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彩遊記

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郭務悰の唐・占領軍

昨日のブログでは藤原鎌足を百済の皇子・豊章と書いた。このあたりは以前はトンデモなように言われていたのだが最近はなぜか、この手の情報が、有識者から漏れ聞こえる。

わたしがトレースのもとにして、自己変換しているプロトタイプは静岡県知事である川勝平太氏の論文だ。

NARASIA 東アジア共同体という平城遷都1300年記念の論文集にある。(※この論文集、後付にはわたしの名が記載された貴重な本でもある。)←ちょい、自慢(笑

おっと、話がずれてきた。

さて、さて、当時、ときの百済の現地リーダーは福信である。


豊章(藤原鎌足)は663年、福信の大歓迎を受け、百済へ帰り百済王となった。

しかし、唐・新羅連合軍と刃を交える戦術で、福信と決定的に対立し豊章は福信を殺害した。

そして唐・新羅の連合軍の前に敗れ、百済王朝は完全に滅亡した。

その百済王朝の血をひく鎌足の息子が藤原不比等なのだ。

つまり、鎌足が父となり日本で生まれた子の藤原不比等は百済系の2世なのだ。

日本書記のハイライトは百済の観点からすれば、朝鮮半島における百済の滅亡である。

その滅亡は663年、白村江海戦での倭の水軍の壊滅的崩壊だ。

敗戦後、近江令の制定、壬申の乱、藤原京の造営、「日本」の国号、「天皇」の称号の採用などが目白押しであった。

その急展開の背景には唐の使節や軍人が繰り返し来日しているという事実がある。

郭務悰が唐からつれて来日した数は2000人にもおよびそれは占領軍といってもよい

つまり倭の体制は崩壊し、唐帝国のシステムを模倣する方向に向けて大転換がおこったのだ。

その過程で、倭は「日本」という国号を持ち、律令制が導入され。都城が建設された。

その大転換期に藤原不比等による百済王家の日本における再考が画策されていた。


藤原京につづく平城京の造営は、そのような国際的共同作業の脈絡でもとらえうるのである。
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by ogawakeiichi | 2011-09-30 14:40 | 日本史&思想

鎌足は豊章か?

f0084105_63237.jpg昨夜は薩摩焼15代沈壽官氏と語りあった。2~3ヶ月に一度だが、深夜にまでおよぶダベリングは、気がつけば10年を越えた。

彼は古代アジアから現代アジアまでの歴史、政治、民族をつないで語れる、数少ない友人のひとりなのだが、イタリア留学の経験もありヨーロッパを含めたユーラシアの歴史にも強い。。(蛇足だが司馬遼太郎は彼の仲人)

さて、そのなかで話題になった一つに、北魏の平城と奈良の平城の関係性がある。

これは、話しだすと3日はかかるという代物で・・・(笑.

まずは手始めに、奈良の平城京からふりかえっていきたい。

平城京は藤原不比等が構想をねったと言われている。藤原不比等の娘、宮子は、文武天皇婦人となり、もうひとりの娘の光明子は聖武天皇の皇后となり天皇家に深くくいこんだ。

藤原不比等の父親はいわずとしれた中大兄皇子(天智天皇)の盟友である藤原鎌足。

これがアヤシイ。

鎌足は辰巳の変で、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした。

日本書紀は、天武天皇が編纂を命じ、舎人の親王が編集を主宰し、770年に完成したものであったが、神代から持統天皇までを編年体で記録している。

国生みの話し、仏教導入の蘇我氏と物部氏の争い、乙巳の変、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱など、平城京設立直前までの「日本国」建国までをめぐる内容の歴史書である。

しかし、この日本書紀にはいくつかの不可解なことがあるのだ。

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第一に、鎌足の出自が明確でない。

第二に、鎌足は軽皇子(孝徳天皇)のごく簡単に近づいているが、なぜそれができたのか。

第三に、大化の改新以降、蘇我氏の宗家を滅ぼして以来、鎌足がなにをしていたのが、記述がない。

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鎌足が蹴鞠の会で、中大兄皇子(天智天皇)に近づいたのは彼が31歳で、中大兄皇子は20歳。

鎌足は10歳あまりも若い中大兄皇子を説得し、最高権力者の蘇我入鹿を暗殺する計画を実行し入鹿の父蝦夷を自害させた。その後、鎌足は内大臣になったのだが、何をしていたのか記録にはない。

