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彩遊記

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The Story of Stuff

以前、アップしたケインズ対ハイエクの系を、もっとぐっと市場に意識を収束させると、国家の介入を小さく規制緩和などして、市場の競争原理を重視しながら出来るだけ自由に競争させることで能力のあるものを伸ばし、結果として全体が向上するという新自由主義になるのでしょうが・・

まあ、ダーウィンの進化論みたいなもので、共産主義とは間逆の立場で、それと同時に、国家による富の再配分を主張する自由主義や社会民主主義とも対立する思想なんでしょう。。

今回はこれとは違う立ち位置から。

これって、ブータン型になっていくのか、方法の提案はないのでようわからんのですが、企業がすべて悪いような立ち位置にもみえますが、まあ、あたりまえといえば、あたりまえのことを言ってます。ちょいフェアトレードっぽいか。
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↓ここは埒外ですが、こんなデザインやっていこうと思っちょります。

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by ogawakeiichi | 2011-05-30 17:07 | 情報とデザイン

ドラッガーからコトラーへ(書きかけ)

マーケティングとは何かを知ろうとするとき、まず理解しなければならないことは『マネージメント』です。

いまじゃ、漫画にもなったドラッガーはマーケティングを「組織をして成果を上げさせるための道具・機能・機関」と定義しました。

もっと詳しく言えば「顧客というものをよく知って理解し、製品が顧客にぴったりと合って、ひとりでに売れてしまうようにすること」ということです。。

つまり、ドラッガー理論に従うと「、顧客のニーズを知り、ひとりでに売れる仕組みを構築することでした」「買わないことを選択できる第三者に、喜んで自らの購買力と交換してくれるものを提供する活動」でした。

しかし、顧客のニーズにだけ注目していたのでは、そのうち企業は立ちいかなくなります。

というのも、企業というものは、顧客と製品との関係を取り結び、そこからマージンを抜いているだけに過ぎないからです。

そこで、重要になるのが『イノベーション』です。

『イノベーション』とは、人的資源や物質的資源に対してより大きな富を生み出す新しい能力をもたらす力のことで、これはまた、顧客の新しい満足感を創造し充足させることにつながります。

このようにマーケティングとイノベーションの双方のバランスをとることが、マネージメントの大きな課題になっていました。

つまり顧客のニーズを知り、イノベーションで売れるものを生み出し、ひとりでに売れる仕組みを構築していく。

一方、それをさらに発展させた人物が登場します。その人の名はフィリップ・コトラー。

コトラーはマーケティングの定義を『個人と組織の目的を満たすような交換を生み出すために、アイデアや財やサービスの考察から、価格設定、プロモーション、そして流通に至るまでを計画し実行するプロセス』と定義しました。

また、コトラーの戦略的マーケティング(2000年)では、マーケティングとは『どのような価値を提供すればターゲット市場のニーズを満たせるかを探り、その価値を生み出し、顧客に届け、そこから利益を上げること』と書いています。

ドラッガーのマーケティングが製品中心の1対多数の取引から消費者志向の1対多数へと発展させ、コトラーはそれをさらに消費者志向の1対多数から、多数対多数の協働で価値をつくりだす方向へと展開させていったのです。

かって右肩あがりの時代、モノをつくれば売れました。こういう時代には、市場全体を対象に製品やサービスを提供する手法がとられました。

しかし、顧客の嗜好が多様化する中、市場全体を対象に製品やサービスを開発するのは、困難になってきました。

その代替として登場したのがコトラーの『ターゲットマーケティング』でした。

ターゲットマーケティングでは、まず市場の中から、共通のニーズを持つグループを明らかにします。

つぎに、市場をいくつかの大きなグループに区分けすることを『セグメンテーション』と呼びます。

そして明らかになったセグメント(グループ)について、そのボリュームや自社の強みなどを検討し、その上で自社にとって特に有利なセグメントを選び出します。これを「ターゲティング」と呼びます。

続いて、この絞り込んだターゲットに対して、競合他社よりも、自社の価値を高く評価してもらうため「顧客にぴったりと合う」ような製品やサービスの位置づけを検討します。これが「ポジショニング」です。

