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彩遊記

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いのちを守る300キロのもりづくり




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by ogawakeiichi | 2012-03-20 12:02 | 只記録

徐福伝承を検証してみる。【壱】

徐福伝承を調べてみる

f0084105_14145494.jpgこのテーマに取り憑かれ、昨年末はいちき串木野の図書館に篭もり、文献に首ったけとなる。

いちき串木野の図書館は、さすがに徐福伝承のある街らしく、徐福コーナーが完備している。それらの本を片っ端からめくり、気になったことを書き移し、記憶に止め、フィールドにでて確認する作業に没頭した。

では、徐福がいちき串木野へやってきた伝承はどこからはじまったのだろう。

まず、いちき串木野市に徐福伝承があることは室町時代の学僧、桂庵玄樹が『島隠漁唱』文明11(1479)年に詠まれたひとつの詩文より広まった。

それ以外でも紫尾文書(冠嶽神社宮司さんの話)から上宮岳神社(古紫尾神社)の縁起に「徐福来たりて、紫の紐をこの地に納む」の記録があることを知るが、この桂庵玄樹による『島隠漁唱』の影響が大きい。

徐福曾従海外来 初知日域是蓬莱

仙園花木春常有 祝得邦君萬壽盃

仙楽花飛絃管楼 満筵佳士喜清遊

主人有徳境彌顕 一岳高擎冠九州

従一神人来脱冠 仙山景象遶天壇

層岩萬丈絶巓水 雨不添深旱不乾


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冠岳は徐福が楼船に乗って蓬莱の薬を求め、初めて下り立った地。景色と人の素晴らしさに敬意を示し、冠を脱いだのでその名がある。徐福は釈服に着替えて 栖止した。このような霊地はまさしく蓬莱であり、冠岳に太守と同席していることは千載一遇。(引用先あり)
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さて、桂庵玄樹とはどのような人物だろう。

桂庵は周防、いまの山口県で生まれ、惟肖得巌に学び、遣明船で明に副使として文明十年(一四七八年)に薩摩に招請され、五十二歳からの三十年間を文教に捧げた。その遣明船には、日本水墨のトップランナーである雪舟が乗っていた。以前ブログでもとりあげたことがある。

彼は一四七九年、当時の藩主島津忠昌と共に冠岳に住職を尋ねている。

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西嶽の形、風折烏帽子に似たり、故に冠嶽と称す(略)又一説に孝元帝の御宇、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠嶽と称す(略)徐福此嶽より紫尾山に至り、又去て紀州熊野山に至る、皆熊野権現の祠を建つといふ、此説真偽知るべからず、といへども、旧記に随て是を記す、紫尾山は鶴田邑に詳なり(天保14(1843)年の『三国名勝図絵』、串木野・出水・冠嶽の項)
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と書いてある。もうこのころには冠岳で封禅の儀式がなされたことは通説となっていた。
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by ogawakeiichi | 2012-03-19 14:01 | 鹿児島情報史

3・11の面影

3・11の1周年を迎えた。

個展を控えて制作のまっただ中、家人が東北でたいへんなことがあったらしいと外出先から駆け込んできた。

テレビ画面からは、これが現実なのかという画像がこれでもか、これでもかと押し寄せ、制作に向かう高揚した気分は一転してかき乱されていく。いってみれば、個展という個に属する高揚のOSエンジンで絵筆をとらねばいけない瀬戸際に国家の一大事が起こった。(※三週間後のブログ

地震は津波となり、福島第一原発事故へと連鎖していった。

以来、気持ちの中に得体のしれないたいへんな暗雲が立ち込めてきた。

平成5年鹿児島を襲った8・6水害でメチャメチャになった自宅周辺、アジアを彷徨して訪れた世界最貧国の異臭とシーンがオーバーラップをはじめた。もちろんその現場の切り取り方で状況は違うのだが、その規模はともかく、そのイメージはなんとなく掴めた。←あくまでもなんとなく。。

地震と津波の天災なら、復興へイザ!の勢いだけでよかったのが、一触即発のメドもたたない福島原発がそれにのしかかってきた。

すぐに、ラジオで聞いた小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)の情報を渉猟した。小出非公式まとめ←見といたほうがいい。