鎌足が再び登場するのは百済救援にむかった倭の水軍が白村江で大打撃をうけ、百済王朝が663年に滅亡した翌年、来日した唐使・郭務宗(かくむそう。。宗は左にりっしんべん)(※なななんと、つまり、当時の倭なのか日本なのか実にアイマイな時期。じつは唐の占領軍が来ていた。)この場面に鎌足は出現する。

朝廷が百済救済にさしむけた最高司令官は豊章である。

日本人ではなく百済の人だ。

その彼が、どうも鎌足だったのではとアブダクションされるのだ。

百済の豊章が鎌足であればスッキリ解決することがたくさんあるのだ。

豊章とは人質として来日した百済王義慈の皇子である。

鎌足(豊章)が来日した年齢は17歳。



つづく・・・
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by ogawakeiichi | 2011-09-29 06:07 | アジア史&思想

整体入門

f0084105_12281089.jpgイギリスで暮す同期の桜から、「人に「気」をあげるにはどうしたらいいの?教えてくださ〜い。」と、FBで言ってきた。

なぜこんなこと質問してくるのかと、よくよく振り返って記憶の糸を辿り寄せてみると、以前、新宿か高田馬場で酔ったついでに、氣を練ったことがある。

「氣」など、普通のことだと思っていたのはどうやら僕だけで、周囲にけっこう驚かれ、面食らい、なんだか、みっともないことをやっているような気分になった記憶がある。

誰もがやらないだけで、誰だってできるのだが・・

スプーン曲げも一緒だ。もちろん力を入れるには入れるのだが、曲がるポイントを見つければイイだけのことなのだがこれも、誰もやらないし、ましてスプーン曲げなど余興の出し物だ。まあ、裏を返せば、誰もやらないところがミソかもしれない。

ところで、「氣」とのつきあいは、インドに行った20代半ばの頃から始まる。

30代になったばかりの頃、不思議といわれている人に、いまO坂D通にいる友人と訪ねてまわったり、それそれに情報をまさぐったりしていた。。彼もまた高校を休学してのインド帰りで僕らはなぜかウマが合った。

そんななか、僕は僕である経営者のグループにはいる。僕にとっては、経営者グループなど本来似合わないのだが、そのグループは毎年テーマがユニークで、氣功であったり、日月神示であったり、カタカムナだったり、中国だったり、西郷隆盛であったりとビジネとはほとんど縁のないと思われることをしていた。まぁ、金もうけじゃないテーマに惹かれたのかも知れない。

「氣」がテーマのときは、グループで「気」を練り、活元遊びをしたり、極めつけは「氣」を検分に中国まで行った。←じつは、そのことが以後、ぼくが中国で12年生活するキッカケになる。。

さて、野口晴哉「整体入門」のメインである活元だが、活元運動とは、自発運動。つまり、身体を自分で動かすんじゃなく、身体が動きたいように勝手に動く運動だ。

身体が自分の身体の歪みや歪みを治すような感覚。丁度酔っぱらって気持ち良くなり船を漕ぐ、そんな感じでもある。。

人間は快い方向に動いていれば健康になる。健康になればどんなことをやっても快くなる。そして、その快いという方向に逆らわないようにさえしていれば、自然に丈夫になっていく。

それが行動につながるように生活すれば、人間は自然に丈夫になるという考え方だ。だが、意識が発達しすぎると、一般人にはそれがむずかしい。

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! 邪気の吐出。「両手で鳩尾を押えてそうして息を吐く。老廃の気を全部吐き出すような気持ちで、体をこごめるようにして吐く。」 これを三回。

2 背骨を捻る。「正座して自分の背骨を見るように、縮んでいる上体を伸ばし、左に捻り、弛めてまた右に捻る。急に力を抜いて戻す。これを左右交互に、七回ずつ行なう。」

3 吐きながら 「徐々に息を吐きながら、拇指をにぎりしめ腕を上げ、体をうしろへ反らしてゆく。奥歯をかみしめ、首から背中に力をギューッと入れるようにして、入れ切って急に力を抜く。」 これを三回。「息を吐きながらやる。それが特殊なやり方なのです。こうすると背骨に運動の起こるような必要が出てくるのです。」

4 運動が出る。「手を上向きに膝の上におき、目をつぶります。目をつぶって首を垂れる。そして自分の背骨に息を吸い込むような、背骨で呼吸するようなつもりでいる。すると少しずつ体が動くような感じがして、やがて動き出してきます。あとはそのまま何もしない。ポカーンとして体を自然に任せきる。」

