ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

<   2012年 06月 ( 9 )   > この月の画像一覧

コンセプトについて

ここ数日、FBにアクセスできない状態が続いている。

FBにコンテンツをアップすると、注意のカーソルが必然的にFBへと向かうシステムには、やられた!と思うのだが、執着を手放す修行が足りないため,他者からののコンタクトを示す赤い表示の有無が頻繁に日常意識の俎上に上り、なかなか手放せないでいた。

そういえば初めてメールを始めた頃、ブログをはじめた頃も、メールやブログに執着してしまう時期があったなぁ・・。。

ところがなぜかFBにアクセスできなくなり数日が過ぎた。原因はわからない。

これまでFBというインタラクティブな装置のなかで拡散していた意識が、一方通行的なブログを綴ることで収束する意識へと向かう。

これはこれで、清清しい。

ところで目の前を通過していく現象や対象の断片的なチャンク情報を、脳の中へ記憶として蓄えながら、情報クラスター(くくり)として留めることは一筋縄ではない。

たとえば、ブログでもなんでもだが、あるぼやけたモノやコトをカタチという表現へと向かわせるときその作業を妨げたり難渋させたりすることがしばしばおこる。

そんなときは、あれこれの発想や思索を加速し、直感を動かすときの支点となるべきコンセプトのくくりが問題の場合が多いという。←たしかにそうだ。自分の興味の対象へ概念(コンセプト)の装いを変えればいいのかも。そのことでコンセプトはモチベーションの起動装置やシンボルに成って行くのかもしれない・・・ただコンセプトのないコンセプトってないのかな?。


=============================================
コンセプトとは「一つに掴まれたもの」のこと。日本語では「概念」のこと。言葉というツールで表現できるできものである。それゆえに、概念には必ずはっきりとした起源や発生がある。概念には言葉としての発生と変遷の歴史がある。
============================================

ここはひとつ、モノ・コトに立ち向かうまえに、立ち向かう背後の概念(コンセプト)の建て直しでもしてみよう。。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-22 13:30 | 只記録

たわごと

f0084105_1021327.jpg人間は未知のものを既知のイメージで理解して、予測に基づき行動するいきものだ。

日本は、その多くが外から来た「外来コード」と、それまであった「内生モード」の組み合わせからなる。

日本という場は、外からの揺動を受けると、深層・中層・表層がそのつど動いて、そこから日本のマザーがアタマをもたげいい案配で適用していった。

ここ鹿児島では知事選も近づき、FBでは支持者の表明が相次いでいる。民主主義という民が主である表沙汰でもある。原子力発電の有無を争点にすると、投票箱が、原子を扱ったシュレディンガーの猫の、あの箱にもみえてくる。

投票とは、ある集団での各成員の意思表示を行うための方法の一つである。集団内の意思が統一されない場合、多数決によって物事を決定することが多い。きわめて民主的におもわれる投票も、単票によるきわめて二分論的な方法でもある。つきつめれば善悪論までいき、劇場型になればなるだけ角が立つ。


安易なカテゴリー分類、それとともにある二項対立(あれかこれかの選択)ではなく、分けつつもどちらかを排他的に選択せずに選択そのものを無効化する方法はいまのところ無いのだろうか。

私たちは、2つの価値観に引っ張られて、そのどちらかを選んで他を捨てているか、もしくは2つのものに二重拘束されている。前者を二者択一といい、後者をダブルバインドという。

そのいずれにも陥らないで、ふたつの相反する矛盾や葛藤をそもままうまく生かしていく方法はないのだろうか。西田幾多郎の言う、絶対矛盾の自己同一的な・・・・・徹底的に覚悟のジグザグってものいいのかも知れない。

宮本武蔵の「五輪書」では、徹底的に生と死を武芸において技を磨いた。「さかゆる拍子・おとろう拍子」「あたる拍子・そむく拍子」それをまとめて、「懸かる」と「待つ」を同時にとらえた「懸待一如」という境地まで高めた。そこには生と死という大きな相反する結論がまっていた。

そこで大事なのはただひとつ、瀬戸際をどう見分けるかということだった。

「夕空晴れて、秋風吹き 月影落ちて鈴虫なく 思えば遠し故郷の空 ああ わが父母 いかにおわす」
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-20 14:26 | 只記録