まとめると

コトラーは製品中心「1.0」から顧客の満足を目指す「消費者志向」の「2.0」へバーションアップさせ、ターゲット・セグメンテーション・ポジショニングを説きました。

実はコトラーさん、その後マーケティングを「3.0」にバーションアップしていくのですが

ここがソーシャルへと繋がっておもしろいのですが。。。

きょうは、ここまで。。
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by ogawakeiichi | 2011-05-26 11:41 | 情報とデザイン

美山での姜尚中の話から

沈家伝世品収蔵庫のオープニング。そこでの姜尚中講演の記録から。。←紛失したメモが、やっと出てきたので・・。

ピーター・ブリューゲルの生きた時代16世紀前半。その頃、ヨーロッパでは宗教改革がありペストが蔓延していた。彼の作品、『バベルの塔』は上には暗雲がたちこめ、窓は骸骨の目のようにも見える。人間の愚かさを活写しているのだろうか。
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フリューゲルの母は18人の子供を生み、そのなかでわずか3人しか残らなかった。ドイツニュールンベルグでのこと。18名中3名という低い生存率は、まさに生と死が同居していた。

そんな環境下のこと、ピーター・ブリューゲルが描く絵は生と死の境界を描く絵になっていった。

先の東北大震災では東北大震災では、日露戦争と同じくらいの人が犠牲になった。加えて3000万トンの瓦礫が発生し、燃やすとダイオキシンが発生するため焼却処分もままならない。地震で損傷ないものの津波でやられたわけだ。わずか1mで生と死を分けた世界が千葉から青森までの東北の海岸線を延々と続く。

ことしは親鸞上人生誕750年。それを記念する祭も中止になった。親鸞が生きた鎌倉時代、鎌倉仏教は法然・親鸞・日蓮の宗教人が出現し、当時、末世といわれ飢餓のあまり、人を食べていた時代だ。

飢餓のど真ん中を駆け抜ける時代において、彼らはいかにして人を救うかを考えた。

しかし、答えはただ『祈り』でしかなかった

究極の場では、言うことは易しいが、どこから手をつけるのか、これとどう向きあ合うのか。根本的には存在を問われた。

何が人を慰めてくれるのか、泣きたい、感動したいなどどいうセンチメンタルな気分では済まない時代が、16世紀ヨーロッパ。これがピーターブリューゲルの生きた時代だ。

16世紀の彼らはアーティストとは呼ばれてなかった。(※実は芸術家という職業は19世紀からなのである。)当時の彼らは多面的なことをやっていた。芸術のための芸術、美のための美ではなかった。頼まれてつくる中に全人格を没入させた。そこには、人間の悩みや苦しみが現れた。

『バベルの塔』の物語りは、神により、人々がコミュニケーションできないように言語を分けた話でもある。

いまの福島原発での出来事は、プルトニュームという自然界には存在しない元素をつくりだした完全に神の領域に手をつけたバベルの塔なのかもしれない。

と、まあこんなとか。

蛇足だが 新日曜美術館は、印象派やフランスをやると視聴率があがるらしい
(美山での姜尚中の話から)
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by ogawakeiichi | 2011-05-23 09:40 | 只記録

