ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

<   2014年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

文字の美・文字の力

おおっぴらには言えないのだが、某プロジェクトが発動して約1ヶ月。尊敬するデザイナー「杉浦康平さん」の担当だ。←おおっぴらに言えないならブログに書くな!。(笑

杉浦康平のデザインにはじめて触れたのは、ぼくがインドから帰国し、モノつくりを目指して飛び込んだデザイン事務所でのことである。←どちらかといえば、伝統工芸に惹かれていたのに、当時のデザインは資本の毒に侵されていた。

まず修行といえばデザイナーのアシスタントからなのだが、仕事といえばデザイナーが指示した文字指定を写植屋さんへもって走り、文字の打ってある出来あがった印画紙をもらいに行くのが主な仕事だ。

帰りはだいたい、深夜26時を過ぎていた。おかげで、文字についてかなり詳しくなっていた。いまでも、文字の書体、大きさ、行間は100%当てられる!。

そのなかでも特に、書体については詳しい。←パソコン書体が出現して、ちょっとあやしいかも・・(笑

当時、写植機のメーカーである写研から正月が近づくと驚くほどの緻密なデザインとあわせのキャプションで、ゾクッとする美しさのカレンダーが贈られてきた。そのデザインが杉浦康平だったのだ。

杉浦康平デザインのカレンダーシリーズ「文字の生態圏」が、欲しくて欲しくて、写植屋さんになんでも言うことを聞きますからカレーンダーをくださいと日参し、やっと手に入れた思い出がある。←もうひとつの写植メーカーであるモリサワは、たしか、田中一光デザインだったような。。。

そんな杉浦さんが、当時のカレンダーシリーズの一部を再構成して出版したのが、この『文字の美・文字の力』である。

f0084105_11269100.jpg

=======

●文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものだった。

●漢字は象形文字だと言われているが、その成立過程を考えてみて、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現するといった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、それが文字に生気をあたえている。

●漢字は書き手が全身を開いて自然と向かい合う。自然に潜む、不可視のざわめきをとらえきる。その結果が、漢字という文字のかたちに結晶している。つまり、漢字は自然の「かたち」をうつしとり、そのかたちに自然の「いのち」を吹き込んで産みだされた。

●文字にとって大事なことは「声の乗り物」だということだ。ただ単に目で見るだけではなく、人間の音声も写しとる。


==========

パソコンや携帯メールなどが普及した現代は、文字と人間の関係が激変した時代だ。

文字は書くという行為から、キーボードを打つという行為に変わり、そのため、かって文字が包み込んでいた生命力、身体性は、余分なものとして消え去ろうとしている。だが、一方で文字の魅力を新しく見直そうとする取り組みも始まっている。単なる記号に止まらない、記号性からはみ出した文字の活力を再発見しようとする動きになっていく。

アジアの漢字文化圏の日常や伝統図像に息づく、人々の祈りが込められたさまざまな文字のかたちをグラフィックデザイン界の巨匠・杉浦康平が豊富なヴィジュアルとともに読み解く国家、民族、そして現代の電子空間を超えて響きあう文字の生命力を解き放つ一冊です。



[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-29 04:48 | 情報とデザイン

アブダクション

f0084105_23293121.jpgアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。従来的帰納法からは斬新な新理論、イノベーション(あらたな価値の創造)は生まれない。論証を行うだけである演繹法からももちろん、新しいアイデアや新しい理論は生まれてこない。

記号論の王様、チャールズ・パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があると指摘した。

アブダクションとは、説明すべき事実に対してたくさんの仮説を立てて、その中からもっともらしい仮説を選び出す拡張的な推論プロセスである。たしか松岡正剛は『当て推量』と言い換えていたような気がする。

パースは分析的推論として【演繹】があり、拡張的推論として【帰納】と【アブダクション】があると整理した。アイデアや新しい仮説はどうやって生まれるのか。そのあたらしい考え方がアブダクションである。

ウィキペディアによると、帰納(きのう、Induction)法とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法のことで、対義語には演繹法がある。演繹法においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。

