加えて行くワークだが、ひとりとしてジャイアンのような個性満々の表現者はいなかった。

●ワークで分けた四人一組、五グループは、次第にトロトロと全体へ溶け込み、ワークの最後は、全体の溶け込みから離れがたく、どのグループも全員でクリエートした作品をみんなで掲げ、記念撮影をしていた。

●結果などわからない。しかし準備は万端にすることで、上手くいかない(ズレや的外れ)も、新しいなにかの誕生へと繋がっていく。

イノベーションは、やってみるまではわからないリスキーな試みでもある。

●経済学で、マルクスはイノベーションによる超過利潤を「特別剰余価値」とよび、資本家がこれを追求することによって実現する「資本の有機的構成の高度化」が資本主義の本質だと考えた。

●ここには単なる資本蓄積だけではなく技術進歩や組織の拡大も含まれている。

●イノベーションを担う起業家は、新古典経済学の想定するような資源を効率的に配分して最終的には利潤がゼロになるような存在ではない。

●したがって、すでに成功した企業が画期的なイノベーションを実現することは難しい。多くの場合、それは既存の事業を「共食い」するためだ。

●業界一位のマーケットシェアや売上高で誇る企業で業界各社の意思決定や価格相場に大きな影響力をもっているところを【リーダー企業】という。たとえばハンバーガー業界のマクドナルド

●リーダーとは異なった品質やサービスを提供し、ブランド構築においてリーダーとの差別化を行うところを【チャレンジャー企業】という。たとえばハンバーガー業界のモスバーガー

●リーダーを模倣しながら低コストで生産販売するところを【フォロワー企業】という。

●リーダーが見落としている、あるいはあまり注目していない特定マーケにおいて、擬似的な独占を目指す局地的なリーダーとなることを目指すとこころを【ニッチャー企業】という。

●イノベーションは、【リーダー】【チャレンジャー】【フォロワー】【ニッチャー】のどれにも属さない、新たな複雑系からの創発である。
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by ogawakeiichi | 2010-06-23 09:24 | 情報とデザイン

現象学

自分が見て認識している世界と、他人が見ているものとは一致するのであろうか?

小学生の頃、毎土曜日の放課後絵画教室に通っていた。その当時、ともだちに、『ぼくに見えているこの色は、お前もおなじ同じ色にみえるのかなあ?』。などと。。いま思えば、ずいぶんマセたことを尋ねたことがある。←ともだちがなんと答えたかは覚えてないが。。。。。。

わたしたちは、同じものをみて、当然他人もおなじ色やかたちをみてると思いがちだが、これを確証することはできない。客観など確かめようがなく、あくまでも「そうだろう」と類推する世界だ。認識(対象化)された世界だけが、私たちの実存世界である。←ギリシャ初期のプロタゴラスや、ゴルギアスが唱えた相対主義もこんな感じだった。。その後、プラトンは相対主義からなんとか脱出を試み「万人が共通して思い浮がべられる何か」「現実には存在していないはずなのになぜが皆が理解している何か」をイデアと名付けた。

しかし認識されなくても事実として存在するものがある。それは「こころ」という形の無いものや、、「夢」のように現実に無くても見るものもある。
 
認識によって世界は確認される。認識されなければ「世界」は「無い」のと同じである。問題は“その世界”が「わたし」が脳内で認識する「世界」だということだ。

フッサールは、わたしたちの世界の見方は先入観に支配されている。先入観にとらわれた世界の見方をいったん停止して一切の源泉である純粋意識を記述しようとした。(フッサールの現象学)

サルトルは現象学にしたがって『モノをみる』ということは、そのものに直接触れることだと考えた。彼は、意識は閉じた『内部』ではなく、『外』(そのもの)へ向かって破裂する運動そのものだと考えた。意識は『もの』ではなく、『関係』なのだと考えた。

たとえば、目の前にグラスがあったとしよう。わたしの意識とグラスの二つに関係があるのではない。意識はそれ自体が独立したモノではないとする。つまり、意識が向けられた『グラスとの関係』それ自体が意識なのである。。←このあたり、仏教の縁起の考え方と似ているが、仏教が世界を縁起として捉えたのに対し、サルトルは対象に向かう自己意識としてとらえている。

『わたし』とは意識の『中』にあって、意識を支配する主人のようなものと考えられてきた。しかし、サルトルは、そもそも意識の中に『わたし』はない。という。サルトルは意識から『わたし』を排除することがらその哲学を出発させた。

