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彩遊記

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心についての考察

集中が妨げられ心乱れることがあるき、よくよく自己観察すると、どうも心的調子がいまいちリズムにのりきってないことにある。

スポーツで調子を整えるのもあるにはあるが、これはカラダのキレが悪いときで、心的にはちょっと違った方法を使えばいい。

個人的な話だが、気分の浮かないときには生物に学ぶと妙にリセットできるような気がする。

自分の心の状態を客観的突き詰めようとすれば、どうしても精神や脳神経系のしくみや問題を通過しなければならない。

てなことで・・


まずは、ぼくらが直立二足歩行によってもたらされた事態を知らねばならない。

それは人間が頭蓋骨のなかに三つの脳をもったこと。

三つとは、
反射脳である「ワニの脳」←大脳基底核のあたりにあってR複合体。
情動脳である「ネズミの脳」←哺乳動物に共通してあり大脳辺縁系にある
理性脳である「ヒトの脳」

ワニやネズミの脳は、激しく渦巻く心のエネルギーの原子炉のような領域で全面的に無意識領域に属す。

これをフロイトは『エス』と名づけた。

エスには、善悪の判断がない事と、時間感覚や論理性がない。生存する為に必要な生物学的本能で、その基本的な機能はDNAによって祖先から子孫へと継承されて、動物的な生きる力の源泉であり衝動が湧き上がっているところでもある。ここでは快楽を求め、不快を避けるというフロイトの言う快感原則に従う。

フロイトの精神分析では、まず心の過程が「快感原則」に支配されると考える。快は興奮量の減少に、不快は興奮量の増加に対応するので、心的装置は興奮量を低めに、あるいは恒常に保とうとする。←「快感原則は恒常原則に由来する」という。

だとすれば本来、生物の自然は安定を求め変化を嫌うはずなんだけど。しかし、実際われわれは快感原則のみに従って行動しているわけではない。

そんなことしたら、他の生物に捕食されるかもしれないし、そもそも配偶者が得られないから、DNAを複製することができない。

だからときに「満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂路をへて快感に達する途中の不快を一時甘受する」ことを受け容れなければならない。これを現実原則という。

つまりワニの脳(反射脳)と、ネズミの脳(情動脳)が、ヒトの脳(理性脳)によって一時中断させられるということだ。

ワニの脳(反射脳)と、ネズミの脳(情動脳)にみる「快楽原則」に対し、ヒトの脳特有の『自我』は、快楽を追い求める『エス』を現実の条件に合わせてコントロールする機能で、エス(本能的欲望)と超自我(禁止命令・倫理的判断・良心)の間で調整の働きをする。

『超自我(スーパーエゴ)』とは、エスや自我よりも後の時期(約4~5歳の時期)に形成され発達してくる心的機能。超自我の機能は『善悪を判断して、善い行為を取るように勧め、悪い行為を取らないように禁止する良心あるいは道徳心』のようなものだ。

さてさて、ここまでが捕捉しておかねばならない、前振りでここからが本題なのです・・・

千夜千冊で松岡さんは、こう言います。

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フロイト理論を知らなくとも、この感じってきっと自意識なんだろうな、これって潜在意識なんだろうな、こんなに欲情するなんて、これはきっと本能なんだろうななどと思ってきたものだ。

けれども、これらがはたして自分の心身の発達や転換の、いったいどのあたりから芽生えてきたのか、それとも途中で加速したのか委嘱されてきたものなのか、あるいは何かのきっかけで心が歪んだので快感や不快というものに変じていったものなのか、そのあたりがいまひとつわからないままになっている。

せいぜい、精神に異常をきたした者が告白する出来事や感情の起伏で判断するしかないものとみなされてきた。つまりは脳のなかの心的現象と結びつけるしかないと思われてきたのである。

しかし、それではエスであれ自我であれ超自我であれ、「自分」の発生の起点や快不快の出どころがなかなか突きとめられない。

心の正体が脳だとしても、脳の中なんて容易に覗きこめるはずがない。ようするに「自分」のなかの自分という奴は、いつもいつも適当に扱われてきたわけだ。

といって、心の変調を訴えでもしないかぎり、われわれは自分のことを誰かに精神分析してもらえるわけじゃない。仮に病院に通ってみたとしても、その分析医の治療が当っているかどうかわからないし、たいていはすぐさまクスリを与えられるのがオチである。

そこでアンジューが「皮膚-自我」を持ち出したのだ。

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いよいよ真打「皮膚-自我」の見方の登場!。


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脳のなかで感情や知性を決定づけているのは、おそらく大脳皮質だろうということになっている。