構造的カップリングのメモ書き。

かなり以前、構造的カップリングのメモ書き。※引用先が見つからないので、著者の方が見られたら教えてください。

↓  ↓

注意を向けるとは、その対象にイメージの端子をそそぐことである。注意のカーソルをそこに宛がうことである。

注意を向けたところが仮の親になり、次々に仮の親という図を乗り換りかえ、それらは地のなかでリンクしていく。

このリンクを進むことを、わたしたちは「考える」と呼ぶ。

システム内側を観察するということは外側が存在していること。

システム内部は実に複雑であるが、その外部を取り巻く環境はもっと複雑だ。加えて内部と外部にはおのおのの複雑性の違いもある。

システムは内外に存在するきわめて多様な複雑性とかかわって構成されなければならない。しかも複雑性は時間とともに変化していく。

いわば複雑性の時間化によって「動態的な複雑性」が現出してくる。

そのためシステムは時間のもつ重要な性質、不可逆性をも前提としなければならない。

日々変動するそれらのすべてを予期し、それに備えてシステムを能力的に整備しておくことは不可能である。

システムが成立し、存続していくためには、環境の過大な複雑性を選択的に受け入れるしかない。これを『複雑性の縮減』と呼ぶ。

予期して以外の可能性が常に潜んでいる。言い換えると、現にみられる物事は「別様でありえた」のであり、今後起こるであろうことがらも、予期するものとは違ったものとして生ずる可能性を排除することができない。

時間的制約をもつものには偶発性がつねに伴奏している。

たとえば、内部システムをもつふたつの複雑性のもの同士がどうしてコミュニケーションを通じ合う関係になるのであろうか?

これに対しては、むしろ二重偶発性が顕在化するときにこそ、社会システムは創発のきっかけを与えられるのだろうと考えることができる。

そもそも人間は他者と共に生きることを前提としており、君が私の望むことをするならば、わたしは君が望むことを行うという原則にたっている。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-18 07:02 | 情報とデザイン

コンフリクト

なにかとコミュニケーションの不具合が生じている。

対話と議論が、混乱をはじめ、観察のなかに自己の感情が入り込でいく。脳が自己の感情を一歩引いて観察することに慣れはいるのだが感情回路と、思考回路がときに混乱をはじめるのだ。本来なら、思考回路から感情回路へ移れるのに、感情から思考のほうが圧倒的に多い。

人にはそれぞれ生きてきた物語による見解がある。その文脈において、対話では衝突、葛藤、対立などのコンフリクトが起こる。

そのため感情から境界を引くのではなく、お互いの相違点や認識を俯瞰して眺めながら、共通の認識や参加の意識を高めるベクトルへと自らが導く。

会話は、人間同士が言語でやりとりをする総称でコミュニケーションに不可欠だ。

議論は大脳新皮質で扱われる論理や言語、異なった意見や考え方を合致させていく。対話は大脳辺縁系で扱われる本能的は反応や感情、情動で、異なった意見や考えを共有していく。議論には終りがあり、対話には終りがない。

観照という言葉がある
これは、主観を交えないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ることだ。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-12 12:16 | サイエンス

分岐について

世界を理解したいと思ったら、宇宙や自然と向かい合う必要があると言ったのは、私淑する松岡さんだ。

我々の生命の活動は‘宇宙―地球系’にたった一度だけ奇跡的に生じた「負のエントロピーを食べている系」に沿って35億年以上の旅をしてきた。そしていつの頃からか、我々はもともと物質でできているのに「意識」や「心」をもった。

わたしの左側には10年以上前、中学生だった娘が拾っていた猫がちょこんと座っている。虚ろな目で外を眺めている。この猫にさえときに心が通じることがある。私の脳が生んだ意識や心によって、猫の脳が生んだ意識や心と交流しているとしか言いようがない。

物質の運動は脳がつくった。脳は物質であるのに、その物質のなかを走り回る電気信号は意識を生んだ。これはいったいどういうことだ。←このことを心身問題という。

宇宙史から生命史を経て社会史、人間史(物質が経験する学)へ至る道と、その逆に人間、社会、生命、宇宙へと至る、(精神が経験する学)のふたつのルートからこの問題にチャレンジしていこう。