漢字閑話

f0084105_3431396.jpg中国大陸を歩くと、日本にはない見慣れない漢字に出会う。今の中国、すなわち中華人民共和国の成立後にできた字だ。

これらの字は、それまで画数の多かった五百十七を選んで筆画を簡単にした「簡体字」と呼ばれる大陸だけで使われている字。

中国での暮しは10年を越えた。はじめは不慣れだった「簡体字」も。知らず知らずのうちに身近なものになっていく。帰国した今でも気づかないまま書いてしまう。

この「簡体字」だが、カタチからなんとなく意味を想像できるだが、なかには全く違う意味のこともある。

たとえば、日本語の「洗濯機」は中国語では「洗衣机」となる。「機」が「机」になる。

およそ三千数百年前につくられた漢字は篆書、隷書、草書、行書、楷書などに変化してきた。

蛇足だが篆書は皇帝が、隷書は皇帝から見れば奴隷である一般庶民が使ったのではと個人的にアブダクションしている。

漢字の歴史から見れば、「簡体字」の登場は自然の流れだ。なかには、国境を越え変化するものもある。

日本は「峠」や「辻」などのように国字とよばれる中国にない字を生み出した。さらに略字や俗字、筆写体から「新字体」をつくっていった。

台湾や香港では「壽」や「國」などの複雑な旧字体をそのまま使う。

伝説によると漢字の起源は蒼頡(そうけつ)という名前の四つの瞳をもった男の話にはじまる。彼の鋭い眼光は、鳥や獣の足跡を見て、それぞれの違いの中にも法則があることを発見する。
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その自然の規律を応用してつくったのが漢字になったという伝説だ。文字学の世界では、漢字を読み解くとき、二千年前の後漢時代に許慎(きょしん)によって書かれた「説文解字」という古典にしたがう解釈が一般的だ。

しかし、その解釈に対し、独自の解読を試み、漢字に遊んだ日本人がいる。

『白川静』だ。

解読という作業は、究極的にはその個人の解釈にすぎず、絶対に正しいと証明されるものではないが、漢字解読に至るまでの白川静の「方法と覚悟」に底知れぬ魅力を感じる。

ぼくは水墨画を描くとき気分転換の意味も含め、甲骨文字にチャレンジするが、そのとき白川さんの編集した本がすこぶる役に立つ。   

なにしろ白川さんの解読は、中国最古の漢字、甲骨文字を介してその時代にいる気分にさせてくれるのだ。線の一本一本が神様との交感だ。

たとえば「文」という字の解読は、こうだ。

「もともと×(バツ)はまじないの印で、それが西洋では十字架になり、東洋では、卍(まんじ)になった。この×(バツ)に屋根をつけたのが『文』になる」

白川さんの凄さは、漢字の成り立ちを解読するために、日夜、甲骨文字をノートに写し、写し、ただただ身体で写しつづけ、全身全霊を中国の古代に投げ入れて文字を体感したことだ。

まるで悟りを求める禅僧のようだ。

そのうえで漢字の字源を解き明かした。

文字学の歴史に巨大な痕跡を残し、九十六才で生涯を閉じた。

ぼくも、爪痕でいいからそんな痕跡を残していきたい。
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by ogawakeiichi | 2011-05-13 05:32 | 只記録

社稷共同体と老荘思想

古代中国社会は社稷共同体を前提として発達してきた。社稷共同体とは、流行りの言葉でいえばコミュニティーの元祖みたいなものである。→コミュニティーに関してブログ

最近はネットでもリアルでもゆるりとした共同体ぽいものが現れているが、元来、共同体は日本で言うところのムラ(村・邑)。村八分といわれるぐらいそのルールとロールは厳格でもあった。

社稷共同体は後漢のころに崩壊し、三国時代から荒廃しはじめた。現在でもそのミームを“宗族”に見ることができる。華人にとって旧正月・春節には一族で「年夜飯」とよぶ食事をすることが尊ばれる。春節を一族で過ごすために、「春運」とよばれる民族大移動をものともせず旧正月を“宗家”で過ごそうとする覚悟と熱意はすさまじい.→チャイニーズ正月の熱気に関してのブログ

ぼくの水墨画の老師である帥老師の一族は数年前、父親の名を冠した「帥礎堅芸術館」をつくった。この芸術館をシンボル的なアイコンに春節や国慶節は一族ここにあつまりマージャンや食事に興じる。これもまた“宗族ミーム”が立ち上げた現代の社稷共同体なのかもしれない。

さきほども述べたが『社稷』は三国時代になると民衆は精神的支柱であるべき共同体を失って、様々な迷信や祈祷に頼ることになる。隙間を埋めるべく上からは仏教が、下からは道教がしみこんでいく。

その道教だが、官僚社会と同調しない道教のタオイストたちや隠遁する逸民は、老荘思想を好んだ。
そして、山野を山水に変え、そこにまったく新しい「景色」を見つけ出していく。