アブダクションは帰納に含まれるものであるが、帰納のなかで創造性の高い拡張的推論であり過謬性の高い、論証力の弱い推論でもある。だが、パースによると既存の枠組みを超えるイノベーション(あらたな価値の創造)を生み出すために不可欠な、もっとも優れた推論だと高く評価した。
ここで、思考のプロセスである代表的な演繹と帰納を整理しておく。

●演繹(deduction)
-----------------------------------------------------------------
<前提1> AならばBである。 

<前提2> Aである。

<結論> Bである。



●演繹ではない推論(広い意味での帰納 induction)

1.枚挙的帰納法(狭義の帰納)
-------------------------------------------------------------------
<前提1> a1はPである。

<前提2> a2もPである。

<結論>
(たぶん)全てのaはPである。




2.アナロジー(類推)
--------------------------------------------------------------------
<前提1> aはPである。

<前提2> bはaと似ている。

<結論>
 (たぶん)bはPである。


3.アブダクション
------------------------------------------------------------------
<前提1>
 aである。

<前提2>
 Hと仮定すると、aがうまく説明される。


<結論>
 (たぶん)Hである。


「アブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままにブレストするように提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている」

仮説はどこから生まれるのか?仮説は頭の中から自然と涌いてくるものだ。そこには何の法則も根拠も見えない。そこには、ただただ思いがけない創造的な飛躍がある。

なぜヒトは「ひらめく」ことができるのか?。なぜ人間は創造性を持っているのか。それは進化生物学的に説明がつくとアブダクション研究者は考えた。生きていくための問題をとくためには発想力が必要だ。アブダクションは人類進化の過程で自然に適応するために人間精神に備わった「自然についての正しく推測する本能的能力」であると考えた。

アブダクションでは、そうした「示唆的段階」で生み出したたくさんの仮説(アイデア)の中から、

1 もっともらしさ もっともらしい理にかなった仮説
2 検証可能性 実験的に検証可能な仮説
3 単純性 より単純な仮説
4 経済性 実験に経費、時間、思考、エネルギーが節約できる仮説

という基準で、もっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟考的段階に進んでいく。アブダクションという厳密でない推論こそ人類の叡智の中核をなす能力と言える。人間には創造性が進化の過程でビルトインされている。


参考引用サイト・http://www.ringolab.com/note/daiya/
[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-27 11:21 | 情報とデザイン

ブランドとしての名所

f0084105_103327100.jpgなんちゃら起こしや、地域ブランドやらが近辺をウロつきだしてしている。付箋紙もったファシリテターやコンサルが登場し、紋切型で去っていく。

デザイン系でもデザイン思考として付箋紙を使ったエスノグラフィーをやるにはやるが、そこにはカタチ誕生までの責を負う。場所のブランドとはいったいなんでしょう。“日本流”からの一考察。

============

さて、さて、日本では場所のブランドのことを「名所」とよぶが、この「名所」の発生というものなかなかオツなもので、誰が言い出したのははっきりしないのに、いつのまにやら人の口の端にのぼり、それが、次第に公衆のイメージマップの重要スポットになっていく。

しかもいったんそうなると名所としての地位は断然ゆるがなくて、そこへ次のイメージが連鎖され、物語がついてくる。

つまり、ブランドとしての名所は『情報の現場的発生』であり、『情報の現場的編集』を促すきっかけでもある。

日本でも、名所はおおむね古代歌謡や和歌とともに発生していった。

歌謡や和歌に詠まれたスポットがしだいに名所になっていった。

裏返せば、そこに名がつくから名所なのである.

ぼくが10年余りをすごした中国華南の桂林は山水画の世界がそのまま残る世界ブランドの観光地である.