5 終わったら 「終わったら瞑目したままで、しばらくポカンとしております。一分でも二分でもよい。」 「目を片目ずつ開けます。目を開けたら、もう一回静かに息をお腹に吸い込み、耐えてからゆっくり吐きます。これで終わりです。」


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by ogawakeiichi | 2011-09-27 12:26 | 只記録

陰陽五行を場にあてはめてみる

いま、いちき串木野でちょっとおもしろいキーワードを使って街をいじっている。

このキーワード。最近、まちおこしやらなにやらでベタに使われているってことを知ってはいる。しかし街を這いずるように、散々歩きまわり確信したのが・・・やはりいちき串木野は【パワースポット】ということである。これを伊勢神宮にある神道系大学の皇學館を卒業した、S宮司と取り組んでいる。


キーワードとは【パワースポットいちき串木野】。

~~※蛇足だが【まちおこし】という言葉は好きじやない、自分から起きようとしない限り、起こしても直ぐ寝る。一番弟子のように、ベッドから落とさないと動き出さないという例もあるにはあるが・・~~

パワースポットを読み解く方法は、風水学と陰陽五行だ。


それを、いちき串木野に当てはめてみると・・・風水的には霊峰、冠岳を背にして河が流れ、目の前は東シナ海に面している。

地形の右の端、正確には旧串木野市の端っこには400年前薩摩焼を伝えた朝鮮陶工と、蓬莱の国を求めてやってきた徐福一行の登陸地がある。

その海へ向かって左の端っこには、薩摩藩留学生が隠密裏にグラバーの用意した蒸気船オースタライエン号で英国へと旅立った。

この話はこちらのサイトを参考に
↓  ↓
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme10.htm


つぎに次に陰陽五行だが・・。
======
「陰陽五行思想」とは古代中国の「陰陽思想」と「五行思想」を組み合わせたものである。
「陰陽思想」は古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想。

一方、「五行思想」は夏の創始者「」が発案したものであり、万物は「木火土金水」という五つの要素により成り立つとするものである。後に斉の陰陽家鄒衍(すうえん)により5つの惑星と、さらにその後様々な事象と結び付けられ、陰陽思想と五行説が統合されて観念的な陰陽五行思想として完成するという思想。
========

それを、いちき串木野の【場】にあてはめてみようと、
試みているのである。


参考までに・・・未完成

↓  ↓

木:照島海岸はおよそ2200年前徐福が登陸、風土があつまり、風のパワーがあつまる場所。サブキーワード(風)

火:冠岳は、徐福が神と対話した封禅の儀式し古来山岳信仰の山のパワーが吹き寄せる場所。

金:串木野金山は藩政時代350年に渡って財政を支える豊富な金を産出した金のパワーを秘める場所。サブキーワード(金)

水:近年サッカー選手の注目をあつめる800年の由緒をもつ、市来神社ご神木の下からは焼酎づくりで榮える街の崇敬をあつめる清き水のパワーがわきだつところ。サブキーワード(水)

木:日本発の海外留学生が英国へと旅立った船出の場所が羽島にある、海のパワーが打ちよせる場所。サブキーワード(海)

と、まあこういうことか・・
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by ogawakeiichi | 2011-09-21 12:57 | 只記録

参った。

いやあ、まいった。
これでもか、これでもかと噴煙をあげてくれる。
一番上の写真はたまたま城山展望台から撮ったやつだが、5連発。
このときは噴煙は大隅半島側に流れたものの
最近は鹿児島市内の直撃が多い。

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by ogawakeiichi | 2011-09-20 05:43 | 只記録

遊牧民からみた世界史7

桜島がちょっと変。

噴煙のあがり方も、美しくない。

O阪D通の友人からも、

これって、どうよ?的なメール。(笑

http://quasimoto.exblog.jp/15156151/ http://blog.livedoor.jp/setsuko32/archives/51783357.html http://yaplog.jp/amamu/archive/1611

それより、誰がどういう経路で英語圏からアップしたのじゃい・・

まあ、あっち系はさておき、


さて、昨日のつづき。。をちょろっと




↓  ↓   ↓

ユーラシア一帯はチュルク・モンゴル系(拓跋鮮卑連合体)を中心とする動向が次々と続いた。

それが隋唐帝国との力関係でフラクチュエート(上下左右変動する)していた。

中国史は遊牧帝国群によって動かされてきた。(※突厥とウィグルは独自の文字までもっていた。)

