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彩遊記

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新年好

パソコンの棚卸をしていたら、出てきたのだけど
なんか、いいなあ~。
あの新年の瞬間の爆竹のすごさは、思わず参りました。・・だった。
なぜかアジアの魂が共振するのか・・涙で頬をぬらしていた。


↓過去の日記から

旧暦の正月、春節を迎えた。この原稿を書いている桂林の部屋の下では、子供たちが投げる爆竹がビュンビュン飛び交っている。悪童たちは、見知らぬ人の足元に、そしらぬふりをして投げてみたり、道路向こうの家に向かってバンバン、ドーンとまるで戦闘状態だ。水平打ちだけはやめろと注意したのに聞きゃしない。水墨画の師匠の昔話では、春節は花火から身を守るため、傘をさして水中眼鏡をかけて歩いていたという。
 
旧暦の大晦日。夕方5時を過ぎる頃から、通りを走る車の流れが少なくなり、街を歩く人影もまばらになった。一族そろっての「年夜飯」と呼ばれる晩餐がはじまる。およそ華人のいるところではこの時間に家族が集まり、食事をすることは非常に大切にされている。僕のほうは、休み期間中バイトで学費を稼ぐ学生や、はるか新彊ウイグルから来て、簡単に帰省できない学生たちと、学校が準備してくれた年越の宴に参加する。帰省できない学生たちの表情は心なし寂しそうだ。
 
もう待ちきれませんとばかり、大晦日の昼すぎから、バーン、バーンと散発的に鳴り始めた爆竹は、「年夜飯」が終わるころから、バリバリバリと連続した音に変わりはじめた。駐車してある車のセキュリティーが、爆竹の音に反応し、ウインウインとけたたましく鳴り響く。人通りの少なくなった街中は、火薬のにおいと、硝煙に包まれた不思議な世界だ。 
 
年越しに、爆竹をバンバン鳴らすのは悪魔を払い、福を歓迎する意味がある。同僚の中には、よくないことが続くと「爆竹を鳴らすのが足らなかったかなぁ?」とぼやくヤツもいるくらいだから、爆竹の音は、彼らの生活にしっかりと組み込まれているみたいだ。しかしこの爆竹、毎年のことだが、粗悪品による暴発や火事が多発して、主な都市では、本当は禁止されている。「新年気分が沸かない」との多数の声に押し切られ、“表向きでの禁止”から、13年ぶり“お墨付での解禁”とあいなった。

夜11時半、日没から鳴り響いていた花火と爆竹が“年越の瞬間”に向け小休止。僕は、一年で最大のショーを見るために、とっておきの場所に移動することにする。以前住んでいたことのある勝手知った17階の屋上だ。
 
11時50分頃から、再び爆竹と花火の音は激しくなる。夕方とは違うあまりの音の激しさに、形容しがたい不思議な感覚が襲ってくる。桂林の街全体が、半端じゃない花火と爆竹の音に包まれた。アパートの各ベランダで爆竹が裂烈し、ビルの屋上からは大輪の花火がバンバン打ち上がる。その花火の大きさ量ともに半端じゃない。きっとこの瞬間のために、散財したのであろう。ちなみにベランダでの使用は禁止なのだが、そんなことは、お構いなしだ。 
 
夜12時、いよいよ春節の瞬間を迎えた。音が激しすぎて耳が麻痺し、何にも聞こえてないような感覚になる。隣の屋上でも、目の前でも、山の上でもドンドン打ち上がる。スケールの凄さは鳥肌モノだ。思わず、参りましたと呟いていた。
 
もっとも、これだけバンバンやってくれると、嫌が応でもストレス発散。すっきり、くっきり新しい年を迎えられた気分だ。新年快楽!チャイナは新年を迎えた。 <終わり>

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by ogawakeiichi | 2012-01-23 06:14 | 只記録