中国では、桂林と聞けば南宋の詩人王正功が詠んだ詩句が、パブロフの犬の如く人民の口から放たれていた。

北京や上海で桂林に住んでいるといえば、知識人のほとんどが『桂林山水甲天下・・』と謳い始める。

桂林へ行ったことのない人までが『桂林山水甲天下・・』。

こりゃあもう、詩句に想起された名所ブランドだ。

その後、名所にはたくさんの物語がつくられていく。そのなかでも“劉三姐”の物語

この桂林にある観光系総合大学にいたことたことから、名所ブランドから派生した“物語”からの幾つかのビックプロジェクトを垣間見てきた。

そのひとつがこれ


===
張芸謀プロデュースの超ビックスケール観光開発プロジェクト「印象劉三姐」ショーは、構想に5年5ヶ月を費やし、着工3年後の2004年3月20日、満を持して公開され、現在まですでに20万人以上の観客を動員している。←2004年で20万人。。。

桂林・陽朔の美しい山水画の世界をそのまま自然の舞台とし、さらに伝説の歌手「劉三姐」を融合させた大掛かりなショーの舞台は、2キロにわたる漓江水域とその背景にある12の山で構成されている。その自然の舞台に国内最大規模の照明技術、音響、演出効果を加え、さらにエキストラとして出演する600名ほどの地元の漁民、少数民族の娘たちが華を添える。演出のテーマは伝説の歌手「劉三姐」をメインとし、広西の少数民族風情、漓江のいさり火の風景などを組み合わせ人と自然の調和をあらわしている。
==

多くの名所は名句に詠まれ,名物を生んで、経済文化のスポットにもなていく。そこが、『価値が生まれる現場』であり、『価値を編集する場所』つまり、価値が湧出する場所である。

個人的には、自分が好きなモノを選ぶので、たまさかブランドだろうが無かろうがこだわりは無いのだが、どちらかというと、センターのよろず屋から生まれたブランドより、キワのアズマ屋が秘めたブランド力につよく惹かれるなぁ。

[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-23 11:58 | 情報とデザイン

水墨画家・高城等観

f0084105_06331829.gif
大隅の山奥、大隅湖の端っこにあるKAPICセンターにて、ALTが派遣前研修を受けていた。そのプログラムに日本文化講座というのがあるのだが、ここで水墨画の初歩の初歩を伝授してきた。水墨の起源は中国なので日本文化というには“はてな”がつくが、日本水墨は日本流の進化の特徴がある。おもに臨済系修行僧のあいだで独自に変化してきたものだ。

アタシは中国滞在中、中国100人の水墨画家にも選ばれた、大師匠“帥立功”につき10年。墨にまみれた生活していましたので、守・破・離の段階を修得していく方法は身体に染み込んでいる。で、入門レベルの伝授はおてのものでした。←自画自賛~♪。

閑話休題。

室町時代の絵画の中で最も有名なものは、多くの人々が雪舟の水墨画と答え、その中でも「秋冬山水図」「山水長巻」「天橋立図」の名前が浮かぶ人も少なくない。

現代にまで名を轟かせたその雪舟だが、その雪舟の死後、だれが跡を継ぐかという問題がおこった。

長谷川等伯は、自分こそが雪舟を継いでいると言って「雪舟五代」を名乗ったこともある。正確にいえば等伯は雪舟の直系の系譜ではない。だが、雪舟を精神の師としていた。

雪舟の直系には『雲峰等悦』がいる。明にも同行したと思われる画人であるが、画業がしっかりしない。次に上げられるのは『秋月等観』だ。『秋月等観』は薩摩の武門の出で、戦乱が元で雪舟のところへきた。のち入明もした。

実は、この『秋月等観』だが、またの名を『高城等観』という。
その秋月の出身地が現在の薩摩川内市高城町である。ちなみに祖父の出身地。


高城集落は、いまでこそ京セラの工場があり、集落へと通じる道が拡張されてはいるが、祖父の自転車の後ろに乗って、よく連れて行ってもらった当時は、田圃の広いあぜ道が一直線に続き、まだ茅葺屋根の家々が杜の周りに点在する農業のムラだった。

こんな小さな集落に、雪舟の直系、それも筆頭弟子に近い人物が存在してしていたのだ。加えて、当時の中国である“明”にまで渡った水墨画家となると、これはもう、やぶさかではない。祖父は水墨画を書きながら、庭師を営んでいた。ちなみに戦中、中国へ渡っている。