次にはそれを詩画として表現していく。こうやって山水画の世界が確立していった。 

中国の北と南はまったく別の国に近い。交通手段をとっても「南船北馬」と言うように、北は馬を使い、水の豊かな南では川や湖やそれらをつなぐ運河を発達させ舟による交通をおもな手段とした。この風土気象の違いこそが、のちの「華北山水画」と「江南山水画」の差異となってあらわれてくる。 

ぼくが10年以上暮らした、華南桂林は山水画家が数多く暮らす街でもある。地質学的に隆起カルストによる奇峰群もさることながら地形的にも湖南省の南に横たわる嶺南山脈の分水嶺が北の長江水系と南の珠江水系に分ける場所にほぼ近い。

分水嶺の南側は霧のかかる風景の日が多い。すなわち華南の桂林に水気の多い山水景色が立ちあがるわけはここにあるのだ。
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by ogawakeiichi | 2011-05-12 06:36 | 只記録

安田登の多様性

f0084105_341094.jpg以前、高田馬場で同期からロルフィングというもの存在を教えてもらったことがある。中国のスワイソウにも似た、そのロルファーのハシリが安田登だ。

そこには、おなじく身体理論を説く、斉藤孝との共同知を感じたが凝視してみれば、なるほど、ふたりともそのさらに奥には「能」のシテとワキの方法論が控えていた。

安田登は、そのロルフィングの使い手であるとともに、多彩な顔をもつ主語の多き人である。もともとは漢文が専門で、若いときに漢和辞典を一人で仕上げたという素養があるうえに、メリハリ読みの開発、朗読パフォーマンスの新たな様式も実験している。

世界中を旅行しているし、台北ではスクーターを乗りまわす。中小企業診断士の資格をもつ、ともかく何でもこなす、ぼくの好きなポリロールな複雑系の人である。この手の人に企業診断されてみたい。

近辺のコンサルや診断士はバブル期の単純系の経営理論をいまだに駆使し、セミナーでも目的の明確化と、事業と売り上げ拡大ための紋切り型を説くが、共同体の覚悟など毛頭ない。場外から相手の違うパンチを繰り出す。

安田に言わすと

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むろん、それが高度経済社会の存続という幻影の上にのみ築き上げることがでくる蜃気楼であり、人生そんなに甘いものではないだろうということは、ほとんどの人が実感している。

目の前で子供が餓死していく社会や、戦争によって多数の無辜の命が失われている世界において、今飢えで死に行く子に向かって「人生は自己実現のためにある」なんてことは口が裂けてもいえない。(安田登)
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とまあ、こんな具合だ。

安田登は。ワキの熟知を通して日本や日本人が見失った「日本という方法」をみごとに見抜いた。一度、こちらからブレーンをお願いしたい人である。←そんなダイソレタこと。


おわり。。。


↓とてもイイ埒外
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近代欧米社会がつくりあげた神話は、一言でいえば「明日は今日よりもよくなる」という進歩思想というものだった。

未来は上向きに、少なくとも右肩上がりに進むというものだ。それを証明したのが産業革命と資本主義市場と民主主義だということになっている。

やがてこの思想は個人にもおよび、「自己実現」というたいそうアメリカンな方針を個々人にふりまいた。そのうち「ポジティブ・シンキング」こそあなたを救うという口調になってきた。
 
日本でもバブルの前あたりからこの傾向が広がってきて、バブルが崩壊したのちもコンセプトだけは堂々と残った。成長志向や上昇志向というコンセプト。

むろんこんな自己実現思想が世界のどこでも、誰にとっても通用するわけはない。

自爆テロの自己実現は民主主義を無視しているし、高校野球の自己実現はとうてい甲子園に出られない野球部の青春にとっては資本主義とは無縁のままだ。

中小企業では自己実現はほど遠く、会社は重たくなるばかり。多くのクリエーターも「自分さがし」などしていられない。あげくは「負け組」というつまらぬ言い方の流行がまかり通っている。いったい、なぜ負けてはいけないのか。日本はこのあたりがかなりおかしくなってしまった。(松岡)
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お・わ・り。
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by ogawakeiichi | 2011-05-11 05:54 | 只記録