ところで、個人的にだが2012年を大変革の年と、ずいぶん前から位置づけている。311以降、時の流れを鑑みながらベタな言葉ではあるが人生の旅の分岐を模索している。

ラサという名のデザイン事務所をたちあげ、スタッフが寄り合い10年を過ごした。同時に個としては究極の身体思考からトライアスロンのフルタイプを目指した。←1994年達成。

その後、中国というまったくシステムの違う国家レイヤーのなかで、そこではモノに向かうデザインではなく、コトに向かう教育に取り組んだ、

難問にぶつかるときにつねに立ち止まり依拠することがある。依拠するもの、それは「相互共生発生」と「境界変化発生」という生物学上の発生や分化に関することだ。

人類や国家や社会や組織、また個人が新たなルートを模索するとき、生命論で言う「発生」「再生」「分化」に行き詰ったならこの二つの方法がある。

「相互共生発生」とは、バクテリアやウイルスを細胞内に共生させることで、内部システムにいくつもの小器官や小機能を発揮できるようにした見方だ。

「境界変化発生」とは、内部と外部を分けていた膜が自ら新天地をめざし、陥入したり飛び地をめざして内属と外包の関係を劇的に変えていく見方である。

これはあえて「区切る」「仕切る」によっていったん確立した境界を、あえて動かしてまったく新しい「自己―境界」の関係世界をつくりあげていくことである。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-08 05:34 | 只記録

量子を振り返る

昨日エントリーした「部分と全体」から、久しぶりに量子論へ嚆矢が向いている。

とはいっても、研磨している東アジアをほっとく訳にはいかないので、量子と同時に深化させ、量子論と東アジア史の隙間を往來してみようと思っている。

さて、東アジアも目の前にあるPCモニターも我々の表層に見えている世界はマクロ宇宙だ。マクロな宇宙を見ていくことは、ミクロな素粒子をみていくことも意味している。

しかしマクロとミクロのあいだではシステムの振る舞い方がまったく異なっているのだ。

マクロな自然界では投げたボールや流れ落ちる水に連続性があるのに対し、ミクロの世界はそうはならない。そこには「とびとびの整数の倍数」の世界というものがある。←ここが実に奇妙で、イメージしてもなかなか見当がつかないのだが、丸呑みするしかない・・・

さて、これがどういうことかと言うと、ミクロ世界を記述する量子論になるのだが、ミクロの物質の場合は、私たちが見ていないときには「どこか一カ所にいる」のではなく「さまざまな場所にいる」という状態になっているらしい。←どういうこと? 

一体なぜミクロの物質は、誰にもみられていないときには住所不定になるのだろう?

それはミクロの物質が「波」としての性質をもっているからだ。電子などミクロの物質は粒でもあるが波でもあるという矛盾する二面性をもっている。

そしてこの考えを突き詰めると、ミクロの物質の集合体である月も、誰もみていないときには「誰も知らない、どこか一カ所にいる」ということになる。・・・。←すくなくとも電子のレベル

月はあまりに巨大なので、その状態の移動も目視できるようなものではない。←※マクロサイズの物質が波になったとしても、その波の広がり方はごく小さなもの。だから波は広がっているというよりもほぼ一点にある。つまりマクロの物質はほぼ1箇所にあると考えてもよい。別の表現をするとマクロの物質は波としての性質が弱ということだ。


ミクロの物質がきわめていい加減だということを明らかにした量子論だが、歴史的にみれば量子論は3つの時期を経て作られた。

量子という言葉が出現したのは1900年代のこと。そもそも量子とは、クォンタムという英訳で「小さな固まり・単位」「とびとびの量」とかの意味をもっていた。したがって、量子という微粒子があるわけではなく、とびとびの量という概念のことを量子と呼んだ。

最初に量子という言葉をつかったのはドイツのプランクという物理学者だ。アインシュタインとともに光はとびとびの量があると提唱した。マックスブランクは量子定数hを定義し光のエネルギーをE=nhvであらわした。 