『高城等観』『祖父』『アタシ』のこの三人には、“過疎の高城集落”、“水墨画”、“中国”、この三つの共通するキーワードがある。こんな相似律なんて、こりゃあ、覚悟のシンクロだ。だから、雪舟直系一番弟子・水墨画家『高城等観』のDNAは祖父を経てアタシにまで来ている!。うん。

この『高城等観』の動向と消息だが、これは、鹿児島市立美術館の学芸員・山西健夫さんの“薩摩の絵師たち”(春苑堂出版)に詳しい。山西さんはアタシを九州の新人作家の登竜門である英展に推薦してくれたひとでもある。(※ちなみに英展は九州各県を代表する学芸員が各県3名を推薦しておこなう展覧会。)だから、高城等観~祖父~ぼく。と繋がる水墨の系譜を暗喩してくれた山西さんの結びの縁起もやぶさかでない。

秋月等観(高城等観)は雪舟の直弟子である。水墨画、とくに雪舟の描く水墨画は、硬く厳しい表現で知られているが、秋月は多くの弟子たちのなかで、とりわけこの厳しい表現を受け継いだ絵画として知られている。

秋月等観の生没年については現在明らかでない。ただ『古画備考』の「秋月画竜頭観音、落款行年六十七歳入唐秋月筆」や「在唐三年秋月七十歳」の記事から、かなり長生きをした人物であるようだ。

鹿児島には伊地知季安が編じた島津家に関する資料を集大成した「旧記雑録」がある。そのひとつに「忠治様御代御寄合座身体」のなかに秋月老中という名をみる。

もうひとつは「忠隆之御代、座敷」という文献で、渋谷家が島津家を訪れた座席を示したなかに高城秋月という名前を見ることができる。

江戸時代の高名な狩野派の画家、狩野永納の「本朝画史」には島津家に使え、後年僧になったことが記されている。

雪舟の友人でもあり、島津家に招かれ、この地に薩南学派とゆばれる儒学の基礎を築きあげた

桂庵玄樹』(1427ー1508)の『島陰漁唱』の記事には、秋月禅僧は薩摩生まれで、中洲に遊芸して年すでに久し。もっぱら雲谷翁(雪舟)を師として、画工を究めその妙となす。壬子(明応元年1492年)の秋、錦旅をもって栄となす。と記載されている。すなわち、ここから秋月は雪舟を師とした画僧であることがわかる。この中に書かれている中州とは、雪舟の活躍地である山口である。

武士である高城重兼が、どうして画僧秋月として雪舟の弟子になったのだろうか。某合戦の最中行方不明となり、山口に赴いて、雪舟の弟子になったという説もあるが、詳しくはわからない。

秋月等観は、明応元年(1492年)に薩摩に戻る。

当時の薩摩は島津家を中心として高い文化を誇っていた。それは前にも触れた、桂庵玄樹を中心とした薩南学派と呼ばれる儒学の興隆があげられる。

秋月登場以前にも、鹿児島には絵画は存在しているが、それは原始時代、日本全国に共通した造形感覚がまだ成熟していない線刻画であった。その後は、藤原時代に中央から入ってきた仏画などであって、鹿児島人の気質が発揮され、日本の美術史の中で独自性をもち、中央との交渉も見られるような絵画ではなかった。

これに対し、秋月の水墨画は、雪舟の水墨画という当時、日本でもっとも優れた絵画に源がある。さらに秋月は、水墨画を薩摩に伝え、この地で多くの弟子を育成した。

雪舟の水墨画は硬質の線で構成するものが多いのだが、この硬質の線をもっとも忠実に継承したのが秋月であるとも評されている。

硬く厳しい雪舟の水墨画を継承するということは、秋月の個人的資質に起因することであるが、たぶんに秋月が武士の出身であることが硬く厳しい絵画のスタイルに影響を及ぼした可能性もある。桃山時代の織田信長や豊臣秀吉にしても、その最も重要な生活空間を厳しい水墨画で飾っている。現在、石川県立美術館が所蔵する無款の『西湖図』は秋月の筆であると考えられる