しかし、ウィグル崩壊を、きっかけにユーラシアの時代は「チュルク・イスラム時代の開幕」と「大モンゴル帝国時代の準備」へ突入していく。

9世紀、アム川の南北に、ブハラを首都としたサーマーン朝ができる。アッバース朝の承認を得たイスラーム王朝である。

続いてその隣にカラ・ハン朝ができイスラームに改宗してサーマーン朝を呑み込んだ。

サマーンとカラ・ハンはイスラム化したチュルク族(トルコ系)の動向として広まっていく。


つづく・・
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by ogawakeiichi | 2011-09-19 10:16 | 情報とデザイン

遊牧民から見た世界史6

昨日は、マルヤガーデンで開催するJICA主催の「地球の上に生きる2011・鹿児島展」DAYS JAPAN フォトジャーナリズム写真展をディレクションやらでいじることになり、久々に会場デザインとやらを考える。

かっこよくいえば空間デザイン(なんちゃって)。ただ、予算が無いのでデザインというレベルになるのやら、どうなることやら。

最近は、ど~も、従来のビジネス系より、これまた現代用語でいえば、ソーシャル系の仕事が多くなってきた。

どちらかといえば、自分としてはこれまでとんと興味のなかった方面なんだが、鹿児島大学でのフェアトレード講義の非常勤講師を始めとしてなぜかこっちへ流れている。

まあ、世間も自分もそっちへ向かっているのだろう・・・。

さてさて、昨日のつづき。

少数民族の入り混じった「五胡十六国」は、片手にペンをもち、ある程度の、覚悟がないと読み解けない。そんなわけだから、一般の人はここで面倒くさくなって、思考が停止するのだが。。。

じつは東アジアの歴史は、ここに重大な秘密かあるのです。

さて、鮮卑諸族が南下して北魏などをつくったことでがら空きになったのがモンゴル高原。

そこにチュルク・モンゴル系の柔然という遊牧集団が登場する。

5世紀の初頭にはそのリーダー社崙(しゃろん)という族長がゴビを北へ渡って外モンゴルに
進出して、そこに高車の一族を侵略してこのあたりの統一をなしとげる。

社崙は匈奴以来の十進法の組織システムを踏襲し、自身で「丘豆伐可汗」を名乗った。

現地語読みではキュテレブリ・カガン。これがカン(ジンギスカンのカン)あるいはカーンあるいはハンの初出である。

5世紀から6世紀、柔然の社崙が高車を蹴散らし草原を統一したころ、アフガンやトルキスタンを本拠とするイラン系の言語を話す、エフタルが中央アジアでも勢力を強め、ヒンドゥークシュの南側にも進出した。

エフタルはパンジャブ地方のインド領まで統括して、このときガンダーラの諸仏が破壊された、いわゆる「エフタルの破仏」

これらの複合的からもわかるように、オモテ向きは「隋唐と東西ローマの時代」というけれど、ユーラシアの中央部には東からチュルク・モンゴル系の柔然、高車、イラン系のエフタルが並んでいたのだ。

この三者鼎立は、東からは拓跋連合系の北魏が、西からはイラン高原のササン朝ペルシャが、この三者を揺さぶった。

この不安定に乗じてあらたに出現したのが突厥だ。

突厥とは漢字読みのチュルク(トルコ)のこと。

突厥は柔然や高車を治め、西に進んでササン朝と組んでエフタルを撃退すると、たちまちシル河とアム河の大オアシス地帯とヒンズークシュにおよぶ領域を影響下におき、さらに西北ユーラシアに入ってカスピ海の北側からかってのスキタイの領内にいたアヴァールを駆逐した。(※5~6世紀に中央ユーラシアを支配した柔然が、故地を突厥に追われて西進したものがアヴァール?)

ちなみに、このアヴァールが押されて東欧に入ったのが、ハンガリー草原に本拠をとったマジャールである。

突厥はわずか20年あまりで、東は満州地方から西はビサンツ帝国の北側まで、南はヒンディークシュにいたる大版図を形成し、世界史上始めてのユーラシアの東西南北をまたいた。