光エネルギー=整数×量子定数×光の振動数

これは光の粒子(光量子)のもつエネルギーはその振動数の整数倍に比例するという意味だ。ある物理量が連続的な値をとらすに、最小単位の整数倍であらわされるとき、その最小単位を量子という。

ブランクが量子定数を発見したのは、溶鉱炉の鉄の色から勘で判断していた温度のはかり具合からだ。物体は熱せられれるといろいろな光をだす。鉄は最初は赤く、次に黄色、さらに燃やすと青くなる。この色のちがいは光の振動数の違いでもある。

プランクは溶鉱炉の温度を知るには中が黒くなった箱で物体を燃やして、光のスペクトルを測ればいいことに気がつく。ところが、スペクトルの実験結果は、振動数がとびとびのとことで波長(色)を変えていることに気がついた。

そこであれこれ考えたのが「量子」というものの関与だったのだ。なおこの結果から、若きアインシュタインは光の正体を粒と考える光電効果を考えた。←※これは波長の短い光(紫外線など)を金属に当てると電子が飛び出すが、波長の長い光(赤外線)などをあてても電子は飛び出さない。波長が短い光ほど光量子1個あたりのエネルギーが大きいと考える。

続く第二期はデンマークの物理学者ボーアが登場する。
このボーアが電子に対しとびとびの量という概念を言い出した。

そして第三期はミクロの物質は波としての性質をもつというアイデアが提唱された。1920年代のことである。

フランスの物理学者、ド・ブロイ。
オーストリアのシュレディンガー。
ドイツのボルンやハイゼンベルグ。


つづく・・
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-05 12:47

部分と全体

f0084105_12402721.jpg部分と全体は、量子力学のw・ハイゼンベルグによる自伝をもとにした科学書で、山崎和夫訳、湯川秀樹が序を書いた名著である。

湯川秀樹の序文では、ハイゼルベルグの体力や気力に印象づけられたことが描かれている。ハイゼルベルグは体力のいる登山を好み、また知的冒険のために精神と肉体の両面にわたる耐久力があり、また一貫して理論物理学を哲学との不可分だったことが記されている。

つまり気力をもって、近代科学が次へのレイヤーへ飛び移るイノベーションのきっかけとなるハイゼンベルグが遍歴した科学者(アインシュタイン、ボーア、シュレーディンガー)達との議論を綴った内容だ。


ぼくは、まずタイトルであるDER TEIL UND DAS GAVZE (日本語訳:部分と全体)が、気になった。実はといえば、このタイトルがぼくに本に手を伸ばす行為を興した単語アフォーダンスをもっていたのだ。

部分と全体というタイトルから、マクロとミクロ、類と個、はたまた地と図(フィールドとフィギュア)の往来からイノベーションが興っていくイメージを喚起した。

1900年代初頭、相対性理論はすでにマクロ方面では幅をきかせていた。その頃、ミクロへの量子力学が語られはじめた。量子力学を構築した物理学者のほとんどは20歳代の若者たちだった。

叙述は、青年時代のハイゼルベルグが、屋根上でプラトンを読みながら、物質の究極について、正立体のようなイデアがあるのか、それとも数式があるのかで悩むところからはじまる。←※ここはよーわからん、

ハイゼンベルグは学生時代から仲間たちと闊達に議論し、自分の思索のひらめきと深化のほとんどをこれらの会話の奥から引き出す能力に長けていた。会話の中で思考を深めていった.

彼は早期にヘルマン・ワイルの「空間・時間・物質」にはすでに出会っている。←物理学の名著なのにぼくはまだ読んでいない・・・。

また、ハイゼンベルグのひらめきは錚々たる対話の相手に恵まれたせいでもある。その遍歴は、当時の物理学の親分アーノルド・ゾンマーフェルトの門下にはいったことだ。門下にはパウリがいた。