鹿児島は剛直な武士的精神をもっとも強く持っている場所である。その伝統が『武の国』鹿児島といわれる由縁でもある。

そんなことからから、鹿児島の絵画史のはじまりは鹿児島の郷土性にもっとも深く関係した水墨美術が成立することになる。

さらに、この水墨画の伝統は、単にこの時代だけではなく、その後の江戸から明治に受け継がれていく。武士的精神に関係した水墨画の剛直な表現は、江戸時代の木村探元の厳しい狩野派の絵画、明治時代の黒田清輝、藤島武二の骨太の表現とも決して無関係ではない。

すなわち鹿児島の絵画史の始まりは、秋月等観の雪舟系水墨画である。

その系譜の直系がアタシなのである。

お・わ・り。


謝謝大家


[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-22 06:23

惟宗と島津

ライフワークは大まかに幾つかの柱があるのだが、その柱の一つに、「ユーラシアを俯瞰する」というテーマがある。海外生活が10年を越えたことの節目に、ガツンと腑に落ちるまでユーラシアから「日本の方法」を知りたいと思った。

しかし、なんとなくアタリはついているものの、アブダクションの確信だけはあるものの、大概は確信となるモノに出合わないまま、それ以上進めないことの連続である。

目の前にあらわれた現象も、とっとと忘却の彼方へと飛び去っていく。しかし、そこに記録が残ると、なんらかの蓋然性は高くなる。歴史のゆらぎにおける,『ときの記憶の痕跡』,一次資料となれば、偽物の可能性を含めてもそれはそれで、興味をそそる。

ところが、この一次資料として残る古文書というもの、まったく異なる言語の様で、おいそれとは崩せない。しかし直接、一次資料を読めるってことは、おいらみたいなヤツにとっては、けっこうA10神経系をそそられる。もちろん専門家が書く二次資料や小説でもいいのだが、本モノといわれるものにぐっと対峙したくなる。ああ、壮大なる無駄なことだとおもいながらも、この無駄に至極の創発を求め彷徨したりするわけだ。

初めて中国語に触れたこときのような感覚で、鹿児島の歴史資料センター「黎明館」で古文書をひいひい言いながら、弄くり始めていたときのこと。

初っ端に出合った資料が、やってきましたぜ!いきなりヒット。長年探していた島津の殿様が「惟宗姓」で、島津という名称は現宮崎県都城市である島津荘の荘園管理を源氏から拝命をうけたところからの命名を示す資料である。なかでもこの『惟宗姓』にはそそられるのだ。(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

f0084105_1127940.jpg

(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

======
<島津氏>
鹿児島県・歴史資料センター「黎明館」等によれば、島津氏の元祖は、京において渡来系の秦氏の流れを汲む平安時代の人で、中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子の惟宗忠久という。惟宗忠康は京の藤原摂関家筆頭の近衛家に仕えて、日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘園の経営者(家司職)として薩摩下向。鎌倉時代のはじめ、その子「惟宗忠久」が源頼朝から島津庄の地頭に任ぜられ、地名の「島津庄」の名をとって「島津忠久」を称したのが始まりという。

最近、歴史作家の桐野作人氏のブログ「膏膏記」(2008.05.04)に遭遇した。そこに紹介されている薩摩の中世史に詳しい三木靖氏(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)の説によれば、島津氏は、初代忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代忠時も同様に鎌倉で没し、三代久経は、元寇のとき北九州で没している。四代忠宗も北九州にいたことが確認されている。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは、五代貞久以降であるという。

また、史実に基づかない「惟宗忠久」の伝承の根源は、『山田聖栄自記』にあるという。定評のある史料であるが、一方、これが忠久の「偽源頼朝ご落胤説」(ただし三男)の端緒とも言われる。そして、島津氏出自の扮飾や島津発祥地の伝承が、『山田聖栄自記』から出発して『島津国史』や『三国名勝図会』などへの影響に基づいているという。世間を賑わすこの出自の混乱は、江戸時代後期、とくに「島津重豪」時代の特徴で、重豪が、自身で「鎌倉に源頼朝と島津忠久の墓を建立」したことは顕著な工作の一環という。