これに北魏・北斉・北周などの拓跋鮮卑の連合体を加えれば、ここにチュルク・モンゴル系の「拓跋世界帝国」ができあがったのだ。

しかし、その突厥も6世紀には東西に分裂し、東突厥はモンゴル高原を本拠地として最初は唐と緊張関係を保つのだが、やがて唐の北アジア構想のなかにまみれていった。

西突厥は天山山地を根拠地にして中央アジアと西北ユーラシアを押さえたが、7世紀半をすぎる頃方イスラムネットワークのなかにとりこまれていった。

この突厥の消長に代わったのは、744年に東突厥の所領に侵入したウイグルである。

そのもとは、鉄勒(てつろく)と言われた部族たちの連合だったようで、この勢力はトクズ・オグズ(九姓鉄勒)とも呼ばれた。

ウィグル連合国国家群にはひょっとするとユーラシアを統一する可能性があった。

唐朝とも「絹馬交易」(馬を運んで絹を持ち帰る)などをとおしてうまい関係を保っていたのだが、いかにも時期がわるかった。

アッバース朝のイスラムネットワークがしだいに中央アジアに及びはじめていたし、ウィグルには強力なリーダーがいなかった。西北モンゴリアのキルギス連合が動いてくると、もろくも崩れ去っていった。
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by ogawakeiichi | 2011-09-17 09:51 | アジア史&思想

遊牧民から見た世界史5

中国、江蘇省の常熟市と薩摩川内市の国際交流事業が先月末20周年ということで、記念品のデザイン的は相談を受け、市国際交流センターにある交流展示室の壁が、パカーンと空き、総領事の表敬訪問を受けた時、みっともないので絵を飾って誤魔化して?(笑 との依頼を受けたりしていたのだが、昨夜その絵画を撤去にいった。

市の広報誌に「小川景一作品展」と広報され、そんなつもりじゃ~。おいおい、あちゃ~であった。


なかには、絵を鑑賞するというより、観覧者名簿に名前を記入するのが重要な方もいて、記帳を忘れて再度行かれた人もいたみたいで。。。川内高校同窓の皆様には動員やらなにやらで、随分とお世話になりました。ぺこっ。。

ところで、遊牧民ブログのつづき。

きょうの話はちょっと、すごいぞ!!


さて、中国は、後漢のあと、魏蜀呉の「三国志」の時代を経て、「八王の乱」に突入するのだが、ここに浮上したのが南匈奴の末裔、劉淵だった。

劉淵は、冒頓の末裔で、単于王朝の流れ者、その劉淵こそが晋の司馬炎や司馬哀を山西匈奴集団を操って助けていたのだ。

さらに4世紀になると、「五胡十六国」という読み解くことがなかなかやっかいな時代にはいるのだが、ここに登場するケツやキョウや鮮卑たちもいずれも遊牧種族たちで、どこかに匈奴の名残りを感じさせていた。

こうしてこの混乱期に、するすると力強く頭角をあらわしてきたのが鮮卑の拓跋部だ。

まあ、中国マニアでは拓跋鮮卑のほうがとおりがイイ。

このあと東ユーラシアの主権を握るのは、の拓跋鮮卑でありその連合体なのである。

たしか拓跋鮮卑である独孤信の家系が、隋と唐とそれにつづく細かい王朝になっていた。

おまけに武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)という集団がある。

武川鎮とは北魏前期の首都・平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つで、その武川鎮軍閥が中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた。

↑ここ重要ね。中国のオモテの歴史から抜け落ちている。


スキタイやサマルタイやサカ(塞)はイラン系の言語を話す遊牧民の一群で、古代ペルシャ語を話した。おそらく月氏もそうだ。

これに対して匈奴はアルタイ系の言語で、のちのモンゴル語やトルコ語を形成した。まとめて「チュルク・モンゴル系」という。

チュルクとはトルコ系のこと。鮮卑はこのチュルク・モンゴル系である。

五胡の多くがここに属し、その拓跋鮮卑の連合体の一部が中国に入って北魏を建国した。

北魏はのち、東魏・西魏になり、さらに北斉、北周と名前をかえて魏晋南北朝時代をつくり、ついではその一部が変わり身しながら隋・唐というふうにすりかわっていったのだ。


うわお~、ついに中国の秘密がバレた!
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by ogawakeiichi | 2011-09-16 10:56 | アジア史&思想

遊牧民から見た世界史4

なんとなく体調がすぐれないと思っていたのだが、その原因がなんとなくわかった。

桜島のドカ灰攻撃に連日やられて、いつもは鹿児島市内を暑さをものともせずに徒歩で動きまわっているのだが、それができない。あいにく車での移動である。そのあたりが、どーも、身体リズムを微妙に微妙に狂わせているのかも知れないにゃあ。