ハイゼンベルグはヴォルフガング・パウリと言うこれまた早熟な天才との交流を通して、量子力学を作り上げていく。

次に、ゾンマーフェルトの一門流派とは違う、ボーアとアインシュタインに出会う。

とくにボーアとの対話は、主に政治と科学を巡る議論になった。

さらに波動関数のドゥ・ブロイ、シュレディンガーなどなど、今となってはこりゃすごすぎるこんな連中と対話していた。

ただ、世はナチス・ドイツとなり、牧歌的な雰囲気は消滅していく。家族を守るため、自信の立場や環境に、逆らえずに翻弄されてゆく。

ボーアの相補性仮説、シュレディンガーの波動関数、ドゥ・ブロイの物質波の提起、ディラックの電子の海仮説、パウリの排他律、そしてハイゼンベルグの不確定性などの理論がシェルドレイクの仮説のようにボコボコと誕生していた。

しかし、現在に至っても、これらを統合する理論までには至っていない。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-04 12:43 | サイエンス

ミーハーショット。

もっとも尊敬するデザイナー杉浦康平さんとミーハーショット。

30年の念願かなって!やっと会えた。

もちろん図々しく会いにいってもいいのだが、畏怖の念からこれまてしていなかった。

同じ場での出会いがやっと来た。

群れることも、これと言った批判も主張もしない編集的信念をもち、一途で多様な日本とアジアのデザインでは群を抜いている。
f0084105_10574191.jpg

畏怖の念から会うのをためらう背中を押した皆様と、ショットした中野女史には感謝。それにしても、自分の後ろ姿、あんまり美しくないなぁ。。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-04 10:55 | 味写真

旅で多様な価値を知る

縁あって二十代前半に訪れた海外の街や風景を描いたスケッチブックを取り出した。

ベイズリー文様のインド更紗を貼りつけた手作りの表紙は、一緒に旅をした連れ合いがつくってくれたものだ。

表紙を広げると、紅茶色に変質した紙に描かれたインドやネパールの煤けた景色がある。

人物は風景の隅っこに描かれ、主役は景色、脇役は家々で、そこに人々が溶けこむように描かれているものが多い。

そのなかでも珍しく街の雑踏を描いたものがあった。

インドの中心部ベナレスの街だ。まだ、海外用のガイドブックのなかった時代だ。唯一頼りになったのが、「アジアを歩く」という本だった。

ここに書かれた一節にガツン!とやられた。
「激烈なる大地に対抗するために生まれた、激烈なる宗教の聖地といえば、激烈なることは当然であろう」。この言葉に惹かれてこの街を訪ねることになる。

はじめての場所は、いつも新鮮な刺激をもたらしてくれる。とくに異国はインスピレーションの宝庫である。

わたしの旅へのきっかけも、興味の対象もひょんなことに始まり、ひょんなことで変化してきた。

高校二年の冬、体調を崩し診察してみると難病に冒されていた。

病状は悪化するばかりで一時は生きるのさえ辛かった。

特効薬はなく、治療法といえば、絶対安静だけ。 

ある日のこと、動けないからだで、病室の天井を見ていると、天井のシミや凹凸が風景にかわり、時間とともに刻々と変化していった。

冷静に考えれば、わたしの脳が、太陽光線によって変わる天井を、都合よく風景のイメージに変えていただけのことだろう。

生命への希望がそうさせたのかもしれない。

入院は一年以上続き、結局留年することになる。多感な一七歳の出来事だった。

はじめて旅に出たのは、上野駅から青森を経由して青函連絡船に乗って行った北海道だ。病室で見た幻覚が北海道に近かったような気がしたからだ。

以後、まだ見ぬ風景を求める旅がはじまった。日本を巡り、アジアを巡った。

興味の対象は風景から次第に、生活や文化や人間へと移っていく。

わたしたちとは違う価値の思考や生活文化に興味が湧いた。

中国の民のなかで十年を暮らしてみた。自分たちのいる場所が中心ではない。世界に中心などなく、世界は多様で多彩なことが腑に落ちた。

海外での生活を契機に「日本とはなにか」を考えるようになった。帰国後は、日本やアジアの歴史を振り返った。

その最中のことだ。震災と原発事故が母国・日本を襲った

私たちは今、どのような文明を選ぶのかの正念場にいる。

自分の身体を使って、日本とアジアを歩き、暮らした記憶から「母国・日本」をそろそろわたし自身の方法で、きちんと語る時期が来たのではとも思っている。
[PR]
by ogawakeiichi | 2012-06-02 13:43 | 南日本新聞コラム