更に、同様に、島津氏発祥の地「出水説」や「都城説」も、この史実から離れた『山田聖栄自記』に基づいて主張されている。史実に基づけば、島津初代忠久から四代島津忠宗までは、生涯、鎌倉在住であったことから、「島津氏の真の発祥地」は京都もしくは鎌倉と言うのが真相のようである。

なお、私見ながら、島津氏始祖「惟宗忠久」が、京において中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子であったという出自は、島津氏の本来の家風と文化が、知識・歴史・宗教・文化などいわば、「武家」よりも「漢籍に強い学者・知識人」の強い色彩を彷彿とさせる点で、その文化的な特質を感じさせる。このような視点は、幸にも火災などの災難から守られて、現在の鹿児島県立図書館や鹿児島県歴史資料センター・黎明館などに見られる室町・戦国時代からの島津氏の膨大な歴史・文化・資料の蓄積・整頓状況に驚かされることで、半ば証明されるように感じられる。

いずれにしても、島津氏は、「本来、藤原房前を元祖とする京の藤原北家・摂関家である近衛家を、主に経済的に支えて護ることを使命とする家門」の惟宗氏であったと見ることが出来る。すなわち、島津氏は、日薩隅において京の摂関家・近衛家の利害関係を代表し、表裏一体の立場の家門であったと考えられる。
なお、北家祖・藤原房前は、南家祖・藤原武智麻呂の弟。

http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/obitatakai.htm
=====
この惟宗の姓って、ユーラシアを旅して日本へやってきた秦氏である。秦氏といえば、藤原家。まあ、これを書き出すと、日本の裏に係わるカタチにまで及んでしまい、書ききらないのできょうは「パス。。

黎明館にはとんでもない一次資料がどっさりあるのである。









[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-21 06:14 | 日本史&思想

時間のデザイン‐16のキーワード

f0084105_930237.jpg
紙媒体、主としてグラフィックデザインを生業としていた当時、工業系や建築系のデザインにはなかなか立ち打ちできなかった。職人派建築士の書いた設計図にデザイン的な視点でディレクションするだけで、“手を動かし口も動かすデザイナー”を目指していた当時にとって、資格制度である建築デザインには忸怩たる思いが湧き出ることもあった。

高校時代デザインに目覚めた我が長子に、デザインやるなら建築家だよと示唆したこともある。蛇足だが、その後、長子はデザイン工学科の建築へ進み、磯崎新の孫弟子で一級建築士だ。

この本は早稲田大学の建築科、渡辺仁史研究室が設えた。早稲田の建築といえばさっと思い浮かぶだけでも吉阪隆正・石山 修武・栗生明・内藤廣、最近では 坂口恭平など建築界のスターが揃う。

昨今デザインと呼ばれるものが氾濫しているが、そのなかでも「都市・建築デザイン」はデザイン界の上位レイヤーに君臨している。長時間にわたりヒアリングし、予算とアイデアのなかで、数次元で対象を観察、数字(記号)に置き換えて、構造から構成までをやってのけ、そのうえ熾烈なプレゼンテーション、納期というリアリティーを通過する能力が求められているからだろう。平たく言えば、建築できればどんなデザインもできるということだ。

早稲田大学の渡辺研究室では、研究課程や成果を文字としてだけではなくダイアグラムとして可視化してきた。そのなかでダイアグラムをもっとも鮮やかに表現する切り口として「時間」というキーワードにアタックした。

わたしたちの生活の中には人間・空間・時間という3つの大切な「間」がある。これまで建築計画では人間と空間という世界が主流であったが、情報メディア技術によって時間に対する視点が空間デザインに要求されるようになってきた。