デザインとフィールドワーク

最近はデザイナーというより、文化人類学や民俗学みたいなフィールドワークの活動が多い。

デザイナーというとモノをデザインするように思われているが、モノをつくり、それを仕組み(コト)にのせ、インタラクティヴに人々の意識が交流していく世界を一貫して構築する行為をデザインと捉るわたしにとって、ベースをつくるため立ち上げ期において情報をインプットする観察はとてもたいせつな時間である。

そのため文化人類学や民俗学のようなフィールドワークのような時間が多くなってくるのだが、。。

地域ブランドはその土地をながれる歴史の文脈につなげて新たな物語りをつくっていくことが肝要だ。そうでない限り、その土地から立ち上がりその土地に根ざしたブランドにはなりにくい。

この時間が不足するとテンプレートにあてはめた金太郎飴。一般的にデザイナーはこの部分が全く弱い。←観察もないコンサルや代理店、印刷会社の営業の介在、またクライアントと合うのを面倒とするデザイナーなど。

場に固有のモノやシステムを構築する上で仮説をたてデザインしていくにはフィールドワークは重要な時間なのだが・・。

さてさて、現在徐福伝承のあるいちき串木野市において【パワースポットいちき串木野】というコンセプトを強化のため、1年に渡るフィールドワークが終わりつつある。そのレポートから・・



まずは、徐福を知らない人のため、むちゃわかりやすい 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部から、まるごとコピペ。

徐福伝承とは
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今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。

しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。そして,徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいます。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。

 徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。何もなかったとは報告が出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告しました。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。

 若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

 中国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。

 日本各地に徐福伝説は存在します。実際はどこにたどり着き,どこに居住し,どこに行ったかはわかりません。もちろん,徐福という人物の存在を証明する物は何もありません。しかし,徐福の伝説地はあまりに多いのです。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがありません。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに,江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもあります。語り継がれる間に,背景となる時代が混乱してしまうのです。でも,それでも許せてしまうのは,歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれません。徐福は確かにいたのです。それでいいのです。数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などがあります。( 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部)
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と、いうことで、きょうはここまで
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by ogawakeiichi | 2012-01-14 06:24 | 情報とデザイン

宇宙を叩く

f0084105_2016179.jpg2012年が幕をあけた。昨年の末、ことしのテーマは【忍】で、乱世をしのぐつもりだったのだが、ちょいとばかり思うところもあり、【放たれたやんちゃなジジイ】もいいなと思っているところだ。

今年はアセンションとかいう年で、マヤ暦では世界が消滅すると言う人もおり、恐怖ビジネスに携わる方々にとってはインチキになるのか本物になるのかの瀬戸際な年でもある。


と、そんなわけで、今年の一首

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【乱声のキワに蠢く玄の氣よ 火焔の響き陽気舞いたて】

世間はなにかと乱世の様相。歴史を紐解けば、このような事態の変わり目、相転移の触媒としての役割は九州が担ってきた。アジアに伝わる火焔太鼓を乱打ださせ、日本古層の執拗低低音に共振させ陽の気力を呼び覚ます役割を担う九州。いよいよ興の時!!

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※毎年の歌始めは、歌いはまだかという、九州某組の組長の脅しがあってこその一首。←なんのこっちゃ(笑 

ところで我が家は、まだ夜も明けきれぬ元旦早朝、一番弟子、三番弟子と師匠の私の男三人衆は、鹿児島・南洲寺にて参禅。矢野老師の新春読経ボーカリーゼーションにほれぼれしつつ、波乱万丈、なんでもど~んと来いと、臍下丹田をちょいとばかし練ってきた。

世界というもの、なんどきどんな現象が目の前にやってきても、しかと受け止める覚悟があれば、どーってことない。←ほんとかよ~

さてさて、年初めのブログはなんにしようかと相当迷ったのだが、アジアをまるごと俯瞰して図像させれればピカイチの、ぼくのもっとも尊敬するデザイナーである杉浦康平さんの著書、【宇宙を叩く】をブログ始めとすることにする。
↓  ↓