以来、この状態をなんとか整理しなくてはと思いながらも、整理できないままでいた。

広瀬隆の著作『原子炉時限爆弾』は、なんの因果が大震災直前に発売され、書店で偶然にもにパラパラとめくっていたこともあり、この符合に少々驚いた。
広瀬隆講演←これは見といたほうがいい。

彼の著書『地球のゆくえ』『赤い盾』『持丸長者』は、世界構造を渉猟していた当時、さかんに読んだ。しかし、まさか原発の科学的領域まで踏み込んだ本があるとは思わなかった。

広瀬文脈は支配構造が閨閥によってなされており丹念な調査からロスチャイルド財閥という一本の鎖で世界の支配構造はつながっていると説いた。陰謀論とは一線を画す膨大な資料を元に書かれた本である。

原発や核事業もロスチャイルド系の独占企業。脱原発の廃炉ビジネスも太陽エネルギーなどにもロスチャイルドやロックフェラーなどの影もある。

地震から原発事故にかけて、ツイッターのタイムラインではリアルの津田大介、情緒の内田樹と論理の池田信夫が頻繁に流れていった。

内田樹の脱原発の文章には情緒があって、池田信夫の難解な原発擁護の高飛車論理には頭脳の回転がついていけない。

しかし池田の言う原発の論理も丹念に丹念に読めば次第に輪郭が見えてきた。

3・11以降、原発関連で早期に出版されたのは武田徹『私たちはこうして原発大国を選んだ』だ。
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『私たちはこうして原発大国を選んだ』のタイトルには、原発を選択した覚えのない人には少々不満があるものの、原子力が日本に芽生えた経緯を書く。

第五福竜丸の被曝事故で、反アメリカ、反核感情が高まる日本に対し、アメリカ政府のワトソンが、反米感情の高まりを鎮めるために、柴田秀利という人物に何か妙案はないかと頼み込んだことにはじまる。

キーマンは柴田秀利。

柴田は日本にテレビを導入する過程で、アメリカから1000万ドルの借款をと引換に、反核のイメージを一新させる原子力の平和利用という面からも正力松太郎と組んで、読売新聞を用いた空前絶後の原子力平和利用のキャンペーンをはじめる。

正力松太郎が原子力発電・生みの親と言われれる所以だ。

仕掛け人・柴田秀利。メディアと警察権力・正力松太郎。政治・中曽根康弘の三羽烏は、原発を推進していく。

読売新聞のキャンペーンは功を奏し、戦後の原子力の平和利用という文脈のなか、発展の礎として熱狂的に受け入れられてきた。

しかし、次第にエコロジーの考え方や不安が広まっていくにしたがって、原発の意味というものが揺らいでいく。
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70年代は環境の時代と呼ばれるようになって、周りの様子は経済成長一本やりではなくなっていく。でも原発は残った。地域振興策が進められ、立地の地元では原発なしにはやっていけない経済構造ができていく。こうなると地域周辺の反対運動は、原発をなくすような先鋭的なものではなくて、ある種の条件闘争のような、交付金を視野に入れたものになってくる。

21世紀になると、地球温暖化が危惧視されるようになってきて、市民運動は温暖化対策に熱狂的になる。たとえば、「チーム・マイナス6%」という自民党の政策にのった市民運動家はたくさんいた。でもそれを実現するためには、当時はまだ再生可能エネルギーはほとんどなく原発依存なわけである。チーム・マイナス6%、温暖化反対といった時点でじつは原発賛成だった。

また、民主党に政権が変わったときも、民主党は基本的に原発推進政党でしたから、政権交代を望んだ人は原発賛成。しかし、そうしたことはつねに意識されない。『私たちはこうして原発大国を選んだ』
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石井彰は著書「エネルギー論争」のなかで、電力問題のみを論ずるのではなく、電力を含む全体のエネルギー論の観点から包括的に検討すべき点を主張している。(電力消費は全体の2-3割)