人間を時間という概念で捉えると、その行動の推移が空間の状態を反映していることがわかる。また、空間を時間という視点で捉えると、そこには情報が不可欠であることが明らかになってくる、さらに人間と空間とのかかわりを評価する指標として健康が挙げられる。このように3つの間を通して建築の世界を見直していこうとするのが本書である。

さて時間の概念を導入して、新しい空間デザインを試みるとはどういうことだろう。

我々の生活を鑑みると(いつ、どこで、どのくらい、なにを、どうかわったか)という日々を過ごす。その行動を視角的表現していくことが時と間の融合にあるあたらしい空間デザインだ。

膨大な行動調査のデータのなかから「変化」を捉え、動きの履歴の中に共通する特徴や、ルールを見つけ、そのルールうぃ汎用的なモデルにして「デザイン」を立ち上げていくこと。それが「時間をデザインする」ということである。

この本では16の視点から時間を読み解き眺めている。
なお、→は、私的に記した要素のエキスなセンテンス。

◆16のキーワードーーーーーーーーーーーー

●瞬間→際立つ一点に注目する。
●履歴→履歴を振り返り乗り越えていく
●同時性→その場の状況により即興的。
●速度→意識の発火を促すサイン計画
●一時的→無常、一期一会の仮囲い
●持続→サスティナビリティーを支えるシステム
●遷移→文脈をよむ
●進化→時間の「からまりしろ」から生まれる
●シークエンス→軌跡から意図や無意識を読み解く
●軌跡→行動をデザインする
●転換→表裏一対のデザイン
●リズム→都市の奏でるリズムを再編する
●蓄積→集めた情報から新しい関係性
●密度→疎と密を作りだし、情緒をくすぐる
●予測→シュミレーションしてみる
●歪める→伸び縮する時間の襞を表現してみる。

お・わ・り





[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-20 17:23 | 情報とデザイン

デザインの小さな哲学(松岡正剛千夜千冊から)

f0084105_1538549.jpg
昨今、資本の一端を担うデザイン、とくに広告系のデザインに対して名状しがたい違和感を感じていたのだが、松岡セイゴー先生・千夜千冊「小さなデザインの哲学」を読み、モヤついていたわたしのデザイン地平が少しばかりクリヤーになりつつある。※本書も読んだが、松岡解説・千夜千冊の方が数倍エエです。

“デザインの小さな哲学”を書いたヴィレム・フルッサーは【デザイン】(※ここでいうデザインは構成化・意匠化のこと)を、「記号」をアウトプットし、記号の背後にあるものを前へと押し出す「脱しるし化プロジェクト」として捉えていた。

フルッサーの考える「脱しるし化プロジェクト」とはなんなのでしょう。ここでいう【プロジェクト】とは、「知性が状況を変えるために投じる網(知的ネットワーク)」をその結び目ごとに、計画を前に(pro-)進めていくもの。←抽象度を上げる訓練してないと難しいかもな・

おおかたたくさんの結び目である結節点が未来の方向へぐぐっと引っ張り上げられ、リンクされた多くのラインが一堂に動き出すイメージだろう。

フルッサーが古代アジアのナーガルジュナ(竜樹)を知ってたかどうかは知らないが、ナーガルジュナの言う―「我々は森羅万象の網の結び目 のひとつにすぎない自己」――その結び目である自己の集合体である全体が「脱しるしプロジェクト」によってそろりそろりと未来へ動き出すイメージだろう。

フルッサーはまた“デザイン”を、【都市・家・家庭・身体・性・子供・技術・労働】という8つの領域の8つのプロジェクトの総体として考えた。

=====

デザインには数々の歴史的ルーツがある。生命体がもつ形態や色彩に関するものはすべてデザインの起源であり、アルタミラの洞窟や幾何学に発する輪郭獲得のプロセスも、脳の認知や身体の動作との関係から生ずる動的なプロフィールも、シャネルやプラダブティック青山店も、もとはといえば疑似生命多様体をモチーフとした。