コルテックスだ。また、そこで交わされるニューロトランスミッター(神経伝達物質)というケミカルメッセージのせいだと思われている。きっとそうだろう。

脳のなかの神経ネットワークが駆動して、意識を動かしているのはまちがいない。


と、きょうはここまで。

つづく・・
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by ogawakeiichi | 2013-04-25 10:12

ミラーニューロンの仕業

f0084105_11355190.jpg旧知の友がD通を早期退職した。情緒と組織の面影の電話を受けるたび、次第に相互補完的になにかを共読している感覚になってきた。

D通をあっさりと止め、農業の周囲へ突き進むことにしたのだが、現実直視のなかで、複雑系の海を暗中模索、右往左往していた。

そのうち、ことばの調子で電話口の向こうの心の襞が感じられるようになってきた。次第に距離を隔てているにも関わらずミラーリングな影響を受けるようになってきた。

いち早く複雑性の海を泳いでる先人としての経験からミラーリング感覚が発動したのかもしれない。

我々の認知は共感などのかなり高度なものでさえ、身体感覚と無縁ではない。

受話器を通した聴覚からの情報が、共感から相互補完的な編集や共読に近い振る舞いを興すような気分になってきた。

これはいま流行りのミラーニューロンの仕業なのだろうか・・

ミラーニューロンの発火によって他人の喜怒哀楽を自分のことのように感じるのだろうか。

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ミラーニューロンは1990年代初頭に、イタリアのパルマ大学の神経生理学研究室ジャコモ・リゾラッティをリーダーとした研究グループにより発見された。

マカク属のブタオザルを使って、前頭葉の運動前野にあるF5という領域を調べているうちに、前代未聞のことがわかってきた。自分がある行為をしているときも、他者がその行為をしているのを見ているだけのときも、同じように活性化する脳の神経細胞が、下前頭皮質と下頭頂皮質の両方に存在することが分かった。

鏡のように他者の行為を映すことから“ミラーニューロン”と名付けられたこの神経細胞の発見は、脳科学のみならず、心理、教育、社会学、人類学、芸術など様々な分野に衝撃を与えた。

これは学習や模倣、コミュニケーション、さらには情動の伝播・共有を説明する鍵として注目を集め、生物学におけるDNAの役割を心理学で担うとも言われている。

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これはたんなる模写細胞や模倣細胞なのではないらしい。

ミラーニューロンは自分の行為と他者の行為をつなげてコード化するニューロンだった。

さらに調べていくと、ミラーニューロンは対象物がないパントマイムのような動作には反応しないことがわかってきた。テレビや映像の中の動作にも反応しなかった。

対象物とそれにかかわる動作がセットになったときにのみ、ミラーニューロンはみごとな反応を見せるのだ。

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つまり、【意図】に反応するということ。

ズバッと言えば、相手と同化しないとミラーニューロンは発火しないということになるのだが、

それでは、同化させている大元さまはなんなのか。。う~~NN。。。そこが問題。
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by ogawakeiichi | 2013-04-24 11:41 | サイエンス

生物から見た世界

f0084105_159249.jpgデザイナーなど、対象世界をアウトプットする者は、ユクスキュルの【環境世界】という見方を知っていてもおかしくはない。

彼の著書「生物から見た世界」は、杉浦康平をはじめとする一流デザイナーに愛された古典でもある。

ユクスキュルが我々に言い放った重要なことは「われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていない」ということだ。

さてさて、
これはどういうことかというと、ポイントはこのふたつ。
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①「我々はつねに知覚メガネをもって自然と接し、しかも、メガネのように取り外しできるものではなく、我々に内属しているメカニズムとしての知覚である」

②「知覚によって対象化された世界」は“ナマな自然世界”ではない」

そのことをユクスキュルは“Umwelt”「環境世界」と名付けた。
●“Umwelt” は知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同でつくりあげている「半自然=半人工」の世界像のこと。
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つまり、
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◎モグラにとっての環境世界はモグラが突き進む作用能力そのものと一致し、ハエの環境世界は明度空間と匂いの分布を重ねたような“Umwelt” をもっている。

◎一本のカシワの大樹は、われわれには空に聳える一本の大樹に見えているものの、キツネにとっては刳り貫かれた穴の世界であり、フクロウにとっては危険から遠ざかるための保護世界であり、カミキリムシにとっては巨大な食物市場そのものである。
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ユクスキュルは、研究の終盤には「トーン」(ton)という概念にまでたどり着いた。
トーンというのは、言ってみれば、動物たちがその世界像をもつための特定のフィルターのようなものだ。