将来のエネルギー選択に関して。原発擁護派と再生可能エネルギー推進派で繰り広げられる白か黒かの議論にも警鐘をならす。

筆者は現時点では、魔法の解決策はどこにもなく、幾分ベターな現実的な選択肢をもって、英語でいう「マドリングスルー(なんとかかんとか折り合いをつけていく)」方策をとるしかないと訴える。

そのカギとなるのが、天然ガスの積極的活用と、エネルギー源と地域の分散化、多様化である。副題「天然ガスと分散化が日本を救う」が内容を端的に示している。



かくして、どの説を信じるかで、原子力を巡る評価は異なる。

計器の正しさを経験的に信頼し、この人は信頼できると感じられる人を信じ、手持ちの放射線の関する知識を信じる。

こうして確立された「信頼」の機能は、ニコラスルーマンによれば「複雑性を縮減させる」ことだという。つまり、「信頼」するにあったって「行為者は情報の不足をあえて無視」する。

本当の意味で十分に吟味された科学的演繹を行なっている人は反対、推進にも実は少ないのかも知れない。

何を信ずるか、何に気づき、何を忘れれるかなどによって、安心から不安まで揺れる大きな振幅の中でぼくたちは生きているのだ。

脱原発では中沢新一が緑の党をつくり、思想家・吉本隆明は反原発運動を憂う。ふたりともぼくが大きく影響を受けた思想家たちだ。


『松岡正剛』はこう言う。
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ぼくは混乱しそうになるアタマを整理しながら、3つのストリームが自分のなかで錯綜しているのを見た。
 
(1)この災害が東北を襲ったことについて、ずっと考えて行かなければならないだろう。それには蝦夷の歴史から今日の町村の現実まで眺め渡さなければならないだろう。

(2)国家と原子力のことについて、何らかの見通しと判断をしなければならないだろう。それには世界のエネルギー問題や環境問題まで見渡す必要がある。

(3)危難とリスクとその解消と保持の関係について、かなり深い問題を浮上させなければならないだろう。

それには資本主義経済下の社会学や現代思想の根本をぐりぐり動かすべきだろう。

いずれも厄介な難題だ。が、ぼくは時間をかけてでもこの難問を考えていこうと思った。
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我が師も、おなじようなところで立ち止まり、難問に取り組んでいた。
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by ogawakeiichi | 2012-03-12 15:56 | 日本史&思想

かごしまの都市計画を考えてみた。

かごしまの都市計画を考えてみた。


【このはなのさくやみち構想】

↓写真があやしいな、、

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門前町の参道では、人々はただ神殿へと向かう。ここでは桜島を聖なる山に、中央駅からドルフィンポートまでを参道と見立て、無意識のうちに人々がこのラインを中心線として往来する動線を考えてみた。
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ヨーロッパや中国ははじめに全体像があって部分はあくまで全体の要素としてとらえる。しかし日本では部分からはじまりそれらを積み上げて全体をつくる。神経系のシナプスが伸びていく様子と似ている。

今回、鹿児島中央駅から、天文館へ向かう通りを観察してみると、高見馬場~鍛治屋町~高見橋の間は徒歩での交通量が非常に少ない。通りに面した建築が単調なため、にぎやかさがなく、通りとしての魅力にかける。とすれば、力ある建築、オープンテラスのようなカフェ、自由な通りの演出などで、人が集まりやすい空間(核)をつくり、分断箇所を繋いでやる必要がある。また、フランスで採用されているヴェリブ方式で(自転車貸出システム)で、可動性の自由度をより高めることも必要なのではと思う。
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このはなのさくやみち構想
◎トラムと、自転車と、徒歩の3通りで誘導。
◎サクラ島への参道感覚?
◎鹿児島中央始発、ドルフィンポート着のトラム
◎鹿児島中央駅は、タクシー乗り場を移し、
引き込み線を敷設して始発駅にする。
◎10年後、公共交通機関以外は入れなくする
◎左右に自転車道をつくる
◎街路樹が十分に木陰をつくる道
◎自由度の大きい歩道空間、歩道を広場とみなす
◎しかし、パラソルなどカラーは統一する
◎夜の7時以降は通行止め、屋台が並ぶ
◎駅周辺、通りのサイン計画の徹底
◎力をもっている建築物をつくる。
◎五感で感じる通り
◎おどろきと、共感、おもてなし。