しかし、それらの【デザインの起源】も、資本の毒に侵され次第に以下のように変化していく。

(1)生産と売れ行き曲線のなかで問われ
(2)各種メディアの相克のなかで期待され
(3)マーケティング理論の跳梁に追われ
(4)アートとポピュリズムの葛藤とのあいだで恰好をつけ
(5)クリエイターぶるデザイナーの自意識になかで勝手な紆余曲折を彷徨していく。

つまり、かくして多くのデザインは商品に接する消費者の欲情を触発するためのものに成り下がってしまったのだ。

おまけに今の時代、ソーシャルネットワークに覆われ、消費者の欲情さえも複雑化していく。そのためか、個人の意思決定さえままならず、しまいにはアクセスランキングやリコメンデーションに頼らないと購買衝動さえ起らなくなっている。

かくして誰も、大枚かけた広告デザインの“美と説得力”などには目をくれなくなってしまった。

元来どんなデザインにも、そのデザインをデザインたらしめてきた母系があった。デザインを生み出してきた民族・社会・衣食住・心理などの奥にうごめく原郷のようなものがあった。

デザインは、もともとこのような“デザインマザー”にひそむタイプやコードをもとに、デザインというモード(様式)を誕生させていた。

デザイン(design)の語源は、ラテン語の“designare”から派生した。これは「計画したことを記号に表わす」といった意味をもつ。

デザイン(design)という英文つづりのなかには、「しるし」(signum)を含んでいる。しかしここでは「しるす」ことがデザインではない。ここのところを多くのデザイナーが勘違いしているのだが・・・。じつは“de-signare”に分解してみると、語源的には「脱(de)-しるし(signare)」ということだ。

ラテン語の“designare”の意味は多義にわたり、「意図・狙い・プランニング・陰謀・形にしようとする作業・装う・スケッチする」などなど戦略的に処理するといったニュアンスだ。つまり、デザインにはもともとトリック的な策略や詐術まで含まれていた。

つまり、ピラミッドや観音菩薩、トロイの木馬をつくりだし、見るものを作戦的意図をもってに驚かせること!

それがデザインであった。

数学が科学、戦争や機械の意味理解が深まらせその文脈によりモノ・コトを誕生させるのが本来のデザイナーなのである。

ピタゴラスが直角三角形の解法を見出し、インド数学が「ゼロ」を導入して以来、数学は自然についての理解の計画を数学記号に置き換えるということをしてきた。これは実のところエディティング=デザインとしての数学的なレトリックであって、トリックなのである。

かってデザインは魔術や呪術であった。デザインは個人センスを磨けばいいというものじゃあない。デザインのインスピレーションはもともと民族や歴史や社会の文脈から記憶として立ち上がってくるものなのですよ。(参照:松岡正剛千夜千冊)
[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-19 02:59 | 情報とデザイン

荘子と恵子

荘子と恵子が濠水のほとりに遊んでいた。

荘子「鯈魚が出でて遊び従容ようとしているが、これは魚の楽しみである」。

恵子「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」。

荘子「きみはわたしではないのに、どうしてわたしが魚の楽しみがわからないとわかるのか」。

恵子「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない。きみももとより魚ではないのだから、君には魚の楽しみがわからない。僕の論法は完全無欠だろう」。


それに対しての荘子の最後のセリフ

「荘子日。請循其本。子日、女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」


さて、これをどう訳す?。

一番丁寧なのは、やはり中国哲学の福永光司訳・・

 そんな言葉の遊戯は止めにして、根本に立ち返って議論しよう。きみはいま僕に魚でないのに魚の楽しみなどわかりっこないといったが、それはきみが僕に魚の楽しみの分かっていることを知っていて質問したのである。すべて真実なるものは人間の分別知や言論では捉えることはできず、議論を超えた境地で体得されるほかない。きみが議論の上で肯定するにせよ否定するにせよ、きみ自身は議論を超えたところで僕の知っていることをすでに理解しているのであるから、それと同じく、僕はまた魚の楽しみをこの濠水の橋上にいて議論を超えた境地で理解するだけである。


ふたりの決定的な違いが言葉の端々にある。
[PR]
by ogawakeiichi | 2014-08-08 11:43 | アジア史&思想