芸術と抽象と身体性

f0084105_662387.jpg土方巽をはじめてみたのは、全共闘の熱気さめやらぬ、法政大学の大学祭でのことだった。全身白塗りの身体でシンセサイザーの音に乗り踊る姿は、恐ろしく衝撃的で見てはいけないものを見たような気分であった。

舞踏家、土方巽は舞踏譜というものを記述していた。舞踏譜とは、舞踏を踊るための譜面である。彼の舞踏は即興ではなく、すべて譜面に基づいて踊られていた。しかし、その舞踏譜というものは、たいてい絵や詩が書かれたものだった。その絵は彼が書いたものではなく他人が描いたものだ。その絵に詩がつけられ、さらに絵と絵が詩によって結びつけられていたりする。土方巽は、それを見て舞踏という身体表現をしていたのだ。

絵というものはすでに抽象度の高いもので、言語というものは比較的抽象度の低い表現方法であり、詩は通常の言語表現に比べれは比較的抽象度が高い表現形態である。このような抽象度の高い存在と抽象度の高い存在とを結びつけ、的確に理解するにはこれ以上に高い抽象度でモノやコトに対処する能力が必要である。

抽象度を上げない限り、それを譜面としてみることができない、単なる絵と絵、絵と詩としてしか見ることが出来ない。

つまり、土方巽という舞踏家は相当に高い抽象空間で身体表現を描いていたことになる。高い抽象度で舞踏譜を読み取ったあとで、身体表現という物理世界に落とし込めなければ実際に踊ることはできない。

抽象度をぐっと上げたあとで、もう一度、低い抽象度まで舞い戻り身体で表現しているわけだ。

舞踏家は皮膚の表面に白塗りをしている。これは、この白く塗ったところが自分の皮膚だということを強調するためだ。そのことで、皮膚の動きがクローズアップされる。白く塗った皮膚の動きだけで、抽象化された空間のすべてを表現するための増幅装置徒とも言える。

絵画表現も同様である。例えば、風景画を描くときでも一度抽象度を高めて自然を捉え、その捉えたものを今度は絵筆を使って身体で表現する。絵画の芸術性はどこにあるかと問われれば、絵画そのものにあるのではなく、絵を描いている身体の動きにあるのではないかと思われる。すなわち身体の軌跡が絵なのだ。

もう少し突っ込んで言えば、作者が身体をつかって表現しようとしている高い抽象空間を『観る』ということになる。

芸術とはすべてが身体表現だ。ところが一般の人が芸術作品をみると、その作品そのものが独立した存在としてみてしまう。しかし、本来は作者の身体的軌跡を作品に合わせ聴き、そして見るのが芸術なのである。←おもいっきり言い切り御免。
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by ogawakeiichi | 2011-05-10 06:16 | 身体性

主観と客観

客観的観察を心がけてはいるものの、主観をもった自分というものが客観的になりえるのだろうかという疑問がある。

自分が見て認識している世界と、他人が見ているものとは一致するのであろうか?

ボクたちはふつう、花なら花という対象を見ていて、その対象は自分の外に実在すると思っている。けれど、本当に外界に対象があるかどうかは、本当のところ分からない。

小学生の頃、毎土曜日の放課後絵画教室に通っていた。その当時、ともだちに、『ぼくに見えているこの色は、あんたにもおなじ同じ色にみえるのかなあ?』。などと。。いま思えば、ずいぶんマセたことを尋ねたことがある。←ともだちがなんと答えたかは覚えてないが。。。。。。

ボクたちは、同じものをみて、当然他人もおなじ色やかたちをみてると思いがちだが、これを確証することはできない。客観など確かめようがなく、あくまでも「そうだろう」と類推する世界だ。

認識(対象化)された世界だけが、ボクたちの実存世界である。←ギリシャ初期のプロタゴラスや、ゴルギアスが唱えた相対主義もこんな感じだった。。その後、プラトンは相対主義からなんとか脱出を試み「万人が共通して思い浮がべられる何か」「現実には存在していないはずなのになぜが皆が理解している何か」をイデアと名付けた。