たとえば、
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◎ミミズを捕食するカエルにとってのトーンは数センチの棒状のものとの出会いがつくっているトーンである。だからカエルはミミズとゴム屑をまちがえる。

◎ムクドリにとってはハエの飛び方のトーンがムクドリの世界像をつくるフィルターになっている。だからムクドリはハチとハエをまちがえる。
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われわれもこのようなトーンを使って外界を見ている。

デパートやブティックで特定の洋服を探すときは、このトーンをフィルターに使っている。

我々が買い物をする場合、すでにアタマの中でそのお目当てにあたる適当な“像フィルター” を用意している。その見いだしたいトーンによってしか、その売場は見えてこないのだ。


つまり、トーンとは、知覚と世界の「あいだ」を占めている調子フィルターなのである。


ユクスキュルはこのトーンとしての調子フィルターのことを【意味】とも呼んでいる。

たとえば、
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◎犬に向かって男が石を投げたとすると、それ以降、犬は石をぶつけられることに抵抗するようになる。しかし、その抵抗は犬の意志によって抵抗しているわけではなく、石的なるもののトーンを見分け、そういうものが自分に投げつけられるときの相手の動作のトーンを観察して反応するだけなのだ。
 
◎人間にとっても、石のトーンはさまざまな複合性をもって成立する。道で石につまずいて恥ずかしくなるほど転んだ者は、その後は石のトーンのみならず道のトーンや坂道のトーンを注意深く知覚するようになる。
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ということは、その人間にとっては、道は新たなフィルターを通した“道像” あるいは “像道” になったということなのだ。

これはギブソンが提唱した「アフォーダンス」にも似ているが、ユクスキュルの思考はギブソンのアフォーダンスよりより生命生活的でありまた知覚生物学的な見方だ。

こうしてユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである。
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by ogawakeiichi | 2013-04-20 15:05 | サイエンス

私的所有の生物学的起源1:なめ敵から・・

f0084105_10193065.jpg久々に、ドキッとする本が出版された。鈴木健の「なめらかな社会とその敵」。私的所有の生物学的起源から国家までの世界を生物学的アナロジーで端的にかつ数学的に表現した本だ。こりゃあいい。おまけにネット上でパラパラ漫画モードの動画を見つけたので書き起こしてみた。多文化共生や多様性、個と国家などに対し、新鮮な切り口による構えは切れ味良さそうでもある。


おおもとhttp://origin.sargasso.jp/







▼40億年前、膜が登場した。

▼自己の維持に必要な資源を囲い込み。

▼膜の生成プロセスを物理的に隔離する。

▼膜が私的所有の最初の生物学的起源である。

▼化学反応のプロセスのなかから書くものと書かれるものの分離が生じる。

▼タンパク質(書くもの)とDNA(書かれるもの)の分離によって、小自由度か大自由度に影響を与え、DNAは核という細胞内器官に取り込まれる。

◎核が生物学的起源である。

―――――――――――――

▼多細胞生物が発生する。

▼個体全体の内外の区別の必要性から免疫システムが登場する。

◎免疫は物質のメンバーシップの生物学的起源である。

―――――――――――――

▼一方、身体は刺激を受け、身体を動かすだけでなく、運動を切り替えるようになった。

▼さらに運動をする身体の情報が返ってくるようになりさらに体性感覚が生じた。

▼情報的な身体の所有感覚が登場する。

▼同じ身体のリソースを必要とする他の個体がいると縄張り争うをはじめる。

▼空間的に境界を設けリソースを囲い込む。

◎縄張り争いの生物学的起源である。

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▼コミュニケーションがはじまる

▼片方が片方を制御しているという錯覚が生じた。

▼また、ミラーニューロンの登場により自己と他者とを同一視するようになった。

◎これが、疎外化と生物学的愛の起源である。

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▼不確定な他者の振る舞いを理解するために

▼本当は存在しない他者の心を

▼存在するものとして推論する能力が生まれた。

▼人はうそをつけるようになった。

▼5万年前

▼不確定な振る舞いを理解できないのは他者だけでなく自分もであった。

▼自分の振る舞いを他者として認識できるすなわち自己認識が生まれた

◎これがホムンクルスの生物学的起源である。

――――――――――――――

人間の歴史がはじまった。

たくさんのヒトがいた。
▼  
土地を巡る争いを行うようになった。
▼  ▼  ▼
◎領土の生物学的起源である。

ーーーーーーーーーーーーー――――――――――

5000年前

やがて社会はひとりに判断を委ねるようにした

王という小自由度が大自由度を制御した。
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400年前
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人は王のかわりに全体という概念を発明した。
▼  
◎これが社会契約の生物学的起源である。
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by ogawakeiichi | 2013-04-18 09:33