杉浦さんは【宇宙を叩く】のなかで、対をなして陰陽原理を解き明かす火焔太鼓を並べあい、それを対比することで、古代アジアの人々が楽器に託し聞きとろうとした天界の響きから、アジアや日本の深層を流れる執拗低音へアプローチした。
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火焔太鼓は、右方と左方の一対の大太鼓。その意匠は、月と太陽、鳳凰と龍、二つ巴と三つ巴・・・。いくつも対原理が潜んでいる。

舞楽の上演とともに火焔太鼓が叩かれる。神に捧げ、祖霊供養を目的とするため、必ず神の眼を楽しませる舞いがつく。

火焔太鼓はこの舞いの律動を刻む打楽器として、ゆっくりとした、むしろ間のびするようなリズムで叩かれ、舞いは人のふるまいを超え、神への捧げものとなる。

対をなして聳え立つ火焔太鼓、そのデザインのなかで際立つものは、大きく燃え立つ【宝珠形の火焔】だ。その火焔のなかに目を凝らしてみると【龍と鳳凰】の姿がみえる。さらにその中心には【巴紋】。火焔太鼓を叩くことにより、その巴紋が太鼓の響きに加速して渦巻いていくように感じられるのである。

巴のかたちは、また発生時の胎児の姿でもある。古代中国や朝鮮や日本では、この形を「勾玉」として造形し、珍重している。生命力の根源をはらむただならぬ形。勾玉と巴紋は深く相似しあう興味深い形でもある。

人間の体内にも2つの渦が潜んでいる。一つは消化器系のはたらきを統御する口から胃や腸を経て肛門へいたる降下し凝縮するエネルギーの流れ、もうひとつは、身体全体の神経や思考のはたらきを統御する脊椎から脳髄へと上昇し拡散するエネルギーの流れだ。この太極的はふたつの渦が、頭(脳・神経系)と腹(内蔵・消化器系)を中心として人体に存在する。ふたつの渦の共振によって私たちのひとつの身体が形成されている。

杉浦さんは、また火焔太鼓の火焔の中に両界曼荼羅との結びつきにも注目した。曼荼羅(マンダラ)とは、サンスクリット語で「本質(悟りの本質)をうるもの」、あるいは「輪円具足(まろやかに充実した境地)」という意味をもちその世界を極彩色であらわした細密画である。ぼくがインドを彷徨していたとき、たずねた寺院の壁画や、タンカとして書かれた曼荼羅に良く出会った。あるときはネパールのカトマンズでなけなしの金で買い込んだ、けっこう高価な曼荼羅を、タイ・バンコックの飛行場から宿につくあいだのタクシーに忘れ、呆然としたした思い出もある。ちょっとはなしがそれてしまったが、両界曼荼羅とは胎蔵界と金剛界をいう。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は、中国で9世紀に生み出された重要なふたつの曼荼羅だ。
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インド源流とした金剛界曼荼羅と、胎蔵界曼荼羅のふたつの流れは、中国の長安にいた恵果のとろこで重なり、それを恵果一番弟子といわれた弘法大師・空海が中国から日本へと請来する。

その後、空海により胎蔵界と金剛界のふたつをあわせて【両界曼荼羅】とよぶようになった。
胎蔵界と金剛界。ふたつの曼荼羅は、人間の左身(左脳)と右身(右脳)のように対をなし、同時にまた、左身と右身を溶け合わせて一身となる統合的な宇宙原理を伝えている。

ふたつでありながらひとつになる。ふたつにして一である。これは「二而不二」と呼ばれ、密教の本質を示す深い教えだと思われている。

根本原理は「阿ー吽」や、「陰ー陽」の働きに通じ合う。さらにふたつの太鼓で一組となる。火焔太鼓の意匠の特徴とも重なり合うものである。

私淑する杉浦康平の【宇宙を叩く】は古代アジアの人々が楽器に託し聴きとろうとした天界の響きの意図。左右ふたつの火焔太鼓の細部が、両界曼荼羅との結びつきが読み取れる一冊だ。
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by ogawakeiichi | 2012-01-10 16:48 | アジア史&思想