認識によって世界は確認される。認識されなければ「世界」は「無い」のと同じである。問題は“その世界”が「わたし」が脳内で認識する「世界」だということだ。

フッサールは、わたしたちの世界の見方は先入観に支配されている。先入観にとらわれた世界の見方をいったん停止して一切の源泉である純粋意識を記述しようとした。(フッサールの現象学)

サルトルは現象学にしたがって『モノをみる』ということは、そのものに直接触れることだと考えた。彼は、意識は閉じた『内部』ではなく、『外』(そのもの)へ向かって破裂する運動そのものだと考えた。意識は『もの』ではなく、『関係』なのだと考えた。

たとえば、目の前にグラスがあったとしよう。わたしの意識とグラスの二つに関係があるのではない。意識はそれ自体が独立したモノではないとする。つまり、意識が向けられた『グラスとの関係』それ自体が意識なのである。。←このあたり、仏教の縁起の考え方と似ているが、仏教が世界を縁起として捉えたのに対し、サルトルは対象に向かう自己意識としてとらえている。

『わたし』とは意識の『中』にあって、意識を支配する主人のようなものと考えられてきた。しかし、サルトルは、そもそも意識の中に『わたし』はない。という。サルトルは意識から『わたし』を排除することがらその哲学を出発させた。

わたしの認識(観念世界)と実存世界は同じではないかもしれない。にも関わらず、同じ認識として語るしか「世界」を語ることはできない。

ぼくの某処での指導教官。。。は。。こう説く。

===
どんな人も“自分”というセマンティクスな認識のフィルターを通してでしか世界を認識することはできないのです。認識とはあくまでも主観的なものだ。客観的という言葉においてさえ、それは人の考えを推しはかっているにすぎません。

 「他我の妥当(=間主観性)」を通して、人は自分にとっての目に見える現象と人にとっての現象が同じと判断します。人間の目の構造も脳の構造も同じなのだから、同じ「リンゴ」を見れば、同じように見えていると判断します。

間主観性とは、他者の主観を自分の主観と同じと考えることと言ってもいいでしょう。しかし色弱という人たちには「赤いリンゴ」が「赤」に見えないということだってあります。何度も言うようですが、私たちが「赤」と思って見ている色が実際同じ色に見えているかどうかは確かめようがないのです。(OM師匠)
====

世界に内属する自分。その内属するヘリ、内側の周辺の接触部分を私たちは「世界」と見てのぞき込んでいる。実際に浸かりながら触知している。それが現象の知覚、認識の世界なのである。

そこで客観的になるには、フッサールの言う純粋意識を獲得するにはどうすればよいのだろうか。

これはもう、異能とかの深遠な技でしかないような気がする。

しかし、この不立文字の世界をどう銘文化すればよいのだろうか。う~~nn.
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by ogawakeiichi | 2011-05-09 00:13 | 只記録

海岸線の歴史

f0084105_11521478.jpg松本健一が、仙石さんと東大で席を並べたことは知ってはいたが、正統右翼っぽいと思っていた“松ケン”が菅政権の内閣参与にいたことは、『原発の周囲・・・・住めなくなる発言』を巡り、メディアが騒いだことで知り、かなりタマげた。

だからといってどうということでもないのだが、個人的感想だが、松本健一は國士なはずだ。

東アジア史に嚆矢が向いたぼくの周囲には松本健一追っかけファンもいて、内輪では松本健一より“松ケン”のほうが通りが良い。あっ、そうそうこれを出版しているミシマ社もナカナカ。地震と原発騒ぎで京都に疎開していたが、いまは本来の自由が丘にもどったはずだ。

さて、彼の著書『海岸線の歴史』から

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日本は「海岸線」の異常に長い、世界有数の国だ。国土面積でいえば日本の25倍近いアメリカの1・5倍、同じく26倍の中国の2倍以上にも達する海岸線を持っている。それにも関わらず「海岸線の歴史」を書いた本はこれまでまったくなかった。