グローバリゼーションについて

f0084105_835569.jpg鹿児島大学の学生たちとの多国籍合宿や、フェアトレードの授業をやっていると、どうしてもぶつかるのがグローバル社会という言葉だ。

個人的にこの言葉は長年、なんとなくしっくりこない。

壁を壁として認めた上での多文化共生的グロバールはいいものの、経済のグローバル化となると言葉の響きに反し、からだがどうもしっくりこない反応をしてしまうのだ。

さて、それではグローバリゼーションとはなんなのだろうか。

一見すばらしい未来が待ち受けているような印象さえもってしまうこの言葉の饒舌さに反して、この現象の確固たる定義は存在してない。

田中宇によればグローバリゼーションという言葉は1983年以降、欧米での新聞に現れてきたという。

世界銀行やUNCTAD(国連貿易開発会議)などのグローバリゼーション推進派は、それに反対する人々から「新自由主義」とみなされている。グローバリゼーション反対派の主張は、持てるものが勝者となり富の一極集中を招き、世界的な貧富の差を拡大すると言うものだ。

つまり、経済のグローバリゼーションは「政治からの脱コントロール」をめざし、もっぱら「資本の論理」によって動かされていると考える。

そのなかでもスーザン・ジョージは、グローバリゼーションを「ヘッジファンド」のようなその進展によって利益を得る“黒幕”がいるという見方をした。

アレックス・カリニコスは、世界化する資本の運動が止まらなくなったとする“暴走説”による見方をした。

その後、しばらくすると、もっといろいろな解釈や指摘が登場してきた。

以下、
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●グローバリズムと資源フローの顕在化と国民国家の衰退とはカップリングされている(デイビッド・ヘルド)
●グローバリゼーションは地域の絆を失わさせていく(ロバート・パットナム)
●グローバリズムとナショナルな国民国家は両立しうる。
●グローバリゼーションは国家の枠組との調整をはかりながら変容する(サスキア・サッセン)
●グローバリズムは世界をフラット化させている(ベンジャミン・バーバー、ジョージ・リッツァ、トマス・フリードマン)
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鈴木謙介の書く『〈反転〉するグローバリゼーション』では『アンソニー・ギデンズ』と『ネグリ=ハート』の二つの際立つグローバリゼーションについての考え方を検証した。

彼の著書によるとアンソニー・ギデンズは「国家と個人という枠組のなかで、新自由主義型のグローバリズムが自己責任によって市場化された世界を生きることを強いてはいくが、そのため人々が連帯し、生活の基盤となるコミュニティや市民社会をエンパワーすることを政治の中心課題とするべきである」と主張した。

ネグリ=ハートは「市民的活動がグローバリゼーションによって広まることはありうるとしても、それがかえって世界を分断していくのではないか、だからマルチチュードはグローバルな市民秩序から排除されつつも、分断を超える運動にならなければならない「と主張した。

ギディンズとハートについてここでは深入りしないが、有名なマルチチュードについてのメモだけでも・・・


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ネグり=ハートの言う、マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリによって最初に使用され、その後スピノザにより提唱された地球規模による民主主義を実現する可能性として、国境を越えるネットワーク上の権力。

ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在と言う。

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鈴木謙介によると

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グローバル化した<市民>によって営まれる社会は、どのような価値を抱いていても、それが他を尊重し、侵害しない限りにおいて認められる多元主義的な社会である。

とはいえその多元主義の「外側」は、それがグローバルなものである以上は存在しないため、その多元主義に賛成しないということは、自動的に<市民>、すなわち人間であることを否定されることになる。

そのためグローバル秩序の外側に置かれた存在は、テロをもってしか臨むことができない。

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と、ちょっと恐ろしい予言をしてる。
また、その<市民>社会の内側においても、別種の問題が存在するという

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グローバル社会の広がりは、それ自体として人びとに、ローカルなアイデンティティへの希求を強める再帰的な性格を有している。しかしながら、その再帰的な運動は、その原理に従うならば、多元主義とは折り合うことができない、絶対的なものを奉じることによってアイデンティティへの欲求を満たそうとする「反転した」方向にも作動しうるのである。

こうした困難を抱えたグローバリゼーションという現象に対して、その「行き止まり」に突き当たった多くの論者は、彼らの社会理論を「政治化」する方向にシフトしている。と同時に、政治化された議論には、往々にして宿命論的な「予言」という色彩がついてまわるのである。

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と、言う。

多元主義と原理主義のいい塩梅、いい加減はなのだろうか。
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by ogawakeiichi | 2013-04-17 07:28