さて、さて、匈奴のつづきだ。

匈奴は、まず組織のすべてが左右対称的で、左右に賢王、大将、大都尉、大当戸をおく。そのシステムは鮮卑の拓跋部に移行して、やがてはモンゴル帝国に受け継がれていく。

白頭山の戦いから劣勢に立たされた漢帝国は、7代目武帝のときに反撃にでる。それが北東アジア史上屈指の50年におよんだ、「匈奴・漢戦争」である。


匈奴は天山の南タリム盆地のほうへ勢力をのばすのだが、漢帝国にとってはここを抑えれるともう西域経営ができなくなる。そこで7代武帝は張騫を大月氏へ派遣して西域を調べることを命じる。

その結果、衛青と霍去病(かっきょへい)に匈奴を討たせることにした。

しかし痛み分け。

そのうち前漢が滅び、王莽の新がおこるが、これまた20万の兵を率いて匈奴軍と戦うのがだ、これも失敗。なかなか中華帝国、遊牧民を牛耳れない。

そのうち、漢と同盟関係を保とうとするグループと、そんなもん放っといてさらに西へ進もうというグループに軍団を分けてしまう。

これを杓子定規でいえばいわゆる「匈奴の東西分裂」ということになる。

匈奴の東西分裂というのは、あくまでも漢の立ち位置からの見方だが、匈奴は東西にわかれ、東匈奴はさらに北匈奴と、南匈奴にわかれた。


これを機に、やっと漢(後漢)は西域経営にもどることができた。

班超によってパミール以東のオアシスを把握できたのである。


さて、匈奴系の南匈奴はいったん後漢に臣属することになり、北匈奴はモンゴル高原を西へと移動する。2世紀にはシル河を渡り、カザフの草原を動いているうちに、歴史の文献からその姿を消していく。

しかし、そこに現れたのがフン族だ。

このフン族が南ロシアからドニエプル河を渡った。

5世紀になるとフーナと呼ばれる軍事集団が北インドのほうにもあらわれた。それはのちにエフタルとよばれる。

はたして北匈奴とフンとエフタルは同一系の種族なのかはいまのところわかってない。
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by ogawakeiichi | 2011-09-15 09:37 | アジア史&思想

遊牧民から見た世界史3

昨夜は、中国では「十五夜的月亮、十六圓」とよばれるくらい月がまんまるな日であった。←あとからちゃんと調べてみると・・・・ところが今年から3年間は、その名の通り、十五夜お月様に “満月” の軍配が上がるという。中国メディアによれば今年、月が最も丸くなる時間は、北京時間の12日午後5時27分 (日本時間、同日午後6時27分)。おっとっと、余談でした。

それじゃあと、中国の友人と食事をすることにする。ちょいと酔いがまわり中国史についてちょろっと語ったのだが、漢民族が支配したのは漢と宋と明くらいだよ~ん、と言ったことに、当然、相手はびっくらこいていたのだが・・(※そういえば,宋の趙匡胤も突厥っていう話もちらほらあった)

ある程度、教養があり落ち着いて議論できる人間だから、オイラの話を疑問に思えば、彼も自分なりに調べるでしょう。。ということで。。

さて、さて、昨日の続きだが、匈奴王・頭蔓は、後妻が末の子を生み、その子を後釜に据えたいがため冒頓を月氏のもとに行かせることにする。

まあ、後妻の産んだ末っ子可愛さに、いわば冒頓が邪魔になっということなのだろう。

しかし、それをさとった冒頓は、月氏の馬を奪って万騎を率い、鳴鏑(めいてき:音を発して飛ぶ鏑矢)をブンブン打ち込みながら父に復讐するために舞い戻る。

こうやって冒頓は紀元前209年、匈奴の王、単干の地位についた。

大陸では時あたかも始皇帝没後、漢の劉邦が楚の項羽と互いに鎬を削り合っていた。

その後は劉邦が高祖となって漢帝国(前漢)をつくるのだが、この構図をズズッと上空から俯瞰してみると項羽と劉邦と冒頓の3者が、草原と中華をまたいで互いにならんでいたことになる。

冒頓が匈奴王となったとき、周辺では東胡が勢いをつけていた。冒頓はこれをやっつけ、さらに月氏を討った。秦から奪われた匈奴の土地はこれで回復したのだが、中原にある漢帝国としては匈奴との和平をはからずには帝国の安定はないギリギリのところまできていた。

その和平を余儀なくされたのが、「白頭山の戦い」だ。

この戦いこそ、『統一遊牧民国家と、統一農耕民国家』の創業者同士の一騎討ちであった。
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by ogawakeiichi | 2011-09-14 08:12 | アジア史&思想