1853年のペリー来航以来、日本がどう開国し、国内の変革をしていったか、その革命の歴史を追った本でもある。

松本は、まず、日本人の東洋内にあった精神が、ペリーによる開国によって西洋にも開かれていったのではないかと考えた。

開国が日本人の精神をどう変え、国の形や政治体制をどう変えて行ったか。イデオロギー的な意味合いではなくて、もっと文化的、生活的な意味での変化、その生活の場や風土の形そのものも同時に変わっていったのではないかと考えた。

ペリー艦隊の来航から、それに続く明治維新によって、日本の政治体制は徳川の幕藩体制から、天皇を中心とする明治政府による国民国家体制に代わる。松本ははこの頃から「日本の海岸線の形態が大きく変わっていったのではないか」と思うようになっていく。

その考えのきっかけとなったのがペリーが乗船していた船艦だ。彼らが乗っていた洋船は、排水量が2450トン。当時の日本のもっとも大きな千石船でも、100トンだから、じつに25倍もの大きさだ。

船の構造も日本の北前船とはまったく違う。外洋航海のためにつくられた洋船は、甲板と竜骨があり、ビヤ樽を横にしたような構造。

それに対し日本の北前船が利用していた港は、瀬戸内海の鞆の浦のような、外海と直接は接せず、入り口のせまい、円形の入り江のような浅い港が中心だった。ところがペリー艦隊は、そうした港のなかに入ることができなかったのだ。

彼らは浦賀に来たときも、常に海岸線から2~10キロ離れていた。つまり、洋船が停泊できる港には、10メートル近くの水深が必要だった。そのときから日本の港は、鞆の浦のようなお椀型の船による国内交易を前提とする時代から、ビヤ樽型の洋船による諸外国との貿易を前提とする時代へと転換があったわけである。

ペリー艦隊は最終的に、徳川幕府に、横浜、神戸、函館、長崎、新潟という5つの港の開港を要求する。しかし、なぜそのような港が必要だったのかは、今までの歴史書に書かれていない。

香港というのは、アヘン戦争で清国に勝利したイギリスが、南京条約を結んだことで手に入れた港。しかしそのときになぜイギリスが香港を要求したのかは、これまで中国史や東アジア史でも書かれたことはない。しかし松本は実際に香港の港を見て、その理由を突き詰めていく。

香港の港の背後には、標高500メートルぐらいのビクトリアピークがある。そこに登れば港を全部見渡せるようになっている。これは長崎の港も同じだ。つまり、当時のイギリスの軍人や貿易商人は、港を全部見渡せるところを必ず軍事的・貿易拠点とし、居を構えるようにしていたのだ。

それは敵が港に入ってきたらすぐに大砲を撃って撃退するためであり、いち早く貿易船を見つけるためでもあった。

紅茶や香辛料を積んだ交易船が港に入ってきたときに、一番に見つけることができれば、最初に駆けつけていち早く交渉をすることができる。軍事防衛のためでもあり、貿易のためでもあった。

と、そう考えた。

香港島は当時、島の人口が2000人、九竜半島も足して8000人。それがいまは800万人の巨大都市。同様に、ペリー来航当時の横浜村は、人口わずか800人。対岸の戸部村を合わせても2000人しかいなかった。それが今では、横浜市の人口は350万人。1750倍に跳ね上がり、日本第二の巨大都市となっている。

つまり現在の世界的な港湾都市である香港も横浜も、その時代を境に人口が急増しているのだ。

古い地図を見ると、現在の横浜駅は海のなか、その先の「税関の内側(内陸側)」を意味する「関内」という京浜東北線の駅も海中。税関があったところはまさに埋立地で、葦が生えている湿地帯。江戸時代まではまったく使われることのなかった湿地の土地が、急に外国に向かって開かれることになり、どんどん埋め立てていって海岸線を海に押し出していった。

このように、ペリー来航の衝撃というのは、西洋文明に接触するという意味でのウェスタンインパクトであると同時に、日本の港湾にも劇的な変革を迫るものでもあった。

そして港、ひいては海岸線の変化はその後、日本人の暮らしや生活意識をも大きく変えていった。


日本の海岸線をあらためて数字で見ると「諸外国にくらべてこんなに長いのか」とびっくりするが海岸線が長いと思われている中国もアメリカもじつは大陸国家だ。とくに中国は海に接しているのが、東シナ海に面したところだけですから、国境線の1/10しかない。また中国の場合は、海岸から1万キロほど内陸に入らなければ山は無い。