モノとコトと相互性が繋がる場を目指していく。。
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by ogawakeiichi | 2012-03-09 13:00 | 鹿児島情報史

日本のカタチ

f0084105_23305855.jpgう~ん、。。日本の国家デザインを振り返っていると、再び南北朝から明治維新への文脈に立ち止まってしまった。

極めつけは、水戸学から唸りをあげて明治へ向かう流れなのだが、これまでなんど組み換え、整理してきたのだろうか。振り返るたびに見方が変わっていく。

それを揺るがす大元は水戸学なのだが、ここがなかなか定まらない。

なぜ、水戸光圀が「日本の面影」の正体を知ろうとしたのか。そのキッカケをつくったのは中国人・朱舜水なんだけど。。。またまた振りかえり~。
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朱舜水は、光圀に「日本のレジティマシー」について研究しなさいと言った。

正統な天皇は、南朝なのか北朝なのか・・それについて水戸は「水戸彰考館」なる歴史編集研究所を立ち上げ、「大日本史」の編集にとりかかった。

そこで見えてきたのが、南朝を正統とする見方であった。

日清、日露戦争でも、太平洋戦争の渦中でも南朝の楠木正成は「忠君愛国」の象徴として君臨してきた。

楠木一党は、元来「悪党」だった。悪党といっても現代の文字面の意味ではない。

悪党とは現在の言葉になおせばアウトローだ。ということは水戸藩にとって、すなわち「天皇と無頼」という系譜こそが日本の正統だったわけになる。

徳川幕府にとっても日本の正統性をどう見るかの問題が巻き起こる.この問題については誰もが悩んだ。

「徳川の日本」には。大まかには3つのモデルがある。

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一つは慕夏主義。
二つ目は、水土主義。
三つ目は中朝主義。
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慕夏主義とは、中国の奥にある神話的中国王朝。中国の分母的なもので、過去の偉大な国にモデルを求めていけば後の王朝は作られるという考え方で、奈良朝がつくった平城京モデルは唐の律令モデルを真似たもので、さらに唐朝は、夏や周のモデルを想定したものだった。

2つ目の水土主義は自分の国にあったモデルをつくったほうがいいという考えかた。いいかえれば、どんなモデルも日本的に改変したほうがいいと言うモデルである、これは熊沢蕃山がらが提唱した。のちに貝原益軒を含めた日本の本草学や吉宗の国産物産論へとつながっていく。

3つ目のモデルが「中朝主義」で、山鹿素行らが推進した。この中朝主義をひとことで言えば、「中華」という思想を日本へそのままもってこようというもので、自分の国を世界の中心と考える思想だ。この中朝主義がなにやらかにやら引用されて問題を引き起こしていく。

中国は三〇〇〇年に渡ってずっと華夷秩序にもとずいた中華帝国を理念としてきた。そこからみれば日本はつねに辺境でしっぽをふって言うことを聞いている間は認めるが、勝手は許さないというやつだ。これはいまでも中国のお家芸である。

しかし、その当時、中国は漢族の明朝だったのだが、それが異民族である満州族にとって変わったのだ。

これは日本にとっても、思想の一大事!

つづく・・
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by ogawakeiichi | 2012-03-08 23:27 | 日本史&思想

日本文化の構造

日本の文化は何層にも重なりつづけながら、しかも下層の文化を残してきた。

たとえば仏教という強固な倫理観をもった宗教がはいってくれば、それ以前にあった神道という層に重ねて神仏習合となり、道教も仏教とかなさり、修験道の流れとなった。いい塩梅でさかね、あわせ、きそいあってきた。

重なったものは執拗低音となって古層となる。

朝鮮半島は漢字をほぼ完全に駆逐して、ハングル文字に変えてしまったが、日本はひらがなの普及の後も漢字は残りカタカナだって使っている。

何層にも重なった文化は質量の増加によって、時に相転移していく。今様ではイノベーションという表現になるのだろうか・・。

世阿弥はこのような状況を「ものまね」と名付けた。猿真似ではない。ここでいう「もの」とは「もの思い」「もののけ」などに使われる抽象度の高いもので、漠然としたものを指している。