わたしの認識(観念世界)と実存世界は同じではないかもしれない。にも関わらず、同じ認識として語るしか「世界」を語ることはできない。

ぼくの某処での指導教官。。。は。。こう説く。

===
どんな人も“自分”というセマンティクスな認識のフィルターを通してでしか世界を認識することはできないのです。認識とはあくまでも主観的なものだ。客観的という言葉においてさえ、それは人の考えを推しはかっているにすぎません。

 「他我の妥当(=間主観性)」を通して、人は自分にとっての目に見える現象と人にとっての現象が同じと判断します。人間の目の構造も脳の構造も同じなのだから、同じ「リンゴ」を見れば、同じように見えていると判断します。

間主観性とは、他者の主観を自分の主観と同じと考えることと言ってもいいでしょう。しかし色弱という人たちには「赤いリンゴ」が「赤」に見えないということだってあります。何度も言うようですが、私たちが「赤」と思って見ている色が実際同じ色に見えているかどうかは確かめようがないのです。(OM師匠)
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世界に内属する自分。その内属するヘリ、内側の周辺の接触部分を私たちは「世界」と見てのぞき込んでいる。実際に浸かりながら触知している。それが現象の知覚、認識の世界なのである。
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by ogawakeiichi | 2010-06-18 16:30 | 西洋史&思想

きのうのできごと

ワールドカップの日本対カメルーン。日本の勝利に浮かれつつもカメルーンの敗戦に密かに心を痛めた。それは、前夜のNHKドキュメンタリーで放映された、エトーの言葉にあった。彼はインタビュアーから「ゴールとは何ですか?」と問われ、すこし間をおいて「愛だ」答えたのだ。敬愛する藤原新也氏もおなじことを感じていたらしい→ここ

それはそうと、はやぶさの帰還には、ほろりときたが、
宮崎日日新聞の、知的編集。いいねえ。。↓
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宮崎日日新聞

はやぶさ帰還
2010年06月15日


 小惑星探査機「はやぶさ」の7年ぶりの帰還を天国で見ていた松尾芭蕉、若山牧水、種田山頭火、石川啄木といった古今の俳人・歌人たちが「はやぶさ談議」に花を咲かせた。

 芭蕉「私の旅『奥の細道』は約150日で、2400キロの行程でした。はやぶさは7年で60億キロとか。気が遠くなるような旅ですな」。牧水「私も生涯を通じ、通算4年半ほどの旅をしました。私のは、自然に心癒やされながらの旅でしたが宇宙にはそれがない」。

 山頭火「私の句『分け入っても分け入っても青い山』になぞらえればはやぶさは『行けども行けども暗黒の宇宙』といったところでしょう。寂しい一人旅…」。芭蕉「そうでもないんですよ。絶えず“故郷”の地球とつながってたんです」。

 牧水「でも、はやぶさは2カ月もの間、行方不明になっていたそうじゃありませんか」。芭蕉「その間も運用管制室からは、ずっと指令信号を送り続けてたんです。それが関係者が『まるで神懸かりのようだった』と振り返る奇跡の通信回復につながったのです」。

 山頭火「何度も絶体絶命のトラブルに見舞われ、それでも頑張って満身創痍(そうい)の帰還を果たした。感動しました」。啄木「イトカワという小惑星から『一握の砂』よりも、さらに少量の砂を採取するための壮大な計画…。ロマンだなあ」。

 芭蕉「どれだけ絶望的状況に陥っても望みを捨てなかった人間も立派だが、はやぶさも偉い。大気圏で燃え尽きた“ど根性探査機”が送った『絶対にあきらめないで』のメッセージ。どこよりも牧水さんの故郷宮崎に届いてほしいものです」。
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by ogawakeiichi | 2010-06-15 11:02 | 只記録

サブリミナル インパクト

f0084105_5283737.jpgブランドを考えるうえで、政治的メディアリテラシーを考える上で、サイエンスの香ばしさを漂わすプレゼン素材としても知っておいても損はない。ぼくらは、広告やメディアでながされる作為、無作為での外的な操作や誘導にさらされている。そのなかでも最も抵抗しにくいものが無意識のプロセスへの介入だ。。

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「あなたはCMや広告の影響を受けていますか」とあらたまって訊かれたら、九五パーセントの人はノーと答えます。「不愉快だから」とか「信用できないから」などと言って。しかし実際、高いブランドイメージを保ってきた会社が、CMの新作で犯したわずかなミステークのせいで、あっという間にマーケットシェアの大半を失ってしまう。それも商品そのものの質や競争力は変わらないはずなのに。そんな例は数限りなくあるのです。(下條信輔『サブリミナル・インパクト』ちくま新書 2008年 pp.156-157)
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朝日新聞より

■無意識の認知が社会のうねりを生む

 コカ・コーラはあらかじめブランド名を知って飲むと脳のある部分が活動するのに、ペプシだとさほど反応しない。ペプシは脳科学的にもブランド戦略に失敗している――そんな衝撃の研究が発表されたのは04年。人間の経済行動と脳の働きを結びつけるニューロエコノミクスは大流行し、一般向けの解説書も気軽に読める時代になった。

 人間の脳のクセがクリアに説明されるほど、しかし私たちはもやもやと居心地の悪さを覚える。すっきりわかりやすい脳の本の洪水に息苦しさを感じる読者は本書の眼差(まなざ)しに希望を見いだすだろう。著者単独書としては実に9年ぶりとなるが、その問題意識にブレはない。むしろ21世紀に入り現実性を増している。

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by ogawakeiichi | 2010-06-14 05:13 | サイエンス

場の思想

f0084105_7593324.jpgこれまでの既存のカテゴリーの隙間にある、フレームとフレームのあいだの『あたらしくしつらえた場』に席が与えれる機会が多くなった。←TOでやるべきなんだが、いまのところはFROM。

これは僕自身が、越境者としての自覚からくることが一番大きく影響してると思うのだが、こういうことはなにかをバサッっとやったとき、ドサっとやってくる。

プラトンの言うところの【想起】や、白川静がいうとことの【興】という概念の嚆矢と、向こうからやってくる偶然が、パチッ、パチッとスパークし、あちこちに撒いていた鍵や鍵穴がカチッ、カチッと嵌りだし、あたらしい領域へと相をかえる相転移へ入ったのかも知れない。

スピリチュアルで言えば「宇宙との共振」であり、サイエンスでいえば、偶有性(セレンディピティー)とか、ダブルコンテンジェンシーとか言うのだろう。

第三者がしつらえた場で、与えられる問題を検討、解決、評価していくその過程から、のんべんだらりとした状況にくさびを打ち込むような【あらたな問題】を発見し、その問題につきあうような場面も増えてきた。

あらたな問題とは、『与えられた問題がしつらえられた場』つまり、仕掛けた側にあるというのがやっかいなのである。ざくっと言えば自己矛盾が起きた制度の問題。

たとえば、時代が変わるためには、人間が変わらなければならないが、制度的にこれができないのである。←もちろん全部ではない。。

自己矛盾にある場の制度自体を、命がけの革命覚悟でいじれないとすれば、しつらえられた場を、共振させ、響き合わせ、したてなおしていくのが賢明な大人の選択だろう。←なんと。なんと。。

ところで、場とはなんなのか?

「場の思想(東京大学出版会)」を書いた、清水博という生命学の巨匠がいる。ぼくは一度だけ、皇居脇、九段にあるギャラリーで遭遇したことがあるのだが、恐れ多くて声も掛けれなかった。←ああ、もったいない。

清水博は、場について次のように言う。

『場とは何かときかれたときに、私は次のように答えることが多い。「あなたの体をつくっている細胞の一つを想像してください。その細胞があなたの生命(あなたの体全体に宿っている生命)をどのように感じるでしょうか。あなたがその細胞になったつもりで考えてください。そのときあなたが感じるもの、それが場なのです」わかりやすく言えば、場とはこの場合は自分を包んでいる全体的な生命の活き(はたらき)のことである』

人間というものも、細胞の身になって考えたとき、多種多様な共存者が存在するひとつの場である。つまり制度を変えていこうと思うのであれば、内側に入り込んでしなやかに揺さぶり、その揺さぶりが共振を始め、大きなうねりとなったたとき、新しい領域へと転移していくのではないのだろうか。←甘いか。。命がけの革命しかないのか。。なんとなく漢方と西洋医学の処方箋の違いに見えてきた。。

その、共振へと向かわせる推進エンジンはステレオタイプではあるが「五感を震わせるような〇〇」ということになるんだろうな。。
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by ogawakeiichi | 2010-06-11 07:37 | 只記録

アジアデザイン




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by ogawakeiichi | 2010-06-09 03:31 | 只記録

自発性のパラドックス

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ウラハラに三番弟子が地獄の日々に直面し、ふつうの学生に戻りたいとのたもうておりますが、これは自発性のパラドックス。多様を多様と認めることはわかっていても、目の前でおこる現実の混乱にどう対処するかは、それはまさに多彩多様のエディトリアル・ワークの実践。絶対矛盾を自己同一させる『技』でしかないよな。

ボランティアの報酬とは、社会的なものだけとは限らない。その人によっていろんなバリエーションが可能である。しかもそれを自分ひとりで得たのではなく、だれか他人の力によって与えられたものだと感じるとき、その「与えられた価値あるもの」が、ボランティアの報酬である
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by ogawakeiichi | 2010-06-08 04:44 | 只記録