日本は沢山の島からできていて、岩手の三陸のようなギザギザのリアス式海岸も海に接するように山がある土地が、あちこちにある。隣の村に行くのにも険しい山を越えねばならないような場所では、海から船で行ったほうが楽なため、そのような交通形態をとっていた地域も少なくない。

しかし、そういう地形は中国にはない。つまり中国のほとんどの人には、その精神風土のなかに海がない。アメリカも同じだ。

中華料理も、上海や香港の料理以外は海のものはなく、干しあわびや干しなまこなど、全部乾燥したものだ。日常生活のなかに海があるという感覚は日本人に独特なものなのだ。

神代の時代につくられた出雲大社のご神体というのは、1メートルぐらいある大あわびだ。ふだんは見ることはできないが、昔は外国人が来ると見せていた。

ラフカディオ・ハーンが、それを見たときのことを書いている。大昔、出雲大社に辿りついた海洋民族は、海のなかで一番美味な大あわびを豊穣のしるしのご神体として拝んだのだろう。祈りによって豊漁を祈願し、海の民族だからこそ、海のなかで見つけた大きな不思議なものを崇拝したわけだ。

基本的に日本人は、古代に海を渡ってきた人々が、日本列島に住みついた民族だ。だから自分達の祖先も海の彼方にあると考えます。神様も海の向こうにいる。これはギリシャも同じである。ギリシャも島が一杯ある国で、エーゲ海に浮かぶ島を渡って辿りついた人々がつくった国ですから、神殿はほとんど海の方向を向いている。

自分達が渡ってきたもともとの故郷の方を向いているのだろう。

日本が中国やアメリカに比べて2倍以上の海岸線を持っている、島嶼国家であることを改めて認識し、二千年来、海岸線とともに生きてきたにも関わらず、その民族の知恵や感情というものを、わずか150年ほどで失いつつあるのである。


引用参考→ここ
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by ogawakeiichi | 2011-05-08 11:52 | 日本史&思想

ケインズVSハイエク 第二ラウンド

最近では、ツイッターやフェイスブックの方に移行して、ブログがすっかりご無沙汰だ。

このブログ、元来移動の多いオイラとしては、記憶の外部装置みたいなもので、パソコンがなくてもネットカフェや、どこそこでパソコンをちょっと失敬してわすれた事項を思い出すために使用していた数年前だったのだが、簡単なワードは携帯電話でチョロッと書き込める気軽さから、その機能をツイッターへと移していった。

もちろん自己記憶用ツイッターはフォローもフォロアーも少数で、本来の情報伝達というツイッター機能などない。←使い方をわかってないだけ(笑


フェイスブックは、ねずみ講のように膨れ上がるいざないに、触りだけでもと、参加してはみたものの、突っ込んでいくとそれはそれでスグレモノでもあり、なにかと厄介でもある。アヤシイ商売、人気稼業の政治屋、ネットビジネス、もちろんまっとうな人集めのツールとしてはなかなかのものでしょう。

デザインの概念も、モノからコトへ、コトから関係性へとバージョンアップし、ソーシャル花盛りといったところだ。

これまでの金融システムが成り立たなくなるような気配の昨今、相互扶助を基礎にして、自分自身が未来を作り出す発想に立たないといけないのは、わかっちゃいるが・・。

基本的に類より個、不特定大多数より特定少数の方が居心地がいいのである。まあ、それはそれとしておこう。上位レイヤーだもんな。。

秘めておくのももったいない、公開したいお宝写真や物言いはフェイスブック。忘れたくない自己用メモはツイッター。閉じておく必要もないが、見たいならみていいよ程度の、自己気分や記録の変遷がブログといった塩梅か。

ところで、約1年ぶりにケインズ対ハイエクの第二ラウンドがはじまった。

一年前は→ここ



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by ogawakeiichi | 2011-05-07 07:32 | 只記録