何かを真似ようとするとき、そのものを真似るのではなく、もっと奥にある本質みたいなものをざくっと捉え、真似てみる。表層の部分は状況に合わせて自由自在に変化させていく。

これが日本だ。

ところが、どっこい戦後、自らの重層的な文化を積極的に捨てる作業に邁進してきた。

ものまねではなく、重層的な文化がないところに外からの文化を受け入れる。盲目的な単なるさるまねになってしまった。

日本の文化を形成するものは、日本の古典と漢籍が中心だ。

以前の寺子屋などでは、素読が中心で論語を身体で読んでいた。

寺子屋の祖である、心学の石田梅園も儒教、仏教、道教となんでも取り入れていた。

夏目漱石と寺田寅彦が、アインシュタインの新設を確かめるべく東京帝国大学で実験したあと、和服に着替えて能を揺った。

脳科学や理論物理学やマーケティングの話しのあとに、日本文化や漢籍について語り合う。そんな日本人が増えてくればおもしろいのだが・・

しかし、この重層的な文化の獲得は一朝一夕にできるものではない。即席で身につくものではない。


引用参照:春秋社・身体感覚で論語を読みなおす(安田登)
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by ogawakeiichi | 2012-03-07 13:32 | 日本史&思想

古代人に芽生えた心

中国の最初の王朝は、「殷」である。殷は黄河の中流に興った古代都市で、またの名を「商」と呼ぶ。

この王朝が「周」に滅ぼされ、国を追われた人々が、生活の糧を求めて各地で貿易や流通を担うようになった。後にそれらの仕事を「商業」と呼ぶ。

この「商殷」の時代に現在の漢字のルーツである甲骨文字が生まれた。

甲骨文字は亀の甲羅や、牛の骨に占う内容を刻み、それを火で炙り、骨のひび割れパターンから吉凶を占った。  

神秘的な言い方をすれば、神との交信に使われた。

能楽師であり、古代中国にめっぽう詳しく漢和辞典までつくった安田登さんの話を聞く機会があった。

安田さんは「身体感覚で論語を読み直す」という本を書いた。テーマを丸呑みする感覚で時代に入り込み読み解いていく。

彼によると、「心」という漢字は孔子が活躍する500年前まではこの世に存在しなかったという。

「心」が出現したのは王朝が「商殷」から「周」へと変わる、今から約3000年前だという。

それより以前の甲骨文字や金文には「心」という字が存在しない。

現在日常生活で使う常用漢字は、約2000文字。「商殷」の時代に存在した漢字は、現在使われている数の倍以上もある。

それなのに古代中国では「心」や、思・惑・悔・慕など「心を示す部首」をもつ字が、ほとんどないのだ。

では「心」のない時代、人間はどうやって思考したり、判断したりしていたのだろうか?
答えは、な、なんと…「神」が命じたように生きるのである。

「神々の沈黙」を書いた心理学者で考古学者のジュリアン・ジェインズは、統合失調症の人の心の状態を徹底的に観察した。

その結果たどり着いたのが、古代人は「心」のないまま、神の命に従っていたのではという仮説であった。

古代の人の心の中は二つに分かれていて、一つは命令を下す「神」とよばれる部分。もう一つはそれに従う「人間」と呼ばれる部分があり、それらを意識することなく生活していた。

ところが、商業や交易が発達し、自然の環境が大きく変わるにつれて、いつのまにか、神に占う必要がなくなった。神々との交流が少なくなった。それに伴い古代人の脳のなかに「心」が芽生えていった。

ジュリアン・ジェインズによると、「心」が生まれたのは3000年前だという。

これは偶然にも古代中国で「心」という文字が出現した頃と一致する。

デザインの現場において、対象を徹底的に観察し、自分の身体が対象と同化する感覚までなったとき、これまで思いもつかなかった新しい発想が生まれることがある。

古代人の「心」の真偽はさておき、安田さんも、ジュリアン・ジェインズも、観察と古代に入り込む身体感覚からのアプローチには、理屈では計り知れない何かを感じるのである。
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by ogawakeiichi | 2012-03-04 18:35 | 南日